22話 聖宮殿の夜
公演を終えた劇場を思わせる、静かな夜だった。
黄みがかった魔法の灯が、闇に沈みそうな白亜の聖宮殿をほのかに浮かび上がらせている。
そこから少し離れた裏庭では、ひとりの少女が月光浴をしていた。
冷涼とした風に、翠銀の髪が揺らいでいる。
名画を切り取ったような、美しい光景であった。
ついさっきまで、その少女が、おいっちにーさんし、と準備体操をしていたのを見ていなければ、だが。
「さて。体は普通に動くみたいですね」
体の調子をたしかめてから、シルフィはそうつぶやいた。
帝都で石化してから聖地で目覚めるまでの約一週間で、シルフィのレベルは三七から四〇に、一気に三つも上がっていた。
ひところ、上がらずに悩んでいたのが嘘みたいだ。
レベルを鑑定したマルコは「それだけ負担が大きかったんだろ」と心配げに、眉間にしわを寄せていた。
レベルアップそのものはうれしかったものの、素直に喜びづらい雰囲気でもあった。
それになにより、アクシデントで上がったところで、そこで打ち止めでは意味がない。
鍛錬あるのみ、と気合いを入れて、シルフィは全身に気をめぐらせる。
神経が、五感が研ぎ澄まされていく。
目に映るのは、聖地の森をそのまま切り取ったような、手入れの行き届かぬ鬱蒼とした木々。
夜風がそよぎ、葉擦れの音が耳に大きくなる。
そこに異音が混ざっていた。
自然の音ではない。
不自然な、人の色がにじむような音だ。
メアリーの入浴中に、ひとりで部屋を抜け出してきたのは軽率だったろうか。
しかし、メアリーはシルフィが鍛錬していると、あまりいい顔をしないのだ。
聖女らしくない姿に見えるのだろう。
シルフィはため息をついて、神官服のそでに指を這わせた。
呼気をととのえてから、暗闇に閉ざされた森のなかに声をかける。
「そこで隠れているかたは、どちら様ですか?」
反応はすぐにはなかった。
だが数秒待つと、木陰にひそんでいた女性が姿をあらわした。
暗がりからシルフィの様子をうかがっていたのは、騎士のよそおいをしている女性だった。
騎士といっても鎧ではなく、典礼用にも見える華やかな、朱色の衣装である。
剣も帯びている。
聖宮殿内で帯剣が許されている、ということは聖華隊の一員だろう。
聖華隊とは、聖女の身辺と聖都の治安を守る、女性だけで編成された神殿独自の騎士隊である。
その忠義は聖女に捧げられているはずだが、ことはそう単純ではないようだ。
剣呑な雰囲気を感じとって、シルフィは眉をひそめる。
「これは失礼をいたしました。シルフィネーゼ様」
言葉づかいこそ丁寧だが、金髪を肩の高さで切りそろえた女の態度は、慇懃無礼そのものだった。
彼女はゆっくりと歩み寄ってくる。
その顔には、ほの暗い優越感がちらちらと見え隠れしていた。
優位を確信している顔に見えた。
シルフィは見惚れるような笑顔を浮かべた。
「聖華隊のかたはこんな場所も見回りをしているのですね。
それとも、私になにか用事でもあるのですか?」
月光をたたえたかのようなほほえみに、金髪の女がたじろいだ。
女が躊躇したのは、ほんの一瞬だった。
そのととのった顔はすぐに、決意と覚悟に硬くなった。
「ええ。少しお話につきあっていただけないかと」
金髪の女がさっと手を上げた。
森のなかから、なにかが投擲されたのは、ほぼ同時だった。
投網。
確認するやいなや、シルフィは地面を踏み込んでいた。
「フッ!」
鋭い呼気とともに、腰から肩へと力を伝える。
すでに拳は握られている。
その華奢な拳から衝撃波が放たれて、頭上に広がろうとしていた投網を撃ち落とした。
「私を狙ったところで無駄ですよ」
シルフィは強気にそういったが、襲撃犯はひとりやふたりではなかった。
暗がりから次々とあらわれる襲撃者、その数は五人。
いずれも帯剣している。
聖華隊の規律はどうなっているのか。
内がこれでは、外からの侵入者を防いだところで意味がないだろう。
シルフィは頭痛をこらえるような表情で、次の一手に集中する。
相対するのは聖華隊の騎士五人。
聖騎士ほどの手練れではないだろうが、れっきとした現役の騎士だ。
客観的に考えると、相手がひとりでも勝てるかどうか。
ふたりを同時に相手取るのであれば、逃げるのも難しい、といったところだろう。
つとめて無表情に、シルフィは身構える。
金髪の女も、いつでも剣を抜けるように構えた。
「勇ましいことですね。さすがは『初代聖女の再来』といったところで――」
その瞬間、シルフィの頭上で閃光が炸裂した。
「うぅっ!」
襲撃者たちの目を焼いたのは、無詠唱の『フラッシュ』。
簡易な初級魔法を使いこなして隙を作ったときには、もう、シルフィは力強く大地を蹴っていた。
つま先が向かうのは包囲の手薄な場所。
「無駄なことはおやめくださいっ」
虚をつかれて、襲撃者たちは目を押さえている。
そのひとりがシルフィの行く手をさえぎるよう、鞘に収められたままの剣を乱雑に振るう。
シルフィの足元をめがけた、手加減とも牽制ともとれる曖昧な一振りだった。
それを駆ける勢いのまま、跳んでかわす。
すれ違いざま、襲撃者の息を呑む音が、シルフィの耳を通り過ぎた。
前に敵はいない。
だが、正規の騎士を相手にしているのだ。
これで上手く逃げられるとは、とても思えない。
シルフィが背後に意識をかたむけていると、
「ウォーターボール!」
焦りのまざった、呪文を唱える声が聞こえた。
暗い足元を数歩先まで確認してから、シルフィはくるりと身をひるがえす。
人の頭ほどの水球。
魔法で作り出された水球が、目を見張るほどの速度で迫ってくる。
攻撃にはそぐわないはずの魔法であったが、だからこそ、足止めには適している。
シルフィの目が大きく見開かれた。
彼女の目前で、パシャっと水面をたたくような音をたてて、水球がはぜた。
「なっ!?」
驚愕の声をもらしたのはシルフィではなく、襲撃者のほうであった。




