15話 聖女グラータ
聖国東部に位置する聖都テテウは、神殿の総本山である。
豊かな緑に恵まれており、北西に青い湖を望む白い街並みは絶景として名高い。
その中心では、五月の朝日を浴びて白亜の聖宮殿が玲瓏と輝いていた。
「鏡よ鏡よ鏡さん、世界でいちばん美しいのはだあれ?
『はい、それは聖女グラータさまでございます』
まあ鏡さんったら、お上手なんだからぁ」
聖宮殿の一室で、長い青髪の女性が裏声で寸劇を披露していた。
艶を消した金の枠に薔薇の装飾がほどこされた、おとぎ話にでてきそうな全身鏡の前で、しとやかにポーズをとっている。
誰をも惹きつけそうな、濁りのない楚々とした容姿の女性だった。
彼女の名はグラータ。
聖都テテウの支配者にして、大陸中の神殿を統べる、メセ・ルクト聖教の最高権力者である。
「あ……」
聖女グラータの水色の神官服が、ふいに動きを止めた。
鏡のなかに、自分とは異なる住人を発見してしまったのだ。
グラータの青い瞳と、室内に足を踏み入れようとした侍女の驚愕に見開かれた緑の瞳が、鏡の世界で交差する。
ドアを閉め忘れていた。
ありえない失態である。
自室に戻って、気を抜いてしまったのが敗因だろうか。
グラータは諸国行脚の予定を急遽変更して、聖都に帰ってきたばかりだった。
まだ若い侍女は驚きのあまり、口元を押さえている。
グラータのほうがもっと驚いているのだが、
「ふふふ。聖女たるもの、いつでも心に余裕を持たなくてはいけないのよ」
まさかの失態を取りつくろうべく、鏡のなかの金褐色の髪をした少女にウインクしてみせる。
感激したように、侍女は胸元で手を合わせた。
とても素直な少女だった。
「まあ、素敵ですわ、グラータさま。ワタシったら、そんなことも知らないで驚いてしまいました。
素敵といったら、ご存じでしょうか? 帝國神殿のカロッツァさまが、聖都にいらっしゃっているそうですのよ。
シルフィさまもごいっしょなのかしら?」
「カロッツァが? そう、ありがとうアリシア。すぐに時間をあけるわ」
「はい、グラータさま!」
アリシアははずむように部屋をあとにした。
もちろん、ちゃんとドアは閉めていく。
「ふふふ……」
グラータは笑顔を浮かべて、いたいけな少女を見送った。
ひとりになるや真顔になり、力なくも勢いよく寝台に倒れこむ。
「……やらかした」
枕を抱きかかえてつぶやく。
「ご、ごまかせたのかしら。変な噂が広まったら、ただでさえピンチな婚期が……」
アリシアはおしゃべり好きな子だ。危ないかもしれない。
だけど、人の悪口を言いふらすような子でもない。
聖女グラータ、御年二七歳。婚活に興味津々なお年頃である。
うーんとうなっていると、コンコンとノックの音がした。
寝台の上でごろごろしていたグラータは、ビクッと跳ねおきる。
「私だ。入るぞ」
「どうぞー」
グラータは勝手知ったる人物の声を聞いて、ふたたび寝台に転がった。
藍色の髪を結い上げた女が、いぶかしげな顔をして部屋に入ってくる。
顔立ちも立ち振る舞いも、そのまま美貌の女騎士として舞台に上がれそうだ。
彼女は、聖女を護衛する聖華隊の隊長、ハイデマリー。
グラータとは学生時代からのつきあいである。
「アリシアがなんだか幸せそうに歩いていたが。なにかあったのか?」
「マリりん。あの子はいつでも幸せそうじゃない」
「マリりん言うな。いや、たしかにアリシアはいつでもあんな感じだが……」
「帝國神殿のカロッツァが聖都に来てるそうよ。……あの連絡と関係あるのかしら?」
グラータはむくりと起きあがって、まじめな声を出した。
彼女たちが旅を切りあげて帰ってきたのは、帝國神殿からひっきりなしに「今すぐ聖都に戻るように」との要請があったからだ。
なにが起きたのかはさだかではないが、文からにじみ出る切迫感が尋常ではなかった。
帝國神殿の神官長、オムネスが首をかけるのではないか、という勢いであった。
「ずいぶんと殺気立っていたからな。そう、そのカロッツァ様の件だがシルフィネーゼも来ているらしい」
ハイデマリーの鳶色の瞳にも憂慮が浮かんでいる。
タイミングを考えるに、あのいっこうに要領を得ない「とにかく急いで戻れ」という要請と関係があるのだろう。
おそらく、第三者に中身を知られるわけにはいかない情報。
それを直接、大神官のカロッツァが伝えに来たのかもしれない。
「ほほほう。シルフィちゃんも来てるなら……ワンチャン、あるかもしれないわ」
深刻な表情は一転して、グラータは期待に目を輝かせた。
次の聖女と目されるシルフィは、聖国神殿にとっても、むろん特別な存在である。
少しでも早く聖都にまねこうと、聖国神殿はシルフィを聖都テテウの学校に入学させるつもりだった。
ところが、「娘を手放すのはまだ早い」といわんばかりに、帝國神殿のオムネスが帝都の学校に入れてしまったのだ。
その知らせを聞いて、グラータは大いに落胆した。
おかげでシルフィが聖都に来るのは、三年後となってしまったのである。
「だって、三年も待ってられないんだもの!」
「……ああ。そうだな」
あいづちを打つ、ハイデマリーの声からは抑揚が消えていた。
グラータが聖女になって、もう十年目だ。
そろそろ引退したって罰は当たらないだろう、とグラータは思う。
なにしろ聖女というのは忙しい。スケジュールは分刻み。
そのうえ、職場兼住居である聖宮殿は男子禁制の場だった。
貴族の娘が花嫁修業をする場所でもあるのだから無理もない。
出逢いの機会なんて、ここにはないのだ。
そのうえ聖女というのは、とてもお偉い立場である。
結婚相手の国籍いかんで、国家間のパワーバランスすら崩れてしまうほどに。
お見合いをするにも、偉すぎるのだった。
さっさと引退しないと、婚期は遅れるばかりである。
「目指せ聖女卒業! 喪女脱却!」
いっこくも早くシルフィに聖女の座を譲ってみせる、という熱い決意がグラータをふるいたたせていた。
そこに、聖女の威厳はかけらもない。
「……うん。そうだな」
その様子を眺めるハイデマリーは、あきれを隠す気にもなれず、肩を落とした。




