13.综合楼
大連であろうと旅順であろうと、気候がそれほど変わることはない。夜は寒く、海が近いので強烈な浜風が容赦なく肌を切り刻んでくる。ずっと外にいたら、耳なんて無いも同然な気がしてくる。だから冷蔵庫なんてものは必要ない。窓を開けて、ベランダに置いておけば勝手に冷えてくれるのだ。
温もりすぎる床暖房の中にいては頭がぼうっとしてしまって仕方がない。そんなときにスイカ味の炭酸飲料をぐっと喉に流し込むと、遠い夏の日を思い出して少しスッキリするものだ。
新学期は3月初旬に始まる。それまでのひと月とちょっと、俺とジャスミンは同じ空間で同じ時を過ごすことができる。とはいえこんな田舎にいてはどこに行っても日用品屋さんや八百屋、肉屋、魚屋くらいしかない。あとはカフェが有るくらいか。良く言えば勉強に集中できる環境だが、悪く言えば暇で死にそうだ。ジャスミンは同棲開始から3日で早くも「无聊死了(暇で死にそう)」を連呼している。
別に娯楽が0であるということはない。部屋の中でインターネットに繋げばある程度の情報を頭に入れられるし、外で散歩したりすれば良い。ただ、それくらいしかないから、3日でもうほとんど回り尽くしてしまったのだ。
意を決して旅行にでも行こうかとも思ったが、せっかく二人で“生活”できるのだからもったいない気がして、暇つぶしの候補から外した。しかし今日も二人は部屋の中でダラダラ過ごしている。同棲なんてこういうもんなのだろうか。なんか思っていたのとちょっと違う気がしなくもない。ベッドの上に座ってネイルの色を確かめているジャスミンを見られるだけでも幸せなのだが。沈黙を覆すため、俺は口を開いた。
「你今天做什么呢?(今日何するの?)」
「看书?(勉強?)」
「哇,好学生诶(わぁ、良い学生だね)」
「但还没开始(でもまだ始めない)」
「什么时候开始?(いつ始めるの?)」
「明天(明日)」
「哈哈」
こんな感じの会話で場をもたせようとするも、なかなか続かない。部屋の中に充満するコーヒーの香り。パソコンのスピーカーから流れるジャズのプレイリスト。ジャスミンは自分の好きな空間を自分で創り出し、俺はそれを受け入れるのみ。でもコーヒーの香りだけじゃカフェインの効果は無いようで、一日中ずっと眠たい気がする。ちょっと気分転換に出かけるか。
「我去综合楼逛一逛,你有没有要买什么的吗?(じゃあちょっと総合楼回ってくるけど、なんか買いたいものとかある?)」
「那,买给我电影馆吧(じゃあ、映画館買ってきて)」
「那太贵了! 我给你小小的电影馆(高すぎるわ! 小さい映画館をあげるよ)」
そう言ってベッドの上に座る無防備なジャスミンにノートパソコンを手渡すと、大きく口を開けて笑って軽くキスしてくれた。二人のファーストキスがこんな場面で良いのかよ、と思ったものの、これはこれで自然で平和で良いな、とちょっと興奮した。
大連外国語大学は敷地内ですべての生活に必要な最低限のものが揃うようになっている。スーパーはもちろん、パン屋、食堂以外の様々な軽食屋、携帯ショップ、パソコン修理屋、本屋、散髪屋など様々だ。今日は散髪屋に行ってみる。大連市内だと日本人向けに日本語が通じる場所があるが、ここにはそんなものはない。髪型は重要だからここだけは日本語を使ってもいいっていう自分ルールを作っていたけど、今日はそれをあえて破壊する。チャレンジの日だ。
店に入ると迎えてくれたのは当時流行っていた“飞机头(飛行機頭)”と呼ばれる、側面を刈って前髪を大きく前にそそり立たせる髪型の男性店員。席に案内され、どんな髪型にするか聞かれた。
「短一点」
ちょっと短くして、と頼んだつもりだった。ところが気付いたときには床にどんどん俺の髪の毛が溜まっていく。嫌な予感がしてきた。頭は予想よりもだいぶ軽くなった。そして店員が嬉しそうに合わせ鏡を見せて、完成したと言った。坊主にされていた。
確かにニュアンスは曖昧だったかもしれない。ちょっと短くして、というニュアンスを、ちょっとだけしか残さないくらい短くして、というふうに捉えられたのかもしれない。実際、旅順校区の周りの店のおじさんはこんな風な坊主頭が多く、そうしたいという要望も無くはないのだろう。これではまず帽子がないとこの寒空を耐えられないし、さすがにジャスミンにも見られたくない。完全なる大失敗に、やはり冒険はするべきじゃなかったと後悔した。
散髪屋を出るとすぐに校門から出てすぐの“海鮮街”に向かった。そういう名前の通なのだが、特に海鮮が多く売られているわけではない。この中にいると自分の髪型はマジョリティであって違和感がない。現地人になりきるという点では最高の髪型なのかもしれないが、それよりも髪が有る方が格好良いと思ってしまうお年頃なので、急いで帽子屋を探すことにした。帽子屋はなかなか見つからないが、その一角に確か洋服屋さんが合ったはずだと思い、探してみると、繁盛してなさそうな洋服屋があったので飛び込んだ。急いで帽子の有無を確認すると、そこにはいくつも無造作にディスプレイされた帽子の山が。それは今の俺にとっては宝石箱だった。
一番使いやすそうな大きめのキャスケットを即購入し、頭を隠すようにかぶった。なんだか少し安心した感じもするし、慣れていないせいでかぶったことによる違和感もある。まぁ、部屋に戻るまでの辛抱だと思い、そそくさと寮に戻った。
部屋に戻るとジャスミンは机に向かってスマホをいじっているようだった。ただいま、と声をかけるとビクッとして俺の方を向き、安心したのかはぁっと息をついた。
「吓死我了」
「哈哈,不好意思(ハハ、ごめんね)」
「诶,你怎么了? 买了个帽子诶(え、どうしたの? 帽子買っちゃって)」
「因为是这样子」
そう言って帽子をとってみると、ジャスミンはoh my godと拍手しながら大笑い。
「你怎么了, 好可爱啊啊啊!(どうしたの、めっちゃかわいいいいいい!)」
こっちに向かって両手でガシガシ撫で回してきた。
「是什么来着,日本漫画的那个,龙珠的那个,好像诶!(なんだっけ、日本の漫画のあれ、ドラゴンボールの、めっちゃ似てる!)」
クリリンのことかー! と叫びたいが、多分ネタをよく知らないと思うのであえてそれは言わなかった。
まるで猫か子犬のようにあしらわれる俺。久しぶりにお互いにとって刺激的な時間が訪れたようで、これはこれでジャスミンも喜んでくれたし怪我の功名ということにしようかと自分を納得させることにした。
ベッドの上でまるで猫のようにジャスミンの膝枕の上で甘え、ジャスミンはひたすら俺の頭をなでて「好舒服(めっちゃ気持ちいい)」と連呼している。相変わらず部屋の中に充満するコーヒーの香りと、パソコンのスピーカーから流れるジャズ。ゆったりした時間が流れるが、ダラダラしたものではなく本当にリラックスしている感じ。ああ、これが同棲か。ともしかしたら初めて実感が湧いたかもしれない。猫の気分で欠伸をすると、ジャスミンもそれにつられて欠伸をした。幸せな時間だった。