101話 フレーチェの物語
聖都の中心、聖宮殿の裏庭には街のなかとは思えないほど広い森がある。黒いシルエットとなった夜の森からは、虫の音が途切れることなく流れていた。
窓の外を眺めながら、フレーチェはある少女の物語を思い返す。まるで、台本を頭に叩き込もうとする役者のように……。
聖国の大貴族、ベンドネル公爵家にフレーチェという娘がいた。明るくほがらかで、表情のよく動く、美しい少女だった。けれど、彼女には大貴族の娘として足りないものがあった。魔法の才がなかったのだ。魔法の血統を重んじる貴族たちは、彼女に冷たくあたった。
フレーチェは家を追い出されて、ひとりで生きていくことになった。それでも彼女はめげなかった。聖都で平民として暮らし、汗水たらして働いた。そして神殿の侍女として認められていき、ついには次期聖女の世話役にまでなった。
そんなある日、フレーチェは夢を見る。「この勇者の剣を手に、女王ヴィスコンテを討て」夢のなかに立派な騎士があらわれて、そう告げたのである。翌朝、目を覚ますと、そこには一振りの剣があった。
フレーチェはおそるおそる、その剣に手を伸ばした。鞘から引っ張りだしてみると、光りかがやく両刃の剣がのぞいた。彼女が手にしているのは、退魔の騎士アゼルとともに魔大陸で失われたはずの、聖剣エクスカリバーン。伝説の光の剣だった。夢にあらわれた立派な騎士は、聖国の現状を憂う、退魔の騎士アゼルの英霊だったのだ。フレーチェはお告げに従い、女王のいるオレンをめざした。
「聖国軍が、ベンドネル公を討つために出陣したそうだ」オレンに向かう途中で、フレーチェの耳に信じられない話が飛び込んできた。過去の英雄が彼女の枕元にあらわれたのは、この戦をふせぐためだったのだろうか。フレーチェはたったひとりで、聖国軍に立ち向かうことを決意する。
殺気だった大軍を前に毅然と立ち、小柄な少女は涙ながらに語る。「この戦に意味はありません。ヴィスコンテ女王以外、誰も望んでいない不要な戦なのです」フレーチェが聖剣を抜いてみせると、聖国軍の将兵が驚きの声をあげた。抜き放たれた美しい剣が強烈な光を放ち、その威容が彼らの胸を打ったのであった。聖国軍の総大将ガイヤール将軍はその場にひざまずき、全軍に引き返すよう命じた。
オレンについたフレーチェを迎えたのは、ひとつの報とひとりの男だった。ガイヤール将軍が撤退の責任をとらされ牢につながれたという報と、行方をくらましたフレーチェを心配して追いかけてきた、兄のティオレットである。「私が王宮に忍びこみ、ヴィスコンテ女王を討ち、ガイヤール将軍を救いだしてみせよう」ティオレットは妹から伝説の剣をあずかり、王宮に侵入する。しかしその前に、剣聖シャルムートが立ちはだかった。
シャルムートのエクスカリバーンと、ティオレットのエクスカリバーン。聖剣と聖剣が火花を散らした。ティオレットはすぐれた剣士であったが、さすがに相手が悪かった。防戦一方に追いこまれ、絶体絶命となったそのとき。伝説の聖剣がふたたび不思議な光を放ち、その光を浴びたシャルムートは昏倒する。
そして、英霊の加護により難敵を退けたティオレットは、見事、女王を討ち取ったのであった。
……その後、ティオレット、シャルムート、ガイヤール、そして丞相レストバルの四人が話し合い、フレーチェを次の女王とすることが決まった。
こうして、貴族の家に生まれたフレーチェは、平民として生き、英霊に導かれて女王となったのである。
聖都にもどったマルコから、この物語を聞いたとき、
「どれもこれも、ウソばっかですぅ」
とフレーチェはあきれかえった。
真実をあげれば、フレーチェはアゼルの夢など見ていないし、聖国軍を撤退させたのはマルコだ。剣聖シャルムートはティオレットとの戦いで死亡し、ティオレットの剣が届くより早く、ヴィスコンテ女王は服毒死していた。
けれど、事実かどうかは重要ではない。
人心を安定させるために、新女王フレーチェの統治体制を一刻も早く確立するために、この物語を広めるのだと、王宮で行われた会議で決まったらしい。
その会議を終えると、マルコはティオレットを連れず、ひとりで聖都にもどってきた。
ティオレットにはまだ王宮で仕事があった。新たな女王の味方を増やし、敵を抑える根回しである。それに目途がつけば、聖都にフレーチェを迎えにくるそうだ。
そのときが来れば、フレーチェはティオレットと裏の剣聖シャルシエルに護衛され、オレンに向かうことになる。
いや、彼女を護衛するのはシャルシエルではない。
剣聖シャルムートである。
そう、シャルシエルはシャルムートと名を変えることになった。剣聖が敗れ、殺害されたなどということがあってはならないのだ。シャルムートの死は隠蔽しなければならなかった。
もともと双子の剣聖は、ふたりでひとりの『剣聖シャルムート』を演じていたのだから、シャルシエルさえ生きていれば『剣聖シャルムート』を生かしつづけることはむずかしいことではないだろう。
表の剣聖シャルムートの死は記録されることなく、闇に葬られることになった。生まれた記録すら存在しない裏の剣聖シャルシエルは、最初から存在しなかったことにされ、これからただひとりの剣聖として、シャルムートを演じて生きていく。
演じるのは、彼だけではない。
ティオレットも、ヴィスコンテ女王をその手で討ちとった勇者を。
フレーチェも、英霊に導かれた女王を演じて生きていく。
それぞれがほかの人にはゆずることのできない役割に縛られ、生きていくのだ。
貴族の都合で家を追い出され、今度は国の都合で女王になる。ふりまわされてばかりだった。
なんて波瀾万丈な人生なのだろうと、フレーチェは思う。
きっとこれから、フレーチェは想像もつかないような重責を背負っていかねばならないのだろう。女王になるということが、どれほど多くの人に影響を与えるのか。ヴィスコンテ女王ひとりにどれほど多くの人がふりまわされてきたか、フレーチェは身をもって知っていた。
膨れあがる不安は、恐怖に直結していた。
ヴィスコンテのようにはなりたくなかった。
なってはいけなかった。
不安に苛まれそうな自分を叱咤しながらも、フレーチェは胸に広がるもっと大きな感情を自覚していた。それは気負いだった。
フレーチェには手本がある。
グラータの姿をそばで見てきたはずだった。
グラータのようになればいいはずだ。なってみせるのだ。
空回りする気負いは、まだ焦りを生むばかりだけれど。それでも、尻込みなんてしてはいられなかった。
しずかな夜だった。
フレーチェはそっと、窓の外に耳を澄ませる。
暗い森からは、威勢のいい虫の音がいつまでもつづいていた。