五十話 揺れる帝都!
帝都の住民から笑顔が消えていた。
そこにあるのは不安と、恐怖。
「おい、聞いたか、あの噂」
「みんな知ってるって。これだけ大騒ぎしてるんだから当たり前だろうが」
帝都は今、蜂の巣をつついたような騒ぎに見舞われていた。
昨日、帝國と神殿が帝都に迫る蝗害を公表したからである。
同時に避難命令が出されており、帝國、神殿を問わず帝都の公共に携わる人員が総出でその準備を進めている。
「うちは南に逃げるぞ、南都にいる親戚を頼るつもりだ」
「そうか、当てがあるんならその方がいいかもな……」
急ぎ避難の準備をする人もいれば、帝都を離れようとせぬ住民も多い。
帝都の堅牢な城壁にすがる者。
神殿が総力を挙げて張るという結界を信じる者。
彼らの暴徒化を抑えているのは何より、皇帝オズカートが帝都を離れぬと宣言していることであろう。
常とは異なる喧噪の中、北へ逃れる避難民を率いることになった皇女ヘルミナは、帝都に残る者へしばしの別れを告げる。
「シルフィ、本当はあなたをさらっていきたいのだけれど……」
「ごめんなさい、お姉様。私にはここでやるべき事があるので」
毅然とした様子のシルフィを、ヘルミナはそっと抱きしめた。
ヘルミナは涙を拭い、シルフィに負けじと端然とした姿勢で民を導き、帝都を離れていく。
いつもは行き交う人で混雑している帝都の門も、今日ばかりは帝都を離れようとする人々であふれ、一方通行となっていた。
手荷物のみの者、荷車を引く者、心細さを隠せぬまま列をなす帝都の民を見送っていると、シルフィの背後から、どこか幼さの残る声が掛けられた。
「行ったか」
そう言って、ディアドラがシルフィの横に並ぶ。
ディアドラは、城壁の上に刻まれた魔法陣の見回りをしてきたところだ。
「行きましたね」
シルフィはディアドラの姿を見て、軽く目を見張った。
少女にしか見えぬハーフエルフの理事長は、宮廷魔導師の象徴、真紅のローブを纏っていた。
このローブには幾つもの魔法陣が刺繍されており、それ自体が魔道具である。
学園にいる普段の姿より幾分貫禄があるが、見る人によっては、背伸びして偉ぶる少女のようにも見えてしまうだろう。
帝都を離れゆく避難民、どこまでも途切れぬ列を見送りながら、ディアドラはぽつりと言う。
「……言ったな」
シルフィはディアドラの咎めるような声色を、真っ向から迎える。
「……先生はなぜマルコに言わなかったのですか?」
「生徒を危険な目に遭わすわけにはいかないだろう!」
珍しく声を荒げるディアドラは、ローブの袖に隠すように、小さな拳を握りしめていた。
シルフィから蝗害の情報を得たマルコは、帝都を発つ前にディアドラからその正確な方角を聞き出していった。
ディアドラとてマルコを止めようとはしたが、蝗害に対して有効な手立てを持たぬディアドラでは説得できなかったのだ。
「大丈夫ですよ」
父オムネスの複製のような笑顔はなりを潜め、シルフィは凜とした面持ちで断言する。
静かな声は危機のさなかにありながらも、意外なほど力強かった。
「マルコは帰ってくるって約束しましたから」
声だけではない。
帝都を覆わんとする闇を一足先に抜け出したかのような、力強い光を宿した瞳に、ディアドラは息を呑んだ。
「私、約束を守らない人は嫌いなんです」
そう言って、照れたように口元を崩したシルフィは、神殿の者に呼ばれ、踊るように軽やかに裾を翻し、立ち去った。
その後ろ姿を眺めて、ディアドラは自分が何に驚いたのか理解した。
ディアドラはシルフィを幼い頃から知っている。
そのディアドラですら、シルフィが「嫌い」という言葉を発するのを聞いた記憶はない。
「約束を守る人は好ましい」だとか「約束を破るのはよくありませんよ」という台詞を口にして、嫌いだと明言するのを避けるように育てられてきた。
それがシルフィネーゼ・ノーマッドという少女だったはずだ。
聖女となるように育てられたシルフィには似つかわしくない発言を聞いて、ディアドラは小さく笑みを浮かべた。
「……まったく。ちょっとした隙に見違えるものだ……」
約束を守らないのを嫌う、当然のことだ。
だが、誰もが当たり前のことを、当たり前のように口に出来るわけではない。
立場を捨てたのか、それとも立場を乗り越えようとしているのか。
人によって評価は異なるだろう。
シルフィに訪れた変化は、少なくともディアドラの目には好ましいものに映った。
生徒の変化を目の当たりにして、ディアドラは胸に寂寥を感じる。
――皆、自分を置いて成長していく。
何度も味わってきたこの感傷は、決して寂しさばかりではない。
「負けてはいられんな」
ふん、と気合いを入れるように小さな肩を怒らせると、ディアドラはマルコの無事を祈るように、西の空を見上げた。
はるか西の空。
帝都ウーケンを文字通り飛び出したマルコは、クラウドスライムに乗って魍魎バッタの大群を目指していた。
街道を外れ、眼下に広がるのは一面の森。
一億の魍魎バッタ、見落とすような規模ではないそうだが、方角がずれてすれ違いでもしたら目も当てられない。
「この方向で……、合ってるんだよな?」
マルコがちょっと自信なさげに空の上から広大な森を遠望していると、森の中で小さな爆発が起こった。
「はははっ。この状態で無詠唱とは恐れ入る。さすが宮廷魔導師様だ」
魔蟲使いパルティマスは、最後の力を振り絞って爆裂魔法を行使した宮廷魔導師の頭を掴んで愉快そうに笑う。
「うぅ……」
宮廷魔導師の男は苦悶の声を漏らす。
その手足は力なく、だらりと垂れ下がっていた。
「このままここに放っておけば、魍魎バッタに肉どころか骨まで食い尽くされるだろうが……さて」
パルティマスは男を地面に放り投げる。
どさり、と捨てられた男は既に全身に毒が回り、身動きが取れない。
力なく地面に転がる宮廷魔導師。その真紅のローブに目をやり、パルティマスは思案する。
確か宮廷魔導師のローブは高価な魔道具であったはずだ。
バッタに食わせるのは少々惜しいのではないか。
「宮廷魔導師なら、他にも便利な魔道具の一つや二つは持っていよう――!?」
獲物を前に舌なめずりする魔蟲使いの前に、空から少年が降ってきた。
槍を片手に着地した、ねずみ色の髪の少年は声に確信を乗せて訊く。
「お前が、魔蟲使いパルティマスだな」




