80話 西へ
敵将であるガイヤール将軍から、自分より確実に不幸な男といわれるベンドネル公フンボルトは、見るも痛ましいほど悲嘆に暮れていた。
「どうすればよいというのだ……」
ワイングラスをかたむけて赤い液体を一気にあおると、空になったグラスを乱暴な手つきで仕事机に置く。
自分に謀反の嫌疑がかけられている、とフンボルトが知ったのはついさきほど、夕刻のことだった。
オレンのベンドネル邸に勤める魔導師が、使い魔のカラスをこのベンデルまで急ぎ飛ばして、知らせてくれたのだ。
伝え聞くところによると、ベンドネル公というのは次から次へと罪を重ねる大罪人らしい。
領内の娘をかどわかし、重税を課しては、税金を横領しているという。
こっそり軍備を拡張して反乱の機をうかがい、挙げ句の果てに、ヴィスコンテ女王がベンデルに滞在中、その命を狙ったそうだ。
「どこのどいつだ。そのベンドネル公というやつは……」
なんというけしからん公爵であろうか。
フンボルト自身にまったく思い当たる節はない。
青くなった主君とは対照的に、憤慨に顔を赤らめたのは騎士長だった。
「聖国軍の総大将、ガイヤール将軍は騎士ではありません。本陣を急襲すれば勝ちの目はございます。われらベンドネル公爵軍の誇りと覚悟、聖国中に知らしめてやりましょう」
といって、彼はいま、戦の準備を急いでいる。
このベンドネル領において、騎士長は騎士だけでなく、軍を統括する立場にもある。
というのも、組織があまり大きくないため、兼任が可能だからである。
総大将が討たれれば、その戦は負けといっていいだろう。
個人の武勇にすぐれる騎士が、軍のトップをつとめることができるのなら、それにこしたことはない。
では聖国の正規軍はとなると、その規模の大きさゆえ、騎士団と軍を明確に分けなければ、組織の運営に支障をきたすのであった。
「……それは、無謀だ」
誰もいない部屋でひとり、フンボルトは頭を抱えた。
勝機が総大将の武勇にしかないとなれば、騎士長がそこに賭けようとする気持ちはわかる。
だが、当然のことながら聖国軍の本陣には、多数の騎士が配属されているだろう。
ガイヤール将軍を討ちとれるとは、とうてい思えなかった。
戦ったところで勝ち目はない。
騎士長とてそれはわかっていよう。
わかってはいようが、彼のつとめは主君に降伏をすすめることではない。
少ない勝機をつかんでみせることだ。
だからこそ、玉砕してでも一矢報いてみせようと気を吐いているのだろう。
フンボルトにも、公爵として果たさなければならない責務がある。
それは、領民の暮らしを守ることだ。
そこには部下の命も含まれている。
勝ち目のない戦にのぞみ、部下の命を無駄に散らすわけにはいかなかった。
「だが、……だが、私には覚悟ができんのだ」
降伏すれば、流血は最小限ですませられる。
しかしそれでは、大罪人ベンドネル公、つまりフンボルト自身の生き残る目がない。
自分の命を犠牲に部下を守る。
そんなヒロイズムや貴族の誇りに、フンボルトは価値を見いだせなかった。
そもそも謀反の嫌疑をかけられていては、貴族の誇りもへったくれもない。
戦も降伏も、どちらも選べない。
こうして悩んでいる間にも、フンボルトの余命は砂時計の砂が落ちるように刻々と減っていく。
「……よし」
しばらく懊悩して、ひとつの結論に達したフンボルトは席を立った。
ドアを開けて、部屋の外に控えていた従者に声をかける。
「馬の用意をせよ。聖都にむかう」
フンボルトがはじき出した答え。
それは、一晩中馬を走らせ、明朝にも聖都に入りティオレットと相談する、というものだった。
もともとが、ティオレットに押しつけられた公爵の椅子なのだ。
泣きつくのに、なにをためらうことがあろうか。
少なくとも、ひとりで頭を抱えているよりは、よい案が浮かぶはずであった。
フンボルトがわずかな護衛とともに馬を駆り、東の聖都をめざす夜。
その聖都を飛び出して西へとむかう影があったのだが、両者が鉢合わせすることはなかった。
馬の数倍の速度で進むその影は、街道よりも早い道を選んでいたのだ。
空の道である。
雲スライムに乗ったマルコたちは、いくつもの街や村の灯火を目印に、西へ飛びつづけた。
十の街を越え、二十の村を越え、やがて背中から少しずつ空が白んでくる。
曇天の半分ほどが白く色づいたころ、マルコはついに聖国軍の陣営を発見した。
遠い視線の先、薄明の空の下。
緑の豊かな平原に、かぞえきれぬほどの天幕が所狭しと並んでいた。