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1.入寮


 気流の悪い所を通過すると、飛行機は着陸体制に入った。まとわりつく分厚い入道雲を突き抜けた先に、海の上に浮かぶかまぼこみたいな船がチョコビーンズをこぼしたみたいに乱れて浮かんでいる。


 宙に浮いている灰色の塊は見るからに分厚く、そこを通過する時にまた上下に揺れた。俺はこの上下の揺れにたいして、必死に座席にしがみつくしかなかった。初めての飛行機でこんな恐怖体験をするなんて。なんてついていないんだ。帰国は船にしようかと真剣に考えたほどだ。

 

 異国情緒溢れる煉瓦色の建物が綺麗に並んでいる街並みを横目に、必死に座席にしがみつく。最後に加速しながらタイヤをドンと強く地面に押し付けるまでは、本気で堕ちると思っていた。手のひらの上にはびっしょりと手汗が浮かんでいる。しがみつきすぎてシートがしっとりとしている。滑り落ちそうになりながら持ってきた日本の携帯電話を起動すると、圏外になっていた。



 大連の空は、スモッグに覆われていた。夏だというのに蒸し暑くなく、カラッとしているが、空気は重たくどんよりしている。空港に迎えに来てくれた世話役の王さんの案内で大きな触角を持った観光バスに乗り込むと、まだ午前中だというのに、そこには同じく日本から来ている留学生や、同じ日に到着予定だったと思われる白人がまばらに座っていた。


「これから学校に向かいます。そこで書類を書いたり手続きをしたりします。私はあなた達日本人の担当です。よろしくお願いいたします」


 手に持ったスマホの画面をチラチラ見ながら、お世辞にも上手とは言えない日本語で王さんは俺たち日本人に向かってそういった。同じように白人には何語かわからないが世話役の人が同じような説明をしていた。


 これから始まる一年間の留学生活。期待と不安で胸がいっぱいという、よくあるありきたりな表現は、まさにそのとおりだと思った。世話役はいるもののほとんど母国語が通じない環境。そして日本からだけでなく世界中から集まる留学生。ここからの一年間、本当に様々なことが起きることを、当時の俺はとても想像ができなかった。


 留学のきっかけは学内の募集広告だった。いつも情報を確認する掲示板の横に、交換留学生募集の張り紙を見つけたのだ。しかも行くだけで単位がもらえ、さらに学校から返還不要の奨学金まで有る。行かない手は無い。そう思った。


 日本では考えられないほどの広い道路をずんずん進み、バスが着いたのは大連市中山区。ロータリー交差点を越え、露天商が並んでいる細い坂道を進み、たどり着いたのはアパートのような佇まい。小さな門は開きっぱなしのサビっぱなし。そこに数名の中国人らしくない“外国人”たちが座ったり話したりしていた。


 生乾きの匂いのするアパートのようなその建物は、大連外国語学院漢学院。外国人が中国語を学ぶために存在する建物。大連外国語学院中山校区は漢学院のみで、その他の学院はすべて別の場所に有るという。つまり、中国でありながら中国人は少数派で、非常にグローバルな交流ができる環境だ。


 世話役の王さんに連れられてやってきた食堂で、まずは先程一緒にバスでやってきた留学生全員で昼食をとることに。ビュッフェ形式で、お盆、箸、仕切り皿を取り、順番に並んでご飯やおかずを取る。取るというより、仕切り皿を給食のおばちゃんみたいな人に渡して、ほしいおかずを指差すとそれが盛られて、乱暴に返されるというものだ。そして最後に計算係のお姉さんが計算し値段を教えてくれるというものだが、今日は特別なのか王さんが全員の食事をその都度会計してくれた。


 食後、その場ですぐにクラス分けの紙を配られ、同時に食堂の端に積まれてある教科書を帰り際に取っていくよう支持された。中国語なんて全く話せない俺はもちろん初級班。クラス分けの紙にはクラス全員の名前と席の場所が記されている。見事なまでにバラバラな国籍。多国籍クラス。もちろん日本人は俺一人だけだった。


 王さんに案内され、校舎の対面にある寮に入る。いきなりブロンドのスラッとした綺麗な金髪美女が、シャワー終わりか濡れた髪のままTシャツとホットパンツで闊歩していた。長い玄関フードのような空間には、分厚いノートパソコンで家族とテレビ電話しているラテン系の青年。そんな彼らにチラ見されながら、入寮手続きを終えた。


 部屋は二人部屋だった。ルームメイトは韓国人。前髪ぱっつんで黒縁眼鏡、そして大きく張り出している胸板。日本ではあまり見かけないようなその風貌に、思わず見入ってしまう。彼は中国語で話しかけてきたが当然何を言っているのかわからない。その様子を察してか、次は英語で話しかけてきた。俺はそれに小学校低学年でもできそうな挨拶を返し、とりあえずその場は切り抜けた。寮のベットの足元に有る自分の机に荷物を置き、ひとまず息をついた。


 大連に来てしまったは良いものの、ここで生活していくためにはまず言葉がわからないといけない。その言葉を学びに来たというのはそのとおりなのだが、なにせ英語ですらままならないとなると、コミュニケーションが取れない。中国語を学ぶと同時に、ある程度の英語を使えるようになっていないといけないということが、ここで改めて浮き彫りになった。


 とはいえ、俺だって多少の単語は覚えてきた。洗手间はトイレ、手紙はトイレットペーパー、吃饭は食事、休息は休憩。単語レベルでなら多少は理解することができる。今回のために買っておいた電子辞書が大いに活躍しそうである。


 初日は疲れてそこで頭がパンクした。初めての飛行機、初めての海外、初めての一人旅、初めての外国語でのコミュニケーション、初めて触れる異文化。鼻の奥に熱を感じた。眉間がどんどん重たくなっていき、気づけば西日が頬を叩いていた。


 不思議なことに、あんなに必死にしがみついていた飛行機のシートについた大量の手汗のような寝汗はまったくない。シーツはカラカラに乾いている。日本とは全く違う気候。そういえば同居人の韓国人は俺が入室したときには確か加湿器を炊いていた。湿度が低いのだろう。濡れた髪のまま闊歩していたあの金髪美女も、ドライヤーいらずだから濡らしたままだったのだろう。


 もう一息ついて起き上がると、周りの音が徐々に聞こえ始めた。発展途上にある中国の建設ラッシュを思わせるドリルやなんかの工事の騒音、日本より遥かに自由度の高いクラクション、露天商の客引きの声、そして隣の部屋から聞こえる情熱的なベッドが揺れる音。さすが男女共同寮、そりゃあまぁ、あるよな。そういうのも。


 カラカラに乾いた喉を潤すため共同洗面所に向かおうとしたが、途端に思い出した。ここは日本ではない。日本のように水道水を直接飲めると思ってはいけない。危ないところだった。湿度が低いせいかすごく喉が渇く。仕方なく一旦部屋に戻り、財布を持って食堂に出向いた。


 食堂には水が売っている。それが高いのか安いのかよくわからないが、とにかく中国に来てはじめての買い物体験だ。古い喫茶店にありそうな透明の冷蔵ケースから日本メーカーのお茶を見つけ、会計係のお姉さんの元へそれを差し出す。留学生相手だから言葉は通じないだろうと、何も言わずに電卓で数字を見せつけてくる無表情の彼女。数字は“2”。2元ということか。しかし俺が準備してきたのは100元札数枚と、日本円の現生のみ。細かいのがないので仕方なく100元札を渡すと、怪訝な表情でブツブツ文句を言いながら無表情で98元返してきた。しかもシワシワのボロボロで今にも破けてしまいそうなお金。これでお金として機能するのかと疑いたくなるほどの状態。そのお金を財布に入れるのを少しためらい、俺はポケットの中にそれをそのまま突っ込んだ。


 あと数時間すれば晩御飯の時間。食堂で食事が提供される時間は決まっているのでそれまではここに特に用事はないが、それでも数名の留学生らしき外国人が机に向かっていたり、発音練習していたりしている。その邪魔にはなってはいけないと、俺は食堂から中庭に出たが、そこでも歩きながら発音練習していたりしていた。自分の中でそういうことをするという考え方がなかったため、異様な光景に見えた。でも彼らは自分のお金で自分の意志で中国語を学びに来ているのである。俺みたいに1年間過ごしておけば単位がもらえて、しかも費用は日本の大学が持ってくれるようなぬるま湯につかっているような人間は馴染めそうにないと、直感的にそう思った。


 ミネラルウォーターを半分ほど飲み干して、俺はまだスッキリしない頭を精一杯使うため、部屋に戻って先程もらった教科書に目を通してみることにした。


 そうして、俺の留学生活は始まりを告げた。

 帰国まで残り、あと1年。


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