87話 シルフィの優先順位
聖都でティオレットの失踪を知ったときのことである。
宿の外はどしゃ降りの雨で、夏がすぐそこに迫っているというのに肌寒い朝だった。
女王暗殺に動いたであろうティオレットに、英雄の役割を担ってもらおう。
そういってからソファーに腰をおろしていたシルフィが、一直線に引き結んでいた口から、ため息をこぼした。
「一時的に戦争を止めたところで、ヴィスコンテ女王がいるかぎり、同じことが繰り返されます。かりに女王の座から退いてもらっても、同じこと。
生きているかぎり、ヴィスコンテは女王に返り咲くためにさまざまな手を打ち、その過程で多くの血が流れるのでしょう」
そこで、ふたたびため息をつく。
「ですから、しかたありません。ティオレットにヴィスコンテ女王を暗殺してもらいます」
対面に座るマルコはうなずき、しかし問いかける。
「けど、女王が死んだら、聖国は混乱して大変なことになるんだろ?」
シルフィはかすかに眉根を寄せて、
「たとえば、よそ者に女王を暗殺された場合。
聖国は威信をかけて、その犯人を捕まえなければなりません。
当然、混乱を収拾するのにも時間がかかります。
それに女王を暗殺されたとなれば、他国から低く見られて、ちょっかいをかけられるのもさけられないでしょう」
一度、目を閉じてから、
「見方を変えましょう。
ヴィスコンテ女王が統治するいまはともかく、聖国は元来、貴族の力が強い国です。
ですから、貴族たちの視点から考えます。
ベンドネル家は無実の罪を着せられ、討伐軍を差し向けられました。
生き延びるには、どのような手段が考えられたでしょうか。
……亡命するしかないのです。
公爵家としての実権を手放したくなければ、領地ごと帝國に寝返るしかない」
帝國は諸手を挙げて歓迎するでしょうね、とシルフィはつづけた。
それはそうだ。
ベンドネル公爵家は聖国東部のまとめ役、帝國との国境を守る大貴族である。
そのうえ、その広大な領地のなかには、回復魔法を司る神殿の総本山、聖都テテウがある。
聖都は大陸の勢力図を書き換える、鍵となる場所といってもいい。
そこが転がりこんできたら、帝國は大喜びだ。
「しかし、ベンドネル家は聖国を裏切らなかった。
聖国を売らずに生き延びるため、ヴィスコンテ女王と戦う道を選んだ。
この話は、貴族たちにとって受け入れやすいはずです」
口に出した内容を確認するかのように、シルフィは口元に手をあてた。
反逆者あつかいされ、すべてを失う。
貴族たちにとって他人事ではないだろう、とマルコは思った。
明日は我が身だ。
表には出せずとも、内心ベンドネル公に同情している貴族は多いはずだった。
ヴィスコンテ女王にとって、その同情には意味がない。
表に出る、畏れにこそ利用価値がある。
けれど、その畏れもヴィスコンテがいなくなれば消える。
そうなれば、ベンドネル家に対する同情や支持を、態度で示す貴族もあらわれるだろう。
「女王暗殺に失敗すれば、ティオレットは当然のように処刑されます。
成功しても、彼を処刑すべきだという意見はあがるでしょう。
……ですが、ベンドネル家を潰そうとした絶対的な独裁者が返り討ちにあったばかりで、その声がどれほどの形となるでしょうか?
ベンドネル家と正面から敵対することに、利を見いだす貴族がどれほどいるでしょうか?」
シルフィがどこか冷めた表情を浮かべてそういうと、ソファーのそばに立っているメアリーが首をひねって、
「トト家が中心となれば、ベンドネル家と争うこともできるとは思いますが……」
シルフィは翠銀の髪を揺らして、メアリーを見上げる。
「それは聖国にとって日常的な権力闘争の構図です。
日常的な範囲でなら、いくら争おうとかまいません」
「ヴィスコンテが死んだあとの、女王の座をめぐる争いはどうなるんだ?」
とマルコは訊いた。
シルフィは首を振ると、「さあ?」という顔をして、
「わかりません。
それこそ、権力闘争の行方次第です。
さまざまな可能性が考えられるでしょう」
ゆっくりと、まるでものを数えるように言う。
「フレーチェが女王となるのか。
ヴィスコンテ女王の打倒を功績として認めさせ、ティオレットみずから王となるのか。
逆にそれが咎となるようなら、ベンドネル家とは別の家から女王が選ばれるのでしょう。
……そのなかでひとつだけ、さけなければならないことがあります。
それは、ベンドネル家の発言力を封じられた上で、フレーチェが女王となること。フレーチェが孤立した状態で、王宮に放り込まれるのはさけなければならない」
とシルフィは大きく息をはいた。
肩から力を抜いてつづける。
「ですが、ベンドネル家の力を封じるつもりなら、そもそもフレーチェが女王に選ばれることはないでしょう。
それに、ティオレットもそのような状況にはさせないはずです。
ヴィスコンテ女王暗殺後の、彼の手札は強力ですよ。
ベンドネル公爵家は聖国最大の貴族であり、フレーチェは女王候補の最右翼。
そして、ティオレット自身は独裁者を討った張本人です。
最後のは毒にもなりえますが、強力な手札であることはたしかです」
「なるほど。
ティオレットに英雄の役割を担ってもらうというのは、英雄あつかいされる状態が一番都合がいい、ってことか」
納得したマルコは、前のめりに座りなおした。
「はい。マルコはロロに力を貸して、剣聖の腕を切り落とさせたことがあるのでしょう? ティオレットに力を貸せば……」
剣聖を倒せる。
ヴィスコンテ女王暗殺の最大の障壁が、双子の剣聖であることは間違いない。
彼らさえ倒せれば、きっと上手くいく。
しかし、メアリーが首を横に振り、
「お嬢様、お待ちください。
神殿には聖国の内政に関与してはならない、という決まりがあります。
それを破るのは、少々まずいのではありませんか?」
「平和になるのなら。少々まずいくらい、かまいません」
「ですが、お嬢様は聖女になられる身。神殿の模範となるべき身なのですよ」
「ふせげる争乱をふせごうとしない。それが聖女に必要というのなら、聖女になんてならなくてもよいと、私は思います」
その返答に、メアリーが唖然として言葉を失った。
シルフィは申し訳なさげに、苦笑を浮かべて、
「私の優先順位は、もしかすると聖女にふさわしくないものかもしれません。ですが――」
「まあ、神殿がどうとかはともかく、シルフィには聖都に残ってもらうけどな。
こっそり動くんだったら、俺ひとりでオレンに行ったほうがいい」
ぴりっとした空気を感じとったマルコは、口論に発展する前に口をはさんだ。
ひとたび口論になれば、それを止める自信など、マルコにはまったくかけらもなかったのである。
シルフィが苦笑をおさめて、じっとマルコを見つめる。
「私がオレンについていったところで、足手まといにしかならないのでしょう。
……聖都や帝都なら、私の立場だって役に立つのですが……。
おとなしく、聖宮殿でマルコが帰ってくるのを待っています」
そして、じりじりとにじり寄るように念を押す。
「マルコ。私にも、絶対にゆずれないものはあります。
最優先するのは、マルコといっしょに帝都に帰ることです。
あなたに頼むのは、それでうまくいくと思うからだけじゃない。
いかなる状況になろうと、絶対に無事に帰ってくる。
そう信じているからなんですよ。
最優先すべきは自分の身、それだけは忘れないでください」
「了解」
「約束ですからね、約束」
「はい」
マルコは少しのけぞって、そうこたえた。
こたえつつ、頭のなかではオレンでどう動くべきかを考える。
もちろん、ヴィスコンテ女王の暗殺には協力する。
ただし、シルフィの立場が悪くなるようなマネなんてするつもりはなかった。
そのためには、どうすればいいのか。
だれにも知られないように行動するしかない。
マルコはそう決意したのだった。