77話 普通の生活
足をとめたシルフィは、じっとメアリーを見つめる。
「……マルコ、ですか?」
「はい。彼なら軍が相手であろうと勝てるのでは?」
こんなところでメアリーにマルコの力を評価されても、シルフィはうれしくなかった。利用するための評価など、あさましいにもほどがある。
シルフィは不機嫌そうな表情を一瞬で消して、ふたたび歩きだした。
「それはダメです。今度の敵は魍魎バッタではなく、人間ですよ。多くの人が血を流せば、それだけ人から恨みを買うことになります。異国の内戦にマルコが介入するなど、あってはならないのです」
「ですが、グラータ様の身にもしものことがあれば。お嬢様はきっと後悔なさるでしょう」
メアリーが気づかわしげな表情でいった。
シルフィは顔をそむけるように、歩きつづける。
「……マルコは、私の部下ではありません」
「はい。お嬢様が戦場に行けと命じたところで、彼は動かないでしょう。しかし、彼がみずからの判断で戦場に立つと決めたならどうしますか。お嬢様はその場合でも、彼をとめるのですか?」
戦場に行けと言えないのなら、行くなとも言えないのでは。
その理屈は偏屈にも聞こえたが、表層的には筋が通っているような気がして、シルフィは反論しなかった。
「私が思うに、彼はお嬢様と同じ立場におかれようとしています」
「私と同じ?」
シルフィはとまりそうになった足を動かしつづけた。
「お嬢様に普通の暮らしを望めたときがあったでしょうか?」
「……」
「普通の生活を続けるには、彼は力を持ちすぎている。そうは思いませんか?」
「……」
それは、周囲の人間の身勝手な押しつけだ。
シルフィが『初代聖女の再来』となるよう求められてきたように、マルコに英雄の役を背負わせようとしているだけだ。
シルフィは深くため息をついた。
王だろうと英雄だろうと、なりたい人はいくらでもいる。
なりたい人がなればいい。
話しているうちに、聖宮殿の正面玄関を出た。
そこからは左右対称の前庭が広がり、まっすぐに道がのびている。
道の先には正門があり、そこには荘厳な白い宮殿をひと目見ようと、観光客がむれをなしていた。
思いがけずに次期聖女と遭遇した彼らは、おどろきのあまり目を丸くしてから、うっとりとその目をかがやかせる。
シルフィが顔に微笑をはりつけて応じつつ、正門のそばに待たせている馬車にむかうと、マルコはなぜか御者席に座っていた。
顔なじみとなった御者がそのとなりに座って、なにやら身振りを交えて話しかけている。
どうやら馬車の動かし方を教わっているようだ。
シルフィとメアリーがもどってきたのを見ると、マルコは手綱を手放して御者席から降りた。視線で、グラータとなにを話してきたのか問いかけてくるので、シルフィは小さくうなずいてみせる。
「くわしいことは、馬車のなかで話します」
そうして、三人は会話もそこそこに馬車に乗りこんだ。
シルフィは前面の小窓をあけて、
「ベンドネル邸にむかってください」
と御者に行き先を告げると、マルコの対面に座った。
「ベンドネル邸になにをしに行くんだ?」
「フレーチェに用があります」
いぶかしむマルコに、シルフィはそう答えた。
そう、事態が急激に変化しているからといって、いつまでも動転してはいられない。
ベンドネル家をつぶしたところで、ヴィスコンテ女王がフレーチェを見逃すことはないだろう。
さらに危険になろうとしている聖都に、フレーチェを残していくわけにはいかなかった。
マルコに状況を説明するため、頭のなかを整理しながらシルフィは口をひらいた。
天井の高い居間のソファに、フレーチェは悠然と座っていた。
白い磁気のカップを口に持っていき、ひとくち。ほうと満足げに息をつく。
カップの中身は、山羊の乳を水で割り、紅茶葉を煮出したシチュードティーだ。
乳のコクに負けない紅茶の深い風味。
きっと茶葉をぜいたくに使ってるのだろう。
「この家を出るまで、この一杯の値段を考えたりはしませんでしたねぇ」
謹慎中のフレーチェは、ひさしぶりにベンドネル邸ですごしていた。
聖宮殿の自室にこもる手もあったが、周りにいろいろ詮索されるだろうし、自分だけ仕事をしないでじっとしてるのもいやだった。
ティオレットを心配して、とりあえずそばにいようか、という思いもある。
フレーチェがひざにのせた白緑のスライムを撫でていると、左右から赤と青のスライムが身をすり寄せてくる。
スライムエステ『スリードロップス』はもうない。
聖宮殿で暮らすと決まったときに、店は引きはらった。
大通りに面した商売にはうってつけの場所だから、いまごろ新しい店が営業をはじめていることだろう。
「もともと借り店舗だったとはいえ、さびしいものですぅ」
急に時間があいたためか、なんとなく感傷的になっていると、ワシュレットが居間に入ってきた。
「ワシュ、兄様の様子はどうでしたか?」
フレーチェがスライムをひざにのせたまま問いかけると、
「おとなしくしてますよ」
とワシュレットはリビングテーブルのむこうに座る。
それから白いテーブルクロスの上に手を伸ばして、白磁の大皿に盛られたゴーフルをつまむ。
ずいぶんと機嫌がよさそうなその姿に、フレーチェは小首をかしげる。
「どうしたんですぅ?」
「なんだか、昔にもどったみたいで」
ワシュレットは心の底からうれしそうに破顔する。
「姉上が家にいて、兄上が普通の格好をしていて」
ああ、とフレーチェは同意する。
ティオレットが女装をやめた。
その点については非常に喜ばしいことである、とフレーチェも声を大にして言いたい。
もっとも、フレーチェがこの家にいるのはたった一日だけなので、そこについては弟に申し訳ないとも思う。
「姉上」
ふいにワシュレットが笑顔を引っ込めた。
「僕のせいなのかもしれません」
「なにがですぅ?」
「僕がスライム使いの力を試してみようだなんて言わなければ、魔物狩りなんて行われずに、兄上だってあんなことはしなかったんじゃないかと……」
ワシュレットは落ち込んで目を伏せた。
「それはないですよ。魔物狩りがなかったらなかったで、兄様はほかの機会を狙うだけですぅ」
フレーチェは苦笑を浮かべた。
機会を待つにしろ作るにしろ、ティオレットはやると決めたらやるだろう。
どんな手段を使ってでも。
「エスクレア先輩にも、申し訳ないことをしてしまいました」
「そうですねえ。でも、魔物狩りをしようと決めたのはエスクレアですし」
肩を落とす弟を見て、ため息をひとつ、フレーチェの手が動いた。
「ていっ」
「うわぁっ!?」
ひざの上のスライムをつかんで、投げつけたのだ。
ワシュレットは悲鳴をあげて、顔にはりついた白緑のスライムをあわてて引きはがす。
スライムを投げた姿勢のまま、フレーチェは悪戯っぽく笑った。
「人をおとしいれたわけじゃないんだから、そんなに気にしてちゃダメですよ」
そういって、ドアがノックされるや、すぐに大貴族のご令嬢らしい、気品のあるしぐさで座りなおす。
彫刻つきのドアがひらき、執事が声をかける。
「シルフィネーゼ様がおみえになりました」