二話 スキャンダル!? ディアドラ理事長の一日
パラティウム帝立学園の職員室。
入学試験が過ぎ去り、卒業式を終えると、慌ただしかった職員室にもようやくゆったりとした時間が流れはじめる。
教員が一息つけるようになると、自然と雑談も増えていく。
デスクの上を片付けて背伸びをし、とある教師、フェードレ(三八才バツイチ男性)は呟いた。
「そういやあ、例のスライム使いの噂って結局どうだったんです?」
「しっ、聞こえるわよ」
隣の席に座る教師(三二才独身女性)が妖精のような美少女、最近とみにお肌がツヤツヤしていると噂されるディアドラ理事長の姿をみとめて、紅を塗った口元に人差し指を当てる。
入学試験直後、異常なレベルのスライム使いの存在に、職員室は大騒ぎに陥った。
何しろ新入生が帝國騎士団の団長よりレベルが高いのだ。
しかも底辺職のスライム使いが、である。
いかさまじゃないのか?
鑑定板の故障じゃないのか?
そうした声が高まる中、ディアドラ理事長の鶴の一言で騒ぎは収束した。
「私がわざわざ魔大陸までスカウトしに行った逸材だぞ」
得意げなディアドラに反論できる者などいなかった。
なにしろ理事長である。そして教員のほとんどは彼女の教え子なのだ。
それに、しょげたら可哀想だし。
それから卒業シーズンをむかえ、教員が忙殺される中で噂は立ち消えになる……わけがなかった。
余裕ができ、新入生を受け入れる準備が本格的に始まると、噂は再燃する。
理事長のお気にらしい……。
同棲してるらしいぞ。
あの浮いた噂が恐ろしいほどなかった理事長が。
理事長って学園長と同期なんだぞ。
まじかよ、ハーフエルフすげえ。
「畜生、信じてたのに……。裏切り者のショタコンが……」
隣から聞こえてくる怨嗟の声に肝を冷やしつつ、フェードレは、職員室を後にするディアドラの小さな背中を眺める。
信じたくはない。
嘘だと大声で否定したかった。
だが、もしもそのスライム使いの少年が理事長と爛れた生活を送っているというなら。
そいつの息の根は、どんな手を使ってでも止めて見せよう。
デスクの引き出しに眠る、ディアドラ理事長ファンクラブのメンバーカードに懸けて。
……入学前から教師に命を狙われていることを、マルコは知らない。
職員室から出たディアドラは、エルフの血を引く証である長い耳をぴくつかせ、眉を寄せた。
エルフの聴覚は人間よりも優れている。室内の噂話はしっかり聞こえていたのだ。
ディアドラはハーフエルフだが、能力的には純血のエルフよりもエルフらしいそうだ。
「まあ、いずれ噂は噂に過ぎないとわかるだろう」
まさかの放置である。
浮いた話が一つもない、というのを気にしていたわけではない。断じてない。
小さな体で激務をこなし、一日の仕事を終えると、学園からすぐの小さな自宅に帰る。
ディアドラは由緒正しい貴族の出身でもあるが、貴族らしい生活をしているわけではない。
侯爵家の娘とエルフの男が恋に落ち、ディアドラは生まれた。
母を看取った父はエルフの里に帰り、ディアドラは退屈な森の中の暮らしより、生まれ育った帝都に残ることを選んだ。
たまに実家の侯爵家から、メイドが身の回りの世話をしに来るのを除けば、気ままな一人暮らしである。
独身貴族というやつだ。貴族で独身なのだから間違いない。
ディアドラが、貴族にしては小さな我が家の扉を開ける。
「ひッ」
と、喉から声が漏れて、長い耳がピンと張った。
粘液が天井から滴り落ち、壁を、床を這いずり回っている。
玄関がスライムまみれだ。
そのスライムの見た目が、あまり汚く見えないのが救いではある。
スライムとは元来、動くヘドロのような魔物だ。
見た目だけでなく匂いもきつい。
もっとも、眼前で展開されるスライムパラダイスからは、どことなくフローラルな香りすら漂ってくる。
マルコの操るスライムは一般にイメージされるスライムと異なり、宝石のような色合いをしていて、汚臭を発することもない。
とはいえ自宅がスライムまみれになって、驚かない人はいないだろう。
悲鳴を飲み込んだ自分を褒めてやりたい、とディアドラが思っていると、スライムが一瞬で姿を消した。
かわりに元凶がスリッパで足音を立ててやってくる。
「おかえり、ディアさん」
「う、うむ。今帰った」
新米主夫と化したマルコが鞄を受け取る。
「ところで今のは……」
「ちょっと掃除してただけなんだけど……」
「そ、そうか」
玄関のたたき、廊下のフローリングに天井までも、磨き上げられたかのようにピカピカである。
「夕飯は大体できてるけど、風呂先にする?」
「……とりあえずアレだ」
そう言って、ディアドラはリビングでソファーに体を埋め弛緩する。
マルコがルビー色のスライムを召喚して、ディアドラのほっそりした肩に乗せた。
「はぁぁぁぁぁぁ」
ほどよい熱さがじんわりと染みいって心地よい。
肩こりと一日の疲れを癒やされ、ディアドラは気持ちよさそうに声を漏らす。
マルコが開発した、レッドスライムとポーションスライムを掛け合わせた温感療法である。
「足もだ、足も」
「はいはい」
ディアドラはスリッパを飛ばして催促し、新たに召喚されたスライムにブニョンと両足を突っ込む。
「おぉぉぉぉぉぉ」
王侯貴族でも味わえぬであろう極上の癒やし。
決して外では見せられぬ姿でくつろぐ理事長、至福のラグジュアリーはスライムにあった。
溶けて垂れるディアドラの耳に、マルコが料理を仕上げる家庭的な音が聞こえてきた。
入学試験を終えてから、マルコは料理や家事に力を入れ始めた。
どうやら帝都の豊かな生活に感銘を受けたらしい。
今では、ディアドラが学園の図書館から失敬してきた料理本が、マルコの愛読書だ。
「これが最近流行の、意識高い系男子というものか……」
ディアドラが呟くが、どちらかというと、帝都中のお高い料亭に連れ回したディアドラの影響だろう。
帝國騎士団や宮廷魔導師の訓練に誘ってみても、「ふーん」の一言で興味を示さなかったというのに、面白いものだ。
うとうとしていたディアドラの鼻がぴくりと動く。
甘酸っぱいソースの匂いが漂ってきた。
「うちに来て、初めて料理したときは酷かったものだが。この短期間でよくここまで腕を上げたものだ」
ディアドラは感慨深げに食卓を眺める。
マルコはじめての料理は、料理と呼んでいいのかわからぬ代物だった。
とりあえず肉を焼いて、塩振って食べればいいじゃない。
……実に冒険者らしい、ワイルドな肉の塊であった。
今、目の前に並べられている料理とは雲泥の差だ。
本日のメインは火炎豚のソテー、リンゴとタマネギのトマトソース。
火炎豚は火を通しても身が柔らかいのが特徴だ。
筋切りをし、叩いて戻し、さらに柔らかくしてあるのがポイント。
あらかじめソースにつけておくのも重要である。
すっとナイフが入る。
「うん、柔らかい。ソースも濃すぎず、ちゃんと素材の味を……」
ディアドラの手が、感想の途中で止まった。
そっとお皿を持ち上げてみる。
保温のため、皿の高台に赤いスライムが張り付いていた。
「……」
ディアドラは何も言わずに、皿をテーブルに戻した。
何事もなかったかのように、黙々と食事を進める。
食事を外食で済ませていたディアドラにとって、家庭料理の暖かみはありがたい。
教員の間で広まる変な噂で、精神的に少し疲れているのかもしれない。
疲れた心と体には家庭料理が染み渡るのだ。
特に甘いものは。
「むっ、このアイスは……」
デザートには芯を抜いた小さな焼きリンゴとアイス。
「この前、連れてってもらったお店あるだろ。あそこで食べたアイスを再現してみたんだ」
外食漬けのディアドラは、味にうるさいわけではないが舌は肥えている。
マルコを連れて出歩いた店は高級料亭ばかりではない。
いろんなところに連れ歩くのが、妙な噂の信憑性を高めることになっている要因なのだが、その店の一つにいきつけの氷菓店があるのだ。
乳と砂糖に植物の根から作られた粉を混ぜ、しっかり練り上げる。
冷たく固いはずのアイスから伝わる、ふんわりと軽く粘りのある食感が大人気のお店だ。
銀のスプーンでひとすくい、口に入れたディアドラの脳に電流が走った。
皇族御用達の店より美味しい……だと!?
「アイススライムの中で揉んで冷やすと、もっと柔らかくて滑らかなアイスになるんだよなあ」
……便利だなスライム。
ディアドラは思考を放棄した。
「……ふぅ」
ディアドラは湯船の中で、スライム使いというのも中々捨てたもんじゃない、と実感していた。
スライム使いというよりは、多様なスライムを使いこなす、マルコ個人を評価すべきなのだろう。
スライム使いでありながら、マルコはスライムを連れているわけではない。
まるで精霊使いのように召喚しているのだ。
エレメンタルスライムという、精霊に極めて近いスライムの特性を利用しているそうだ。
ディアドラが首まで湯につかると、ちゃぷん、と音がした。
玄関で蠢いていたスライムが、一瞬で嘘のように姿を消したのも、召喚したスライムを送還した、という簡単な理屈だ。
エレメンタルスライムを召喚、同時にスライムの変化しやすい性質を利用し、目的に応じたスライムへと変質させる。
「これがスライム使いの極意だ」
と、マルコは言う。
変化させる先は多岐にわたる。
マルコが倒したことのあるスライム。
配合、進化させたことのある、オリジナルのスライム。
この湯に溶けているのは薬草を食べさせ生み出した、薬効成分の多く含まれるスライムだ。
精霊に近い存在として誕生したばかりのスライムは、もちろん衛生的である。
最初こそ抵抗のあったディアドラも、今ではすっかり骨抜きになってしまっている。
「……まったく、あいつらは教師のくせに下世話な噂を。まあ、それももうすぐ収まるだろうが……」
入学式までには、マルコはこの家を出て行く。
正式に教師と生徒となるのだ。
さすがにずっとここで暮らすのはまずいだろう。
「まてよ、そうなると今度は私が若い男に逃げられた、という噂が流れるだけなのでは……」
それはそれで不愉快だ、ディアドラは口をへの字に結ぶが、動じるような年でもない。
ザバァッ、と風呂から上がり、髪をタオルで拭く。
金色の髪が肌にまとわりつく。鏡に映る姿は年頃の乙女そのものだ。
「ふむ、悪くはないと思うが」
我ながら肌のつややかさは凄いと思う。少々平坦なきらいはあるが。
風の魔道具で髪を乾かし、火照った肌を若草色のパジャマに包み、リビングに戻ると、マルコがソファーに座って何枚かの紙を見比べていた。
「ほう、一人暮らしにはちょっと大きくないか?」
背後からのぞき込むと、その紙には不動産物件が載っていた。
どれもそこそこ大きな一軒家だ。
「うーん、風呂は必須なんだ。できれば庭もほしいんだけど、……それと地下室」
「地下室? 何をする気だ?」
「スライムの配合」
「……うん、風呂に庭に地下室となるとかなりの金額がかかるぞ」
ディアドラは「でも賃貸だと好き勝手できないだろうしなあ」と呟くマルコの肩に手をかけ、張り付くようにのぞき込む。
石けんの匂いに包まれたマルコの緊張が伝わってくる。
生徒を誘惑する女教師! 私は今、悪女してる! と、ディアドラは得意げにこっそり口角をつり上げた。
三年後にお孫さんが入学予定の、同期の学園長が見ていたら「ディアドラ、それは悪女とは言わないのよ」と呆れることだろう。
「ま、魔大陸の魔物素材が、ちょっと引くくらい凄い金額で売れるから、金額的には余裕あるんだ」
「ああ、あっちの素材はなかなか手に入らないからな」
同じ冒険者ギルドでも、地域によって素材の引き取り価格は当然違う。
マルコは、次元の壁を食らうあるスライムの能力に着目し、空間収納魔法を開発していた。
そのスライムによる異次元空間収納、スライムストレージにしまってある魔大陸の魔物素材は質量ともに桁外れで、一気に放出したら市場が崩壊するレベルなのだ。
それからしばらく、あーでもないこーでもないと物件チェックをする。
一人で見ると見落としがちなポイントをしっかりチェック。
「ふぁ」
夜も更けてきたので、明日に備えてディアドラはさっさと寝ることにした。
「私は先に寝るとしよう、おやすみ」
「おやすみなさい」
ディアドラは欠伸をしながら寝室へ。
最近のディアドラ理事長の一日はこんな風に、幼なじみの学園長が知ったら処置なしと白くなった頭を抱える程度に、すこぶる健全に過ぎてゆくのであった。