91話 女王候補と聖女候補
頼りになる護衛がそばを離れたため、シルフィは身の安全を考慮して、街中の宿ではなく聖宮殿に移っていた。どこかに出かけることもなく、黙々と魔道書を読みふけり過ごしている。メアリーはその周囲で甲斐甲斐しく世話をしており、そんな彼女たちを、フレーチェは手持ちぶさたにぼんやりと眺める日々をおくっていた。
シルフィの世話役をさぼっているわけではない。
メアリーがいると、フレーチェに仕事が回ってこないのだった。
いまもそうだ。
夕食がすむと、メアリーが空になった食器をワゴンに移して、部屋の外に押していった。そのメイド服の背中を見送ってから、フレーチェは視線をテーブルの上にもどした。
目の前、手を伸ばせば届きそうなところに、魔道書がひらかれている。
学校で使うような教本ではなく、もっと専門的なものである。回復や結界に分類される魔法に関しては、この聖都が最先端をいっている。シルフィはわずかな時間を見つけては、ここでしか見ることのできない資料に目を通していた。
ずいぶん熱心なその様子に、フレーチェは感心していたのだが、ふと眉根を寄せる。
なんだかシルフィらしくない、ような気がしたのだ。
らしい、らしくないを語るには、短いつきあいかもしれないが、それでもそれなりに時間は重ねている。たしか、もっと年に似合わぬ余裕のようなものを感じさせる少女だったはずだ。
シルフィがむずかしい顔をして、魔道書をにらみつけるようになったのは、いつからだろう。そんなことをフレーチェが考えていると、テーブルの上に置かれた緑色のスライムが、ぶるぶると小刻みに振動した。
シルフィが人差し指でそのスライムを突っつくと、スライムは動きを止めて淡くかがやきだした。
「はい。こちらシルフィです」
『オレンの馬車乗り場で、ティオレットを発見した』
スライムから聞こえてくるのは、マルコの声だった。
「よく見つかりましたね」
『我ながら、よく見つけたと思うよ』
シルフィにこたえるマルコの声には、苦笑が混じっている。
『馬車乗り場と王宮だけ見張ってたのが、上手くいったみたいだ』
オレンに来るのに、ティオレットはどのような足を利用するか。
歩きで来る可能性は低かった。不特定多数に顔をさらすことになるうえ、移動に時間がかかる。
もっとも可能性が高いのは、乗合馬車だろう。
しかし、もうひとつ見過ごせない方法があった。
オレン東部の山あいから、街に入らず、直接王宮に侵入することだ。
だからマルコは、視角共有用のスライムを馬車乗り場と王宮に置いて、その二ヶ所を重点的に監視していたのである。
いつ来るかわからないティオレットを捜し回ったところで、無駄足になっただろう。それに、たとえ見つけそびれたとしても、ヴィスコンテの周辺を見張っていれば、いずれティオレットはあらわれる。
「兄様の様子はどうでしたか?」
『その声はフレーチェか。ティオレットは平民みたいな服装をして、旅用の大きなかばんを持ってた。今夜は下町の宿屋に泊まるみたいだ。なにか動きがあったらまた伝える』
という言葉を残してマルコの声は途切れた。同時に緑色のスライムの光も消える。
話し声の消えた部屋に、虫の音をのせた夜風が流れ込んでカーテンを揺らした。窓はあけてある。聖都に降りつづけていた雨は、とっくに止んでいた。
「先にティオレットを見つけてしまえば、こちらのものですね」
これでひと安心とばかりに、シルフィが口元をほころばせた。
マルコが見つけるよりも早く、ティオレットが女王側に見つかってしまうのではないだろうか? 女王暗殺に動いてしまうのではないだろうか?
それが最大の懸念だったのだ。
「……ヴィスコンテを暗殺するのに成功したら、私が女王になるかもしれないんですよねぇ……」
ため息をつくように、フレーチェはぼやいた。
「そうですね。フレーチェが女王になるか、ほかのだれかが女王になるか。もしかしたら、ティオレットが王になるかもしれませんけれど」
「私にいやがらせをした貴族たちを見返してやる。……というには、ちょっと女王の椅子は重すぎますねえ」
「……いやですか?」
「いやもなにも。だれがそこに座るのが、この国にとって一番いいのか。ただ、それだけですぅ」
肩をすくめて、フレーチェは答えた。
進んで女王になろうとは思わないが、個人的な感情を優先させるべきことではない。その考え方は、貴族として育ったから根付いたものかもしれなかった。
それよりもフレーチェには、気になることがあった。
「シルフィは師匠といるときよりも、熱心に勉強してますよね」
素っ気なく指摘した瞬間、シルフィの動きが止まった。
図星をつかれたのか、シルフィは表情筋を強ばらせると、なにかをごまかすような、へんてこな笑いを浮かべて、
「……努力を隠してるわけじゃないんですけどね……」
と歯切れの悪い口調で言った。
フレーチェは曖昧な顔をしてうなずく。
気になる異性の前ではなんとなく姿を取り繕ってしまう、よくあることなのだと思う。調子が狂ってしまうのだ。きっと、泰然自若としているシルフィよりも、こうして本をにらんでいるシルフィのほうが自然体に近いのだろう。
「シルフィは師匠のこと、どう思ってるんですぅ?」
見てればわかるけれど、はっきり確認しておきたかった。
「…………」
答えることができず、動揺も隠せずに、シルフィは目を泳がせた。
海千山千の大人たちと渡りあってきたとは思えない、とてもわかりやすくて愛らしい反応だったので、フレーチェはつい笑ってしまった。
観念したように、シルフィもぎこちなく笑う。
その笑顔は、年相応の、なんの変哲もない、極上の笑顔だった。
思わずフレーチェが見とれていると、シルフィが恥ずかしそうに唇を動かして、
「――――」
想いが言葉になる寸前、部屋の扉が開いた。
メアリーが部屋にもどってきたのである。
「…………?」
テーブルをはさんで見つめあっているふたりを見て、メアリーは不思議そうに首をかしげた。