79話 聖国軍の夜
ベンドネル公討伐のため首都オレンを出た聖国軍は、東に進軍して二度目の夜を迎えていた。
完勝を予測されるにもかかわらず、同胞を討つとあって兵士たちの士気はいっこうに上がらない。
その士気の低さは、一兵卒のみならず将校にまで波及していた。
聖国軍の総司令官は、老練をもって知られるガイヤール将軍である。
聖国南部のグルガリア地方にて、王国軍の侵略を三度にわたって阻止した、『グルガリアの盾』と呼ばれる名将だ。
そのガイヤール将軍は、従者のウォレスとともに幕舎にいた。
一見、好々爺に見える将軍の顔にも、どことなく浮かぬ色が見え隠れしていた。
「味気ない食後の口直し、いかがですか閣下」
と幕舎のなかに入ってきた従者、黒髪の騎士フレッドが葡萄酒の酒瓶を見せつけた。
「うむ、もらおうか」
ガイヤール将軍はうなずいた。
軍の食事はわびしいものだ。
野菜クズと干し肉を煮込んだだけのスープ。
料理なんてものではない。味付けは、干し肉にこれでもかと塗り込まれた塩味のみ。
鉄板のように焼きかためられた茶色の堅パンは、そのスープに浸さねば食べられないほどに固い。
塩分と歯ごたえで腹をふくらませる。
ただそれだけの、軍隊の味だ。
慣れれば耐えることは容易いが、とても満足できるようなものではない。
たまりかねたフレッドは酒保商人のもとに出向き、ちょっとした嗜好品を購入してきたのだった。
「フレッド。陣中の様子はどうだった?」
席についていた青銅色の髪の男、魔導師のウォレスが問いかけた。
「商人はいつもと変わらず元気だったさ。あいつら、軍人よりよっぽどたくましいわ」
フレッドは肩をすくめてコルクを抜き、酒瓶をテーブルに置くと、投げやりな態度で椅子に座った。
ウォレスは削げた頬に苦々しい笑みを浮かべて、
「演習のはずが、同胞を討ちにいくことになったのだからな……むりもない」
「不満なのは兵士だけじゃないぜ」
「というと?」
「俺もだ」
フレッドは堂々と言い放つ。
「だって、あのベンドネル公だぜ。謀反なんて考えられねえよ。それに、俺なら一兵も動かさずに、謀反なんて止めてみせるね」
「ほう。どうやって」
ウォレスが銀杯の用意をしつつ、興味なさそうな声で訊いた。
「ベンドネル公がオレンに来たとき捕縛するんだ。簡単だろ?」
伝統的に貴族の力が強い聖国には、それゆえ貴族の反乱を防ぐための仕組みがある。
領地を持つ貴族は、みずからの領地にとどまることが許されず、オレンの王宮に参内しなければならないのだ。
フレッドの言うとおり、オレンにいるときに捕まえれば、軍を動かす必要などない。
たしかに簡単なことだった。
反乱を防ぐ、ただそれだけが目的ならば。
ウォレスは銀杯に葡萄酒をつぎながら、ため息をつく。
「意外に考えてるじゃないか」
「意外は余計だ。自分ばっか頭使うと思うなよ、ウォレス」
「フレッド、逆なんだ。軍を動かすことが、女王陛下の目的なんだ」
「どういうことだ?」
「陛下が欲しているのはベンドネル公の首じゃない。ベンデルに聖国軍を駐留させれば、聖都は丸裸だ」
「おいおい。……まさか、このまま聖都に攻め込むってことですか、閣下?」
フレッドは椅子から腰を浮かせた。
「すくなくとも、わしはそんな命令は受けておらん。今のところは、だがな」
ガイヤールは銀杯を手にし、自嘲するように鼻で笑った。
演習が討伐に変わったのも突然のことだ。
いつ聖都に攻め込めと命令がきても、おかしくはない。
「今のところは、って。もし、そんなことしたら、俺たち歴史に名を残す大罪人じゃないですか!?」
「口をつつしめ、フレッド」
ウォレスが同僚をとがめた。
もし聖都に攻め込めば、その人物は歴史に汚名を刻むこととなろう。
そこに名が残るのは、ウォレスやフレッドのような小者ではない。
ヴィスコンテ女王であり、総司令官であるガイヤールだ。
「かまわん。わしら責任者の名が残るのは当然のことだ」
立場が下の者に責任を押しつけたり、若者に汚名をきせるよりは、はるかに正しいはずである。
フレッドもウォレスも二十代前半とまだ若い。
このまま順調にいけば、聖騎士や宮廷魔導師になるであろう優秀な人材だ。
ガイヤールは従者の未来が閉ざされないよう祈りを込めて、小さく、さりげなく銀杯を掲げた。
「それに、わしよりよほど不幸な男が、確実にひとりはおるからな」
そういって、葡萄酒で唇を湿らせる。
謀反など考えもつかぬであろう男が、反逆者扱いされて討たれようとしているのだ。
ガイヤール将軍が不幸を嘆いてみせようと、ベンドネル公の不幸と比べてみれば、はるかに幸福であることは疑いようもなかった。
「あと十日、といったところか。せめて降伏してくれるとよいのだが……」
老将軍はベンデルを視界におさめるまでの日数を数えて、銀杯に視線を落とした。
揺れる赤い液体は、光の加減によっては血のようにも見えた。