90話 勇者の剣と英雄の盾
雨よけの帽子を被った御者が手綱を握っている。幌馬車が、そぞろ雨に濡れる大街道を走っていた。馬の蹄が規則正しく音を立て、車輪が轍にたまった泥水をはねとばし、順調に進んでいるかに見えた馬車は、しかしあと少しでオレンの門が見えるというところで、その速度を急に落としていく。
御者が肩越しに振り返った。
「あちゃ~。ついてないねえ、お客さんがた」
「検問でもしてるのですか?」
乗客のひとり、紫色の髪の青年が硬い声で訊いた。その青年、ティオレットは道の先に視線を飛ばしている。
前の馬車との距離が近かった。速度を落とすのはやむをえない。
いつになく道が混んでいるようだと、ティオレットは顔をしかめて、
「大都市オレンでは、出入りする人の審査などいちいちしていられない、と聞いていたのですが……」
「いや~、検問じゃないよ。聖国軍が動いたせいで、道が滞ってたからだろうねえ。オレンの門が、ずいぶんと混んでるみたいだわ」
割を食うのはいつだって市民だ、といって御者はやれやれと肩をすくめる。
「ま、今回の出兵で一番痛い目を見たのは、女王陛下かもしれないけどね」
「と、いうと?」
と、ティオレットはいかにも興味のありそうな顔をした。
「ベンドネル公討伐軍が、なにもせずに引き返してきたんだ。
軍部が命令に従わなかったってことだろ?
女王様の面目は丸つぶれ、ってもんさ」
御者がおどけてにやりと笑う。
「おっと、いまのはここだけの話ね」
御者の口は軽い。
ティオレットを貴族だと知っていたら、こんな話はできないだろう。
簡素な服を着て、平民に見えるようにティオレットは振る舞っていた。いかにも貴族らしい整った顔立ちも、適度に化粧を施してごまかしている。
女装でつちかわれた技術のふるいどころであった。
馬車はゆっくりと進む。
いつまでかかるのだろう。このままでは、日が暮れてしまうのではないか? そう思ってしまうほど遅々と進み、ようやく遠くにオレンの東門が見えた。
御者の節くれ立った指が、大きな門をさした。
「ほらっ、オレンの門が見えてきたぞ。でっかいだろう。あの門がなんと呼ばれてるか、知ってるかい?」
「ぼく知ってる! 英雄の門っ!」
元気よく答えたのは、馬車に同乗する七、八歳くらいの少年だった。
少年は、両親と妹と、四人で馬車に乗っており、これからオレンに引っ越すところだそうだ。
馬車の乗客はティオレットとその家族、合わせて五人だった。
御者は笑いながら、大きくうなずいた。
「正解! じゃあ、あの門のレリーフになってる英雄は誰だと思う?」
「十英雄のレクス!」
少年がはつらつと答えると、御者が「ほら来た」と言わんばかりの得意げな顔をみせた。
「正解っ! だけど、それじゃあ正解は半分だけだ」
「半分?」
「見ればわかるさ」
「え~、ここからじゃ見えないよっ。門がこっちにあいてれば見えるのにっ」
少年は目を白黒させてから、城壁の内側に隠れている門に不満の声をあげた。
「はっはっ。外からじゃ見えないねえ。こういった門は決まって内開きだから」
「どうして内開きなの?」
「外開きだと、門の外側に土でも積まれたら開かなくなっちゃうだろ。それに蝶番が外についてたら、外からはずされちゃうからさ」
少年の疑問に対して、御者がちょっとした知識を披露した。
なかなかサービス精神旺盛な御者だった。きっと職業意識が高いのだろう。
そういえば、とティオレットは思い出す。
叔父のフンボルトもそうだった。
謀反の容疑をかけられたフンボルトは、なんとか生き残る方法はないかとティオレットに相談しにきた。そのとき、ティオレットは「この国を離れるしかない」と答えたのだ。
だが、フンボルトは悩んだすえに首を振り、その提案を拒んだ。泣きそうな顔をして「私が逃げれば、ほかの者に累がおよぶだろう」と。ティオレットに押しつけられた公爵の座だというのに、逃げ出そうとはしなかった。
ひるがえって、ティオレットはどうだったか。
逃げてしまった。妹を護るためといい、聖都に逃げてしまった。
王宮にとどまり、ヴィスコンテ女王と対決すべきだったのだ。
もう、逃げるわけにはいかなかった。
もう、ベンドネル家には時間が残されていないのだ。
ティオレットには確信があった。
ヴィスコンテは聖国軍を動かして、失敗した。
女王の求心力・支配力は揺らぐだろう。
あれは、それを甘んじて受け入れるような女ではない。
すぐさま、次の手を打ってくるはずだ。ベンドネル家を瓦解させるような手を。
それまでに、ヴィスコンテを討ち取らねばならなかった。
やがて馬車がオレンの東門にたどり着くと、少年とその妹が、御者席に身を乗りだした。小雨に濡れるのもかまわず、無邪気に歓声をあげて、その視線がせわしなく左右の門を行き来する。
小さな兄妹の目を奪っているのは、両開きの巨大な鉄門と、そこに彫られたふたりの英雄の姿だった。
御者があごをしゃくって、右の門を示す。
「あれが十英雄『討魔の騎士』レクスさ。オレンの海竜をやっつけてるだろ」
レクスの像は、左足で海竜の頭を踏みつけていた。逆手に持った右手の剣を海竜の首に突き刺して、左手には丸い盾を持っている。
つぎに、御者は左の門を見て、
「そしてこっちが、レクスの父親『退魔の騎士』アゼル。このふたりが聖国が誇る二大英雄さ」
アゼルの像は、船の舳先に右足をかけ、両手持ちの剣を天に掲げている。
どちらも躍動感のある、生き生きとした見事な像だった。
「門の裏側。門を閉めたときに街中から見える側には、それぞれこんな詩がきざまれてるんだ」
門をあとにするなり、御者はそういって、大きく息を吸い込んだ。
英雄の盾よ我を守護したまへ
溟渤に潜む魔竜を討ち滅ぼし
天に祝福されし大地を我らに
上手いとまでは、けっして言えない。だが朗々と、御者は言葉を紡ぐ。
勇者の剣よ我が祈りに応えよ
地の果てにこの身朽ちるとも
我が聖国の未来を切り開かん
――この英雄の門ができたのは、いまから八十年ほど前のことである。
ティオレットは、この門が造られた当時の経緯を知っていた。
大街道の起点となる、聖国の象徴となる門だ。
どこよりも立派な門を造ろう。
そうして当然のように、十英雄のレクスがレリーフとなることが決まった。
だが、英雄が十人もいれば、序列をつけたがるのが人情である。
十英雄を率いて、神殿の基礎を築いた『初代聖女』。
一説には十英雄最強ともいわれる『無彩の賢者』。
魔道具の父『輝ける魔術師』。
レクスはこうした人物の引き立て役に甘んじることが多く、そのなかに聖国としては看過できないことがあった。
十英雄同士の決闘で、帝國の『竜殺しの皇弟』に敗北を喫しているのである。それも、『初代聖女』をめぐる三角関係の果ての出来事だったそうな。
そう。残念ながら聖国の英雄は、帝國の英雄の当て馬役となっているのだ。
ちなみにその直後、勝手に決闘したのが発覚して、ふたりまとめて『初代聖女』にたたきのめされた、との記録が残っている。そのためか、よく議論される十英雄最強ランキングでは、ふたりそろって仲良く下位をさまよっているのだが、それは聖国にとってなんの慰めにもならなかった。
「もし、帝國が同じような門を造ったらどうするのだ」
なんだか負けた気がする。
なんともくだらない話だが、当時の聖国の首脳部はそれはもう真剣に悩んだ。
レクスだけを聖国の顔とするわけにはいかない。
そこで白羽の矢が立ったのが、レクスの父アゼルだった。
功績はおよばないまでも、十英雄にも引けをとらない実力の持ち主である。
最古の大国、聖国の矜持がもうひとりの英雄を必要としたのだ。
――こうして英雄の門には十英雄レクスだけでなく、悲劇の英雄アゼルが並ぶことになったのである。
成功と失敗、光と影。
対照的な人生を送った親子の雄姿は、ティオレットに聖国の頂点に立つふたりの騎士の姿を連想させた。
双子の剣聖、シャルムートとシャルシエル。
難敵である。まともに戦うのは、あまりにも分が悪い。できれば、彼らと戦うのはさけたかった。
だが、聖国軍が失態を演じたばかりの今、ヴィスコンテは用心しているだろう。どこに出かけようとも、剣聖を護衛から外すほど油断するとは思えなかった。
街中に入ってしばらくすると、馬車乗り場で馬車が止まった。
ティオレットと四人家族は、雨に備えて外套のフードをかぶり、馬車を降りる。すると、まだ幼い妹がティオレットに手を差しだした。
「お兄ちゃん。これあげる」
手の平に受けとってみる。赤いアメ玉だった。
「ありがとう」
ティオレットが微笑みかけると、少女は無言のまま跳ねるように、母の背に隠れた。
その家族に別れの挨拶をして、ティオレットは大きなかばんを手に馬車乗り場をあとにした。フードを深くかぶりなおし、口のなかで甘いアメ玉を転がしながら、山腹にある王宮を一瞥する。
剣聖が女王のそばから離れるのはいつだろうか。
女王のプライベートの時間しかない。
つまり、王宮である。
警備はどこよりも厳しいだろう。だが、ティオレットは王宮を知っている。宮廷魔導師や聖騎士相手なら、警備網を突破する自信もある。
ならば、狙うべきはヴィスコンテが王宮にいるときだった。