97話 女王の最期
王宮の屋根の上を、姿勢を低くして這うように、ティオレットは進んでいた。
その腰には、マルコから受けとった伝説の聖剣がある。ひとたび鞘から抜けば、まばゆい光を放ち、魔を断ち切るという伝説の光の剣・エクスカリバーン。
もちろん、ためしに抜いてみることなどできなかった。いくら警備が手薄な屋根の上であろうと、そんな目立つことをしたら、庭を警備する騎士たちに注目してほしいといっているようなものだ。
騎士たちは、せわしなく動きまわっている。すでに、刺客が入り込んでいるという情報は広まっているとみてよかった。
警備の目から隠れ、闇にまぎれ、ティオレットはしずかに移動し、やがて女王の居室の真上にたどり着いた。
「さて……」
ここから強力な魔法で攻撃する、という手もあるにはある。
だが、剣聖という難敵が倒れたいま、不確実な攻撃手段を選ぶこともない。
ヴィスコンテの姿をこの目で確認して、より確実を期すべきだろう。
ティオレットは屋根から首を伸ばして、バルコニーの様子をうかがった。
「しまった」
バルコニーを警備しているはずの、聖騎士の姿がなかった。
護衛がいないということは、ヴィスコンテが居場所を移した可能性が高い。
逃げられたかと顔をしかめつつ、ティオレットは音を立てないよう、そっとバルコニーにおりた。透明なガラス戸の内側を見るが、分厚いカーテンが、その視線をかたくなに拒絶する。
「…………」
視線の槍でいくら刺したところで、カーテンが動くはずもない。
ティオレットは意識を集中して、水を打ったように静かな、室内の気配を探る。
なかにいるのは、……おそらくひとりだけ。
ただし、聖騎士が気配を消して待ちかまえている可能性はあった。
とはいえ、カーテンの向こうに剣聖が待ちかまえていた、という最悪の状況だけはもうなくなっている。
いまさら怖じ気づく必要はない、時間もない。
侵入者のティオレットにとって、時間は敵であって味方ではなかった。
なにが起きても反応できるよう、つま先に重心をかけ、ガラス戸に手を伸ばす。
さすがというべきか、おどろくほどなめらかにガラス戸は動いた。分厚いカーテンが、時を取りもどしたように小さく揺れた。
そのカーテンをあけると、部屋の中央に、朱色の髪の幽鬼が立ち尽くしていた。
「お恨みもうしあげます、ティオレット様。あなたの勝利でございます」
幽鬼、女官長レオノーラはそう言って、ガラスのような目で侵入者の姿を眺めた。
ティオレットは奇襲を警戒しながら、ゆっくりと前に進む。
「ヴィスコンテはどこにいる」
「もうどこにもおられません。いえ、目の前に……」
精も根も尽き果てた表情、感情のこもらぬ声。涙の跡が残る顔を人形のように動かして、レオノーラはそばにおかれた椅子を見た。
ティオレットも椅子を見た。
ヴィスコンテ女王は、たしかにそこにいた。
いや、さきほどまで女王だったものがそこにあった。
椅子には美しい石像が腰かけている。
生前の女王が見せたことのない、まるで聖母のような慈愛に満ちた表情を浮かべて。ヴィスコンテそっくりの石像が、そこに座っていた。
「……どういうことだ。なにがあった」
ティオレットは低い声でうめくようにいった。
「陛下は崩御されました。服毒死をお選びになったのです」
抑揚のない声でたんたんと、レオノーラが説明する。
死をまぬがれないと判断したヴィスコンテは、死に方を選んだ。骸をさらすよりも、石像として美しい姿のまま死ぬ道を選んだのだ。
ヴィスコンテが飲んだのは、レオノーラが帝國の大商人から手に入れた特殊な薬だった。飲んだ者を石化させる魔法薬。魔法による石化なら解呪もできるはずなのだが、この薬で石化した者は、なぜか元にもどることはないらしい。
原理はよくわかっていない。
なぜなら、その魔法薬は正規のものではなく、失敗作であった。つい最近、帝國では国を挙げて石化を解く研究が行われた。その過程で偶然できた、再現することもできない失敗作なのだという。
なにが起きたのかと問いかけておきながら、ティオレットの耳にその説明は入ってこなかった。
ヴィスコンテ女王は死んだ。
ティオレットは、目的を達したはずだった。
にもかかわらず、どうしてか納得がいかなかった。
ヴィスコンテは、なにをしてきたのか。
家族を殺害して女王となり、はむかう者を殺してきた。
平地に乱を起こし、そんな彼女に、ティオレットをふくめ多くの人が人生を狂わされてきたのである。
その結末が、自殺。
あと一歩というところで逃げられたようにすら、ティオレットには感じられた。
女王の石像は穏やかな、あまりにも穏やかな微笑を浮かべている。
その微笑みが、「お前の手は届かなかったのだ」そう告げるヴィスコンテの嘲笑にすら見えた。
「ふざけるなァッッ!!」
ティオレットは吠えた。
行き場をなくした感情が、手を動かしていた。
右手で抜いた伝説の聖剣を振りかぶると、両手でしっかり握りしめ、袈裟懸けに振りおろした。
まばゆいばかりに光る剣が、石像を斜めに通り抜ける。
すると、ヴィスコンテの石像は椅子ごとまっぷたつになって絨毯に転がった。
感情のままに、力まかせに剣を叩きつけて。
ティオレットは、ようやくヴィスコンテの死を実感した。
次の瞬間、部屋の入口の扉が開いた。
室内の物音を聞きつけたのだろう、聖騎士たちがなだれ込んでくる。すでに剣を抜いている者もいた。
だが、ティオレットは手にした聖剣を彼らに向けようとはしなかった。
すべて終わったのだ。
ヴィスコンテに脅かされる日々は終わった。
もう、聖国人同士で殺しあいをする理由はなくなっていた。
ティオレットは抵抗することなく、拘束された。
連行された地下牢で、
「む、そこにいるのはベンドネル家のティオレットか」
囚人から声をかけられて、ティオレットは足を止めた。
牢の床にあぐらをかいていたのは、ベンドネル公討伐軍の総大将をつとめたガイヤール将軍であった。