88話 王宮偵察
海にほど近い安宿をとったマルコは、簡素な寝台の上で座禅を組んでいた。
暗い部屋のなかで灯りもつけずに、まぶたを閉じている。
そのまぶたの裏には、安宿とは似ても似つかない、壁紙や装飾のひとつひとつまでこだわった、それはもう贅沢な部屋が広がっていた。
敵情視察である。
雨にまぎれて王宮に侵入したスライムが、ヴィスコンテ女王の様子を伝えてくる。
黒髪の女王は、背もたれの大きな椅子に深く腰かけており、壁際には、聖騎士と女官が置物のように立っている。
と、入口の扉が開き、朱色の髪の女官が入室して、
「陛下、聖都より報告が届きました」
ヴィスコンテがすうっと目を細めた。
真っ赤な唇を動かして、どこか険のある声で命じる。
「レオノーラをのぞいて、部屋の外に出よ」
人払いがすむのを待ってから、ただひとり残った朱色の髪の女官、レオノーラがいう。
「ティオレットがシルフィネーゼの誘拐に失敗したもようです」
「そうか。どいつもこいつも失敗ばかり。……いや、手駒の能力を把握できぬ、わらわのミスか」
ヴィスコンテは苛立たしげに低い声を出した。
雪のような白い頬が、怒りのためか赤く染まっている。
妙だな、とのぞき見をしているマルコは思った。
ティオレットがシルフィを襲撃したのは、聖国軍がオレンを出発したのと同じ日だ。
その聖国軍出陣の情報は、翌日には聖都の神殿まで届いていた。
それにくらべて、誘拐失敗の情報が王宮まで届くのに、ずいぶんと時間がかかっているような気がする。
……情報の質がちがうからだろうか。
森のなかでの襲撃事件は、一部の人にしか知られていない。
一方、聖国軍が大々的に出陣したことは、オレンの民なら誰でも知っていることだ。
けれど、それを踏まえても報告が遅れている気がする。
マルコは考えこみ、ある人物の存在に思い至った。
聖都で工作活動に従事していた、ふとっちょの伯爵である。
彼の失敗と死によって、ヴィスコンテ女王は聖都の情報を手に入れにくくなっているのだろうか。
「ガイヤールの供述も変わらぬか?」
ヴィスコンテが冷ややかに訊いた。
「はい。ガイヤール将軍は牢に入れられても一貫して、空から降ってきたスライムに食料を奪われた、と主張しております」
レオノーラの言葉を聞いて、ヴィスコンテの赤いつめが、椅子の肘掛けをコツコツ叩く。
「わらわをコケにしておるな。……気にくわぬ」
「はい。ガイヤール将軍の行動はあきらかな背任にございます」
「……いや、そこではない。やつの部下が、その白いスライムを証拠品として提出していたであろ」
「はい……」
「全軍がそろってウソの証言をすることなどありえん。ならば、本当にスライムに襲われたのじゃ」
「…………」
レオノーラがおどろいたように眉を上げた。
軍隊がスライムに襲われて敗走するなど、まずありえない話である。
だが、ヴィスコンテ女王はそうは思わなかったようだ。
「ふむ。光が雲を貫いたと思うや、空からスライムが降ってきて兵糧を食い荒らした。そして、そのスライムは人体に害がなく、死傷者は出なかったという。
なんとも荒唐無稽な話である。……が、不可能な話ではない」
ふんと鼻を鳴らして、つづける。
「おぬしは憶えていよう。マルクシールという化粧品の原材料に、スライムが使われておった」
「はい。私めが献上いたしましたゆえ」
ヴィスコンテ女王の放った言葉は、遠く離れた場所にいるマルコをヒヤリとさせた。
その化粧品は、マルコと魔王軍の薬師がつくったものであった。
ちょうどマルコがのぞいているタイミングで、偶然話題にあがることなどあるだろうか?
のぞきがばれたのではないかとマルコは息をのんだが、どうやらその懸念は杞憂のようだった。
「ようやく読めたわ。
わらわがスライムの研究を命じた魔導師や貴族のなかに、裏切り者がおる。
おそらく、ベンドネル公と親しい者であろう。
気にくわぬのは、そこよ」
タネはわれたとばかりに、ヴィスコンテは口を歪める。
「まず、魔法の光で雲を貫き、兵士たちの目を空にむけさせる。
これだけなら、宮廷魔導師ほどの腕がなくともできよう。
その隙に、兵糧庫にスライムを解き放てばよい。
あとはスライムを鎮圧しようとする動きを、邪魔すればよいのじゃ。
白いスライムさえあれば、むずかしいことではない。
その裏切り者は、魔大陸から白いスライムを取り寄せ、研究のために増やしておったのであろう」
ヴィスコンテは音もなく嗤うと、ぎりっと歯をくいしばり、底冷えのする声で、
「いずれ目に物見せてくれる。
だが、まずはベンドネル家を締めあげねばならぬ。
このまま黙っていれば、わらわの沽券にかかわろう」
「いかがなさいますか」
「しばらく軍は動かせぬ。
シャルシエルを呼べ。
任務に失敗したティオレットを殺す」
「かしこまりました」
「軍も引き締めねばならん。ガイヤールの処刑も考えなければな」
「はっ」
レオノーラが退室すると、入れちがいに女官と聖騎士が入ってきた。
マルコは偵察を切り上げて、まぶたを開けた。
豪華な部屋が幻のように消えると、そこはもう暗く沈んだ、安宿の一室でしかなかった。
「殺せ、殺せ。……どういう神経をしてるんだ」
はじめて目にしたヴィスコンテの姿は、氷の女王というよりギロチンの女王と呼んだほうがふさわしいように見えた。
虫唾が走った。
ヴィスコンテはこんな調子で邪魔者を排除してきたのだろう。
だが、次は彼女が排除される番だ。
といっても、殺せば万事解決、なんて簡単な話ではなかった。
ヴィスコンテをさくっと暗殺して、その凶器をティオレットの手に握らせるだけでいいのであれば、マルコにとってさしてむずかしい話ではない。
それではいけない。足りないのだ。
これはヴィスコンテ女王が死んでめでたしめでたし、で終わる話ではなかった。
その後に訪れる混乱を、ティオレットに乗り越えてもらわなければならないのだ。
フレーチェ、ベンドネル公爵家、聖国。ティオレットはどのような手段を使ってでも、護るべきものを護ろうとするだろう。
彼は今までそうしてきたし、今もそう動いている。
妹の命を護るためにと、その妹を貴族社会から追い出す残酷なまでの策を用い、家を護るのにこの手しかないとなれば、女王暗殺という大胆な行動に打って出る。
頼りになる人物ではある。しかし、そこには気を許すわけにはいかない側面もあった。
困難に直面し、おのれの立場を強化する必要にせまられたなら、ティオレットはためらうことなく公言するだろう。ヴィスコンテ女王暗殺は、次期聖女の協力をえた、支持をえた行為だったのだと。
結果、シルフィの立場が悪くなる。
そんな結末をマルコは望まない。
だからマルコの助力は、ティオレット当人にすら悟られないほうがよいのだ。
ぎりぎりまで手出しは控える。限界を見極める。
できればティオレットには、自分の力だけで女王暗殺に成功してもらうのが一番なのだが――。