103話 帰路
涼やかな上空の空気が、太陽の熱をやわらげてくれる。
顔にあたる風の心地よさに、マルコは目を細めた。
大陸の東西をむすぶ大街道を眼下に、マルコたちを乗せた雲スライムは風を切って飛んでいた。青空の底、道の先に、石造りの小さな砦が見えてくる。
国境を警備する聖国側の砦だ。
あの砦を越えて少し進めば、そこから先はもう帝國の領土になる。
「すっかり長居してしまいましたね」
「ああ。聖都には、シルフィの治療に来ただけだったのにな」
背後から聞こえるシルフィの声に、マルコは前を向いたまま返事をする。
「けど、長居したかいはあったよ」
「そうですね。フレーチェは立派な女王になりますよ、きっと」
マルコは心のなかでうなずいた。
貴族社会から追い出されたフレーチェは、平民の暮らしを知っている。ヴィスコンテ女王に狙われつづけ、権力の怖さを知っている。
そうした経験を糧に、素晴らしい女王になるだろう。
力と恐怖で支配した、ヴィスコンテとはまったくちがう女王に。
「……ヴィスコンテ女王は、どうして自殺したんでしょう?」
シルフィが低くつぶやいた。
その声が陰鬱に沈んでいたので、マルコは後ろを向いた。
ヴィスコンテが飲んだ薬は、シルフィを治療するための研究によって偶然できてしまった失敗作らしい。その話を聞いて、シルフィは顔を曇らせていた。そのときの様子が、マルコとしては気がかりだった。
シルフィは口元に手をあて、
「敗北を受け入れて、死を選んだ? けれどまだ、彼女の負けが決まったわけではなかったはず。あきらめるには、早かったのでは……」
眉を八の字にして、考えこんでいる。
シルフィが気にしているのは、薬のことではないようだった。しかし、その瑠璃紺の瞳には、より根深い悩みが浮かんでいるように、マルコには見えた。
「わからなくて、よいのではありませんか」
メアリーがつとめて平静に言った。
「わかったつもりになったところで、人の気持ちをすべて理解できるはずもありません。ヴィスコンテ女王を理解しようとしたところで、出口のない迷路に入り込むようなものです。……それに彼女は、理解も同情も、望んでなどいなかったでしょう」
シルフィを気づかうメアリーの言葉に、たしかにそのとおりだ、とマルコは思った。
ヴィスコンテの内面に立ち入ったところで、彼女の狂気にとらわれ、精神を蝕まれるだけだろう。
ただそれでも。
想像がつくことはあった。
きっとヴィスコンテにとって、自身の命は軽いモノだったのだろう。
家族と故郷を失い、冒険者になったころのマルコがそうだったように。
あのころは無力で、なにもできなかった。
毎日毎日、みじめな思いをして、体だけでなく、それ以上に心が餓えていた。
強くなるためなら、自分の命なんていくらでもかけることができた。
振り返ってみると、なんて馬鹿で危なっかしいのかと思うけれど、当時はそれしか考えられなかったのだ。
ひとりごとのように、マルコは言う。
「ヴィスコンテが騎士の家にでも生まれていたら、ちがったのかもな」
闘争に魅入られていたというヴィスコンテ女王。
彼女が騎士であったならば、戦う相手には事欠かなかったはずだ。
いや、騎士でなくとも。
王族でさえなければ、競う相手はいくらでもいただろう。
だが、ヴィスコンテは王女として生まれてしまった。
次の女王となる姉の、予備として生まれてしまった。
聖国は女王制の国だが、ベンドネル家やトト家の当主が男性であることからわかるように、女性が上位というわけでもない。
あくまで、特別なのは女王だけ。
そんな環境にいたヴィスコンテには、玉座こそが手を伸ばすべき唯一のものに見えたのではないだろうか。戦い、勝ちとるべき唯一のもの。彼女は強引にそれをつかみとった。
勝ちとった血まみれの玉座。
誰にも止めることのできない権力の象徴。
ひとたびその地位にのぼりつめてしまうと、もう聖国内には、競う相手も打倒すべき敵も見当たらなかっただろう。
「ヴィスコンテが手に入れた力は、大きすぎたんだ。俺が言うのもなんだけど」
大きな力。
それがもたらすものを、マルコも受けとめねばならなかった。
おそらく、この大陸でもっとも大きな力をもっている個人として。
ひとつ間違えれば、なにかが狂えば。
そのとき自分は、ヴィスコンテ以上の怪物になってしまうのだろうか。
「マルコは大丈夫ですよ」
シルフィが明るい口調で言い、花がほころぶように笑った。
「もし、マルコが力の使い方を誤ったら。私が殴ってでも止めてみせます」
と背筋を伸ばし、両手を胸の前にあげて、拳をぐっと握りしめる。
なぜ、そこで拳にものをいわせようとするのか。マルコにはさっぱりわからなかったが、なぜだか心に染みるものがあった。
雲ひとつない青空に翠銀の髪がなびき、初夏の陽光を受けてキラキラとかがやいている。生命力に満ちあふれたその姿を前にしていると、陰鬱な気持ちなど簡単に吹きとばせそうな気がしてくる。
思わずマルコはまばたきを繰り返していた。まぶしいその姿を、心に焼きつけるように。それから、授業中に見た光景を思い出して、むすっと口をへの字にする。
「シルフィに殴られたら、かなり危険そうなんだけど……」
彼女の黄金の拳には、鉄の鎧を破壊するほどの威力があるのだ。
けれど、もしそんなときがきてしまったら。そのときはよけたりせずに、素直に殴られたほうがいいのかもしれない。
未来を空想したマルコは、なんとなく痛みよりも気恥ずかしさを覚え、ぷいっと顔をそむけて、進行方向を向いた。
そして、
「殴られないように、気をつけるよ」
「大丈夫ですよ、絶対に」
シルフィの声は笑いをふくんでいて、やけに自信満々だった。
マルコはむずがゆそうに身じろぎをすると、
「だといいけどね」
とつぶやいて、雲スライムの速度を少しだけ上げた。
風が強くなる。
青く澄みきった空が加速する。
帝都へ。
彼らの帰りを待ちわびる人たちのもとへ。
小さな雲はまっすぐに飛んでいった。
――――完
これにて完結となります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
振り返ってみれば、この作品は当初、人の目に触れる機会がほとんどない作品でした。
私は新作でも同じ悩みを抱えていますし、なろうに投稿している他の作者にも、同じような悩みを抱えている方は多いかと思います。
それでも書きつづけられたのは、あたたかく応援してくださる声があったからです。
やはり読者の一声、一ブックマークに支えられていた部分はおおきかったと思います。誰にも読んでもらえなければ、自分のしていることは全くの無駄なのではと思い、途中で投げ出していたことでしょう。
書き進めるうちにしだいに読者も増えて、やりがいも実感できるようになっていきました。
完結をむかえるにあたり、達成感と一抹の寂しさ、よし次もがんばるぞ、という前向きな気持ちがあるのは、すべて読者の皆様のおかげです。
ここに心より感謝を申しあげます。
ありがとうございました!!