26話 黒幕
時は昨夜にさかのぼる。
シルフィの誘拐に失敗した侍女は、人気のない夜の聖都を走っていた。
石灰で塗り固められた街並みが、今の彼女には、出口のない迷路のように感じられる。
彼女に聖宮殿という職場への不満はなかった。
シルフィネーゼ・ノーマッドという人物に隔意があったわけでもない。
ただ、彼女は聖国の子爵家の娘だった。
実家をたてにとられれば、言われるままに従わなければならない立場だ。
――そもそも聖宮殿で次期聖女を誘拐する、というのが無茶な命令だったのだ。
いくら、この地にいるはずのない存在、警備の手薄なまたとない機会であったとしても――
咳にも似た息が、のどに張りつく。
狭い路地を走り、灯りをさけるように角を曲がってから、後ろに誰もいないのをたしかめる。
それを何度も繰り返した。
窮地を脱した、と判断したのだろう。
小さく咳を吐き出した侍女は、ようやく息をととのえる。
人目をさけ、夜に溶け込むように彼女は歩く。
やがて、ある邸宅の裏手にたどり着いた彼女は、そこで姿を消した。
その邸宅の一室は、黄金の調度品で飾り立てられた、趣味の悪い部屋だった。
聖宮殿の侍女をおそらく今夜で辞めることになるであろう彼女は、豪奢な絨毯に膝をつき、頭を下げる。
「なぁにぃ、シルフィネーゼ・ノーマッドの誘拐に失敗しただと!!」
頭に降りかかるのは、アルコール臭の混じった男の怒号。
でっぷり太った中年の男が、いらだちのままに絨毯を踏みつぶした。
金色の髪に生白い顔をしたその男は、酒精ではなく怒りに顔を赤らめていた。
「面目次第もありません」
「くそっ、今までの浸透工作が水の泡ではないか!
聖宮殿内部の間者をすべてつぎ込んだのだぞ、どうしてくれる!」
「……申し訳ありません」
「もういい、さがれ! 外には出るなよ。
出たら、お前の家もただではすまんぞっ!」
たるんだ顎をふるわせて、男は命じた。
「……はい」
女が退室すると、男は絨毯を痛めつけるように歩き回る。
男、アルベルト・カズライール伯爵はヴィスコンテ女王派の中心人物のひとりである。
少なくとも彼はそう自認していたし、実際に女王が即位してから彼の立場は高まり、重要な仕事を任されるようになっていた。
カズライール伯爵は、聖国の貴族社会において重きを置かれる、魔法の才にとぼしかった。
そんな自分が、なぜ女王に目をかけてもらえるのかを、彼はよく知っていた。
汚れ仕事である。
彼は汚れ仕事をいとわない。
女王のためになると判断すれば、自ら進んで悪事に手を染めることができた。
多くの貴族が神殿へ手を出すのをためらうからこそ、神殿の総本山である聖都で暗躍する彼の仕事は高く評価される。
「くそっ。次期聖女の身柄を献上できれば、どんな栄達も思いのままであったろうに……」
もし成功していれば、彼は首都オレンに大臣として凱旋することになっていたであろう。
「これではすべてゼロからやり直しではないか。
あれだけ金と時間を費やしたというのにっ!」
損失を計算して、伯爵はほぞをかんだ。
赤ら顔をゆがめて、テーブルに拳を叩きつける。
逃した獲物の大きさと失態の重さが、伯爵に地団駄を踏ませていた。
その踏みつけられる絨毯の片隅で、なにかが不自然な動きをした。
小さな小さな緑色の猫目石、……のように見えるなにか。
鮮やかなライトグリーンは、聞き耳を立てるため。
瞳のような模様は、のぞき見をしている証。
侍女の靴底に挟まっていた小さなスライムは、誰にも見つかることなく、絨毯に埋もれていた。
地下牢に収容されているマルコの目となり耳となり、事件の黒幕の姿を観察していた。
単身で偵察任務をつづける小さなスライムに、増援が送られたのは、夜明け前のことであった。