85話 好機
翌朝の、朝食もまだの早い時間帯だった。
宿を訪れた人物の言葉に、マルコは目を丸くして立ち尽くした。
「ティオレットがいなくなった!?」
「は、はい。昨夜まではたしかに家にいたんです。けど、けど今朝になって、邸のどこを探してもいなくなっていて……」
と話すのは、雨に打たれて濡れネズミになっているワシュレットだ。
ベンドネル邸からここまでは馬車に乗ってきたはずだが、その乗り降りだけでずぶ濡れになったのだろう。
一晩中降りつづけた雨は、朝になってはげしさを増していた。
「落ち着いて」
シルフィが手本のような落ち着いた声で、ワシュレットに語りかける。
「落ち着いて、ゆっくり。ティオレットがどんな様子だったのか話してください」
ワシュレットは泣きそうな顔のまま、うなずく。
「は、はい。兄上は……ずっと考え込んでいるようでした」
おととい、聖国軍の出兵を知ってから。
ティオレットはずっとふさぎ込んでいたそうだ。
昨日の午前中、そのティオレットを訪ねて、叔父のフンボルトが大慌てでやってきた。
フンボルトは自身に差しむけられた討伐軍について相談すると、急いでベンデルに帰っていった。
夜になると、聖国軍が引き返したとの連絡が聖宮殿から届いた。
そのあと、ティオレットはワシュレットに念を押すように言った。
フレーチェとともに、帝都に帰るシルフィに同行するように、と。
変わった出来事といえばそのふたつくらいだという。
そして、朝になるとティオレットは姿を消していた。
「振り返ってみると、なんであんなに念を押していたのか……」
ワシュレットは苦しげに顔をゆがめる。
「聖宮殿に連絡をしようとも思ったのですが、ここのほうが早いかと思いまして」
メアリーからタオルを渡されたワシュレットは、ようやくずぶ濡れなのを意識したのか、紫色の髪を乱暴にふく。
まだ朝早く、聖宮殿が外部の人の取り次ぎをはじめるまでには時間がある。
シルフィが滞在する、この宿に来たほうが話が早いだろう。
「わかりました。聖宮殿には私から連絡します」
シルフィはなにかを思案するように目を細める。
「ワシュレット、あなたは家にもどりなさい」
「ですが……」
「家でティオレットを待つことはあなたにしかできません。ほかに、あなたにできることがありますか?」
「……はい。わかりました」
ワシュレットは渋々といった調子でうなずくと、頼りない足取りで扉の外に消えた。
それからしばらく、シルフィは険しい顔をしていた。
やがて大きく息を吐き出すと、マルコに訊く。
「マルコ。ティオレットはどこにいったと思います?」
すでにシルフィなりの答えがある。
そんな響きのする声だった。
問われたマルコの頭のなかにも、なぜか確信に近いものがあった。
「ティオレットはたぶん、……女王を殺りにいった」
「……それしか考えられませんよね。たぶんですけれど」
シルフィがうなずいた。
ヴィスコンテ女王の暗殺。
ティオレットが姿を消したと聞いて、真っ先にマルコの頭に思い浮かんだのがそれだった。
妹を守るために、どんな手でも使ったティオレットだ。
家を守る方法がそれしかないとなれば、女王暗殺を選んでも不思議ではなかった。
このままなにも手を打たないでいれば、ベンドネル家に未来はない。
討伐軍をしのいだところで、延命にしかならないだろう。
ヴィスコンテが女王でいるかぎり、いずれベンドネル家は潰される。
それを受け入れたくなければ、その前にヴィスコンテを暗殺するしかない。
ほかにどのような手段が残されているのか、マルコは考える。
帝國に寝返るのはどうだろうか。
亡命するのではなく、ベンドネル領まるごと寝返るのだ。
いや、その手を使ったら今度こそベンドネル領が戦場になる。
それも、より血なまぐさい、泥沼の戦場となるだろう。
やはり、女王暗殺を選んだとしか思えなかった。
無茶な話かもしれない。
けれど、ティオレットの技量なら、成功する可能性はゼロではなかった。
「これは……好機です」
「好機?」
理解できなかったマルコは、思わず聞き返した。
聞き返して、息をのんだ。
シルフィの顔から困惑の色は消えていた。
瑠璃紺の瞳に強い光を宿し、シルフィはまっすぐにマルコを見ていた。
「はい。ヴィスコンテを討ち、聖国を変える好機です。ティオレットには英雄の役割を担ってもらいます」