83話 白いスライム
ウォレスがおもむろに袖をまくり上げる。
肩までまくると、魔導師にしては筋肉質な二の腕に、青黒い痣があった。
フレッドの鍛錬につきあわされてできた、打撲の痕だ。
ウォレスはそこに、空から降ってきた謎の白い液体を塗り込む。
「なにをする、ウォレス」
「閣下、これをご覧ください」
ガイヤールは目をみはった。
白い液体を塗ったそばから、その打撲痕がみるみる消えていったのだ。
「これは、傷が治ったのか?」
「はい。おそらくこのスライムが白く濁っているのは、回復魔法と同じ魔力を帯びているからでしょう」
ウォレスは袖を下ろしてつづける。
「スライムという魔物は環境によってその性質を大きく変化させます。たしか魔大陸にはポーションの材料に使えるスライムもいたはずです。その一種かと」
「そんなポーションは使いたくないのだが。……やけに、スライムにくわしいではないか」
ガイヤールの放った質問は、意外な話を引き出すことになった。
「去年、同期の魔導師から、相談を受けまして」
「ほう」
「その魔導師は、女王陛下からスライムの生態を研究するよう命じられたそうなのです」
「ほう?」
「なんでも、女王陛下がいたくお気に召した化粧品の原材料に、スライムが使用されていたとのことで」
「……また怪しげな」
ガイヤールは呆れまじりに、ごくごく一般的であろう感想をこぼした。
スライムを原材料にするとは、またずいぶんと思いきったことを考える者がいたものだ。
しかも、それがあのヴィスコンテ女王の目にかなうとは、並大抵のことではない。
世に化粧品の類はいくらでもあるだろうに、いったい誰がそんな怪しげなものを女王陛下に献上したというのか。
作った人物はともかく、献上した人物については、ガイヤールにも見当がついた。
「さては、女官長のレオノーラ経由であろう」
「どうやらそのようで。女官長が手に入れたその化粧品、じつは魔大陸からの舶来品でして」
「あの女官長、ついに魔大陸の品にまで手を伸ばしたか」
呆れていいのか感心していいのか、ガイヤールはゆっくり首を振った。
同感とばかりに、ウォレスは苦笑する。
「魔王城で販売された、マルクシールというブランドの商品だそうですが」
「魔王城とはまた……。それは本当に化粧品なのか?」
もはや、怪しくないところを探すほうがむずかしい。
「はい。期間限定販売だったらしく、もう販売していないようなのです。それで、女王陛下が同じものを作れと……」
ウォレスは悩ましげに口をつぐんだ。
難題を押しつけられた同期の魔導師に、同情でもしているのだろうか。
ガイヤールが愛馬の背に白い液体を見つけ、せっかくだからとそのまま愛馬に塗り込んでいると、どこからか将兵の騒ぎが風に乗ってきた。
どうして騒いでいるかはすぐにわかった。
白いスライムが、浜辺に打ち寄せる波のように流れてきたのだ。
ガイヤールは足元を見た。
草を踏みつける鉄靴のくるぶしを越え、すね当てまでもが白い液体に浸ろうとしている。
「ウォレス、研究材料が増えたようだぞ」
「持ち帰ってもかまわないのですか」
「ああ、かまわん。それはともかく。なぜ、そんなスライムが降ってきたのだ。この白い雨はメテオストライクの残骸ではなかったのか」
「この広い空の果てには、スライムでできた隕石があるのかもしれません」
魔導師は叡智の探求者である。
理不尽な現実も直視せねばならない。
とはいえ、さしものウォレスも困惑しているようで、ひとつ首を振ると、水浸しになった足を不快そうに見下ろす。
岩鹿の革でつくられた、通気性のよさそうな靴だった。
ガイヤールは思う。
魔導師のウォレスにはわかるまい。
鉄靴のなかに入り込んだスライムのおかげで、軍人病のかゆみが解消されていることが。
なんと心地よいことか。
ボロボロになった足の指に染みいるようだ。
別名、水虫ともいわれる軍人病。
もう四十年来のつきあいになるが、ついに別れのときがきたのかもしれなかった。
「まあよい。これがスライムであろうと、害がないのならばよい」
むしろ、ありがたい。
自然と評価は甘口になった。
「……害がない、とは言いきれません」
「む、どういうことだ」
「この状態で生きているとは思えないのですが……。増えているということはまだ生きていて、なにかをエサとしているのではないでしょうか?」
ウォレスが懸念を口にするのと、ほぼ同時だった。
さきほどよりも大きな騒ぎが、耳に飛び込んできた。
混乱をきたした、悲鳴まじりの声。
怒号と罵声が聞こえてくるのは陣営の中央、そこにあるのは――兵糧の集積所だ。
「まさか」
ガイヤールの背筋に冷たいものがはしった。
その間にも、騒音と将兵の絶叫が近づいてくる。
次の瞬間、目の前の天幕が崩れ落ちた。
まるで、大波に打ちすえられた帆船のように、崩れ落ちた。
天幕を支柱ごと飲み込んだのは、白い濁流だった。
猛々しい濁流が、聖国軍のすべてを蹴散らし、押し流そうとしていた。
木箱に樽に、盾や槍。
彼らを支えるはずの物資が凶器となって、奔流の殺意をいや増していた。
その白い奔流に、兵たちはなすすべもなく呑み込まれていく。
そこに見知った顔を見つけ、ウォレスが愕然と叫んだ。
「フレッド!?」
フレッドが流されてくる。
いや、上半身を板きれにのせ、その端をつかんで、なんとかバランスをとっている。
荒波に翻弄されながら、フレッドも叫びかえした。
「閣下!! まずいです!! 兵糧が、どんどんなくなってますッ!!」
「なんだと!! ぬうっ」
腰を越えるほどの濁流に襲われたガイヤールは、愛馬の首にひしとしがみついた。
スライムの濁流が、体をさらおうと荒れ狂う。
身動きなどできそうもない。
いまにも流されてしまいそうだった。
「やはり兵糧をエサとしていたかああああぁぁぁぁ…………」
こらえきれなかったウォレスが流され、その声が遠ざかっていく。
「ウォレーッス!! 波に逆らうなっ、波に乗るんだー!!」
と大声で呼びかけるフレッドはというと、巧みに板きれをあやつり、将軍の横を通りすぎていった。
さすがに止まることはできそうもない。
それでもガイヤールの視界に入るかぎり、もっとも上手く対処しているのはフレッドのようだった。
「く、ぬぬっ!?」
愛馬とともに耐えていた老将軍の全身を、はげしい戦慄が駆けあがった。
フレッドが横を通りすぎたと思ったら、新たに突進してくる影があった。
戦歴四十年。
かつて、これほど絶望的な敵が存在しただろうか。
樽だ。
ガイヤールの眼前に、猛烈な勢いで樽が迫っていた。