82話 聖国軍の朝
風が強く吹き込んで、並ぶ天幕がばたばたと音をたてた。
初夏の朝の匂い。
鮮烈な緑の匂い。
さわやかな、心地よい風だ。
「規律を守れなければ、それは軍隊ではない。そうは思わぬか、ウォレス」
しかし、兵士たちを眺めるガイヤール将軍の視線は晴ればれしくなかった。
「はい。規律を守れぬ軍など、賊徒と大差ありません」
「うむ。たとえ士気が低くとも。軍人病で足の指がかゆくてたまらなくとも。キビキビ動いてこその軍人なのだ」
ほんの一瞬だけ、視線を 将軍の鉄靴に落としてから、魔導師ウォレスはなにも聞かなかったかのように、周囲を見回した。
聖国軍は陣をたたんでいるところだ。
そろそろ第一陣の出発時刻になる。
ガイヤールのもとめるキビキビとはほど遠いが、さすがに正規軍だけあって、予定時刻を大幅に遅れることはなさそうだった。
ガイヤールは馬つなぎ棒から愛馬の縄をはずした。
すると、なにを感じとったのか、その愛馬がいなないた。
「むっ?」
「閣下! あれをご覧ください」
ガイヤールは顔を上げた。
ウォレスの指は東の空をさしていた。
「うむ、どうした」
異変は見当たらない。
いや、空一面の雲に、一点だけ穴があき、そこだけ青空が顔をのぞかせている。
「あの雲を……、光がつらぬいたのです」
ウォレスはうめくように続ける。
「まさか、そんなことは……」
「ウォレス。懸念があるなら言うがいい」
「私の知るかぎり、あのような魔法は、メテオストライクしか……」
馬の縄を握りしめたまま、ガイヤールは大きく目を見開いた。
「馬鹿な。いくらベンドネル公が聖国の東をあずかる大貴族といえど、あくまで一貴族にすぎぬ。そんな魔導師が配下にいるはずなかろう」
それほどの魔導師であれば、宮廷魔導師どころか、その長の座を争える。
かりにその人物が、中央をきらい地方にいるとしても、無名ではいられないだろう。
「ですが……、これがベンドネル領ではなく、聖都への侵略と見なされていたらどうでしょうか?」
「神殿が強力な攻撃魔法の使い手を隠していた、とでも言うのか?」
「いえ、そうは言いません。……しかし、もし、もしもアセリア・ノーマッドが生前、十英雄の仲間『無彩の賢者』に聖都の守りを頼んでいたとしたら……」
十英雄のひとり、『無彩の賢者』はエルフの魔法使いだ。
あらゆる属性の魔法を使いこなし、数えきれぬほどの魔物を葬り去った偉大な賢者。
彼はその後、勝ちとった平和が人間同士の争いで踏みにじられるのに辟易して、森の奥に姿を消したという。
十英雄で唯一、その最期を確認されていない人物であり、長寿のエルフであることから、今もどこかの森でひっそりと暮らしているといわれている。
ウォレスが薄い唇を歪めると、その削げた頬に影が差した。
「人間嫌いで知られる、いくたの戦乱を傍観してきた御仁ですが……」
「かつての仲間との約束ならば、動くこともありえる……か」
ウォレスがつむぐ最悪の仮説に、ガイヤールはうめいた。
伝説の英雄が敵に回ったとしたら、もはや戦争どころではない。
メテオストライク一発で、ろくな抵抗もできずに、数千の兵が失われるのだ。
聖国軍はベンドネル領にたどり着く前に、壊滅してしまうだろう。
「閣下、来ます!」
ウォレスの警告を受けて、ガイヤールは頭上を見上げた。
今度はガイヤールの目にも、はっきりとそれが見えた。
上空の雲を突き破り、迫ってくるのは光球だった。
あの光球が、はるか高みまで上昇して雲をつらぬいたのだ。
そして、ふたたび雲をつらぬいて、聖国軍に襲いかかろうとしている。
どれほどの大きさだろうか。
判別はむずかしいが、脅威が迫っていることだけは間違いなかった。
ほとんど一瞬のうちに、兵たちの狼狽と動揺の声が膨れあがる。
「魔法を使える者は迎撃の用意をせよ!! それ以外の者は衝撃にそなえよ!!」
よく通る声だった。
ガイヤールは年齢を感じさせぬ、張りのある大きな声で命令を発した。
その指示は、周囲の兵たちによって復唱され、さざ波のように聖国軍全体へ広まっていく。
それは効果を見込めない指示だったかもしれない。
だが、将兵を飲み込まんとしていた動揺の一部を、緊張に転ずる効果はたしかにあった。
全軍が固唾をのみ、空を見上げた。
その瞬間であった。
光球は、雪玉が砕けるように分裂した。
無数に砕け散り、ガラスのきらめきを残して曇天に消えていった。
「む、これはいったい、どうしたことか」
ガイヤールが呆然と空を見上げていると、ウォレスが安堵の息をはいた。
「どうやら、失敗したようですが……」
「……伝説の英雄を敵に回してしまった、と考えるのは早計であったか」
本物の『無彩の賢者』ならば、たとえメテオストライクであろうと失敗はしないだろう。
ガイヤールは警戒を解くよう指示をだそうとして、動きを止めた。
ぽつりと、雨が顔に落ちてきたのだ。
ただの雨ではない。
そう感じたガイヤールは、顔についた雨粒を指先でぬぐいとり、顔をしかめた。
「うむ? なんだこの白い雨は。いや、油か?」
「いまの隕石の、残骸ではないでしょうか?」
ウォレスもまた、掌に受けた雨を見ていた。
「この白い雨が、隕石の残骸だというのか?」
「はい。メテオストライクとは、はるか天空の彼方から隕石を呼び寄せる魔法です。先例が少ないので確証はありませんが、たまたま氷でできた隕石を呼び寄せてしまったのではないかと」
「ううむ」
納得しかねる老将の前で、ウォレスは掌を鼻にもっていく。
「匂いはありません。いや、これは……」
「うむ?」
「これはもしや、……スライムではないでしょうか?」
「なにを言っとるんだ、お前は」
スライムが空から降るなどありえない。
ガイヤールは従者の知性を心配した。
呆れると同時に、自戒した。
働かせすぎたのだ。
ウォレスにむける老将軍のまなざしは、ひどく優しいものになった。