28話 氷の女王
アウレリヌス聖導国、いわゆる聖国の首都は聖都ではない。
聖国東部にある聖都テテウは神殿の総本山であり、聖女を頂点としたメセ・ルクト聖教による自治領である。
聖国の首都オレンは、テテウとは反対側、大陸西部の海沿いに位置している。
西に、両腕で抱え込むようにオレン湾を望む、首都オレン。
その街並みを見下ろす山の中腹で、聖宮殿とよく似た白亜の王宮が、夕日を浴びて赤く染まっていた。
王宮の廊下に敷かれた赤い絨毯の端を、ひとりの女官がしずしずと歩いていた。
朱色の髪をたばね左に流した、琥珀色の瞳の女官は、あまり印象に残らない容貌をしていた。
実際、誰も彼女と視線を合わせようとはしない。
しかし、彼女の姿が目に入ると、
「あっ……」
小さく声をもらして、ある貴族があわてたように道を譲った。
むろん、彼女のほうが偉い、というわけではない。
いつもそうであるように感情を見せず、彼女はその場をやりすごす。
そこに、法を読みあげるような、厳粛な声がかけられた。
「レオノーラよ。
最近、他国の商人を招いているそうだな。
魔大陸との交易もそうだが、よそ者と懇意にしている、と疑う者もいよう。
気をつけるがいい」
彼女を呼び止めたのは、そろそろ還暦をむかえようかという男だった。
白髪をひっつめた男は、灰色の冷たそうな瞳で、女官レオノーラを見据えている。
「丞相様。
陛下の望む品を用意するためなら、私ごとき、誰にどのような目で見られようとかまいません」
実にレオノーラらしい答えを聞かされた丞相のレストバル・トト公爵は、鼻を鳴らしてその場をあとにした。
聖国において、女官とは王宮に勤める侍女のことを指す。
当然のことながら、社会的な身分もそれなりに高い。
主に貴人の身の回りの世話をするのが女官の仕事なのだが、秘書としての役割をこなすこともある。
女官長であるレオノーラは、ヴィスコンテ女王の懐刀と見なされていた。
レオノーラは軽視されているのではなく、恐れられ敬遠されているのだ。
「陛下、失礼いたします。……陛下?」
女王の居室は、黄昏に燃え上がっていた。
まるでヴィスコンテ女王が王宮で流してきた血を、燃やし尽くすかのように。
代々の女王が居室としてきたこの部屋は、オレンの眺望を独り占めできる。
沈む夕日を背に、黒髪の美女がロッキングチェアに深く腰かけていた。
長いまつげがゆっくり開く。
透明な青い瞳が、赤く染まった部屋に焦げつく自らの影を見てから、レオノーラにむけられた。
ヴィスコンテ・フレイア・アウレリヌス。
氷の女王は夕日よりも赤く塗られた唇から、冷ややかな言葉を紡ぎだす。
「レオノーラ。
ナイトシフトは帝国を揺るがせず、警戒させるだけに終わったようじゃのう」
「はい。支援は無駄となったようです」
おそらく、ナイトシフトの双頭も気がついていなかったであろう。
聖国はナイトシフトに間諜を潜り込ませて、ひそかに便宜をはかっていた。
「よいよい。S級上位といわれる、あのふたりの反乱に動じなかったのじゃ。
今は好敵手たる帝國を褒めたたえようぞ」
女王は気を悪くしたそぶりも見せずに、童女のようにころころと笑う。
その表情が、レオノーラの報告を聞いて一変した。
「はっ? ……今、なんと言うたかえ?」
ヴィスコンテは目を丸くして、忠実な部下を見返した。
「カズライール伯爵が、聖都で逮捕されました」
困惑は数瞬でおさまり、ヴィスコンテの口元に、愉悦の笑みが咲き誇った。
「ほう。グラータめが、いよいよ覚悟を決めたか」
かつて同じ学び舎で過ごした青髪の聖女を思い、ヴィスコンテの顔がほころぶ。
レオノーラは困ったように眉を寄せた。
「いえ、そのような気配はないかと。
なにしろ逮捕の理由が『広場で服を脱いだ』というものですから」
とたんに、興ざめしたのか、ヴィスコンテはつまらなそうな表情を浮かべる。
「……なんと、気でも狂うたか、あやつは」
「聖都は聖女のお膝元、プレッシャーにでも押し潰されたのでしょうか」
ヴィスコンテは鼻で笑った。あざけるように言う。
「ふん、あれはそんな殊勝な精神の持ち主ではなかろ」
侮蔑の言葉ではあったが、そこにはたしかに評価も混ざっていた。
しかし、
「聖都においておけば、勝手に手癖の悪さを発揮してくれる。
そういった意味では、実に有意義な人材であった。
そうは思わぬか、レオノーラ」
女王の言葉は過去形であった。
ヴィスコンテと長いつきあいであるレオノーラには、その意図がはっきり伝わっていた。
「はい。伯爵を捕まえたのは、聖華隊ではなく聖都の衛兵。
牢も聖宮殿ではありません。幾人か手練れをむかわせればよろしいかと」
「うむ。そういえば、聖都には剣聖を派遣していたのう……」
「……使われますか」
「剣も使わなければ錆びつこう。どうせ表には出ぬ剣よ」
先代剣聖が面白半分に育ててしまった、神出鬼没の表裏の剣聖。
その思惑以上に、ヴィスコンテは双子の剣聖の利点を有効に活用していた。
存在しないはずの二本目の刃を、粛正に振るうという形で。
「仰せのままに。
聖都での工作、カズライール伯爵の後任はいかがなさいますか」
「もうよいぞ」
意外そうな顔を見せたレオノーラに笑いかけ、ヴィスコンテは、下がれというふうに手を振った。
人を遠ざけると、なにかを考えこむように、背もたれに背中を預ける。
「聖国に、わらわの敵はもうおらぬ」
太陽が水平線に沈もうとしていた。
歴代の女王が愛したという、茜色のオレン湾に背をむけて、
「次は神殿よ。わらわ自ら動いたほうが面白かろう」
身を焦がすような炎を宿した氷の瞳は、はるか東の聖都テテウを見ていた。
そこにいるであろう、頂点に立つもうひとりの女の姿を。
「グラータよ。
よもやあんな小者を捕まえたくらいで、わらわの弱みを握った、と浮かれてはおるまいな」