76話 封書
「困ったことになったわ」
その言葉どおりの、聖女グラータの困り顔が机の向こうにあった。
客として扱うつもりがないからだろう、シルフィとメアリーは聖宮殿の応接室ではなく執務室に通され、かすかにインクの匂いが残る執務室では、グラータとハイデマリーが待っていた。
「グラータ様、戦争になると聞きましたが?」
机の前に進み出たシルフィが問いかけると、
「オレンの神殿が魔物使いに依頼して、伝書鳩で知らせてくれたんだけどね」
とグラータが前置きした。
伝書鳩といっても、ただの鳩ということはないだろう。
シルフィは、ルカが飼っている小鳥を頭に思い描いた。
大空を自由に飛びまわる、賢くて可愛らしいローリングバード。
魔物使いの従魔であれば、ただの鳩よりもずっと早く、確実に手紙を届けることができる。
「昨日の朝、2万7千の聖国正規軍が、謀反を企てるベンドネル公爵を討伐するため、オレンを出発したそうだ」
とグラータの横に立つハイデマリーが説明した。
「謀反……ですか?」
シルフィは、苦々しげに唇をかむハイデマリーを、眉をひそめて見かえした。
「むろん、ベンドネル公はそんな野心をもつ人物ではない」
聖女の護衛は深刻なまなざしをかすかにやわらげて、いずれこの聖宮殿の主人となるはずの少女に言う。
「もともと、聖国軍は大規模な軍事演習を予定していたんだ。その軍がベンドネル公討伐軍となり、東征することになった。……おそらく、ヴィスコンテ女王は最初からそのつもりだったのだろう」
「ベンドネル公爵家は対帝國の防衛のかなめ、と聞いていますが、対抗する力は……ありませんよね」
シルフィは自分の言葉に首を振った。
聞くまでもない。
大公爵家といえど、ベンドネル公はあくまで一貴族にすぎないのだ。
国にあらがえる力をもっているとは思えない。
だからこそ、ヴィスコンテ女王は軍事力を用いるのだろう。
ハイデマリーは舌打ちをこらえるような表情で、
「ああ。帝國軍が侵略してきたのであれば、民兵を募兵することも、周辺の貴族をまとめあげることもできる。なにより、聖国軍の援軍も見込めるだろう。だが、今回はその聖国軍が敵だ。とても太刀打ちできるものではない」
侵略者が相手ならともかく、同胞相手では募兵したところで兵は集まらない。
周辺の貴族にしても、ベンドネル公にくみすれば謀反人になってしまう。
火中に身を投じる貴族は、まずいないと見てよかった。
実のところ、手を差し伸べるのがむずかしいという点では、神殿も似たような立場にある。
これは国家間の戦争ではなく内戦である。
そうなると、聖国内の事情に干渉すべきか否か、という問題がでてくる。
また、ベンドネル家を支援するとしても、はたしてどれほどのことができるだろうか。
神殿にできるのは、回復魔法の使い手である神官を派遣することだけだ。
回復魔法は戦う力ではない。
支える力である。
その影響力は、戦が長引き膠着するほどに大きなものとなる。
帝國と聖国の国境が長年にわたって動いていないのは、侵略される側に神官を派遣して助力する、神殿の働きかけもさることながら、両国ともに持久戦、遅滞戦術をとれるだけの国力があるからだ。
一方、大陸南西部で王国が躍進したとき、神殿は戦火の拡大を防ぐことができなかった。
かつて大陸南西部は群雄割拠とでもいうべき、小競りあいの頻発する地域だった。
森林の国や草原の国、砂漠の国に迷宮の国。
王国もそうした諸国のひとつにすぎなかった。
ところが、強力な王が戴冠するや、王国は領土の拡大に乗りだした。
その侵攻に耐える力が、周辺諸国にはなかった。
いざ戦となれば、王国はあっという間に敵を打ち破り、その地を領土にくわえていった。
神殿はこの戦争を止められなかった。
短期決戦を選んだ王国の前に、回復魔法で戦況を立てなおす機会すらなかったのだ。
聖国とベンドネル家の力関係は、この王国の例に近い。
神殿が力添えしたところで、どうなるかは自明の理であった。
シルフィは眉間にしわを寄せる。
「グラータ様、……なら、ベンドネル家を救う手立ては」
「ええ。ないわね」
返答は短く、静かなものだった。
グラータは、かるく肩をすくめてつづける。
「神殿にとっても他人事じゃないのよ。聖国軍がベンデルを占領して引き返すとはかぎらない。そのまま、聖都に攻め込んでくる可能性だってあるの」
「もしも戦になれば、軍事力のない神殿はひとたまりもない。聖都はあっけなく陥落するだろう」
ハイデマリーが険しい顔のまま、歯を噛んだ。
「だから、シルフィちゃん。いまのうちに、帝都に帰りなさい」
そういうとグラータは引き出しを開けて、一通の封書を取りだした。
「これをご両親に渡してくれる?」
「これは?」
シルフィは格式ばった封書を受けとった。
蝋を溶かした封印は、神殿の正式な紋章。
差出人はグラータ、宛先はシルフィになっている。
中身がわからないのに、奇妙なほど重く感じる封書だった。
封書に固定されてしまいそうな視線を、シルフィがむりやり上げると、グラータの春風のように穏やかな笑顔があった。
「私の辞表と聖女の任命書よ。もし聖都が攻め落とされた場合、あなたが聖女に就任しなさい」
「そんな……」
シルフィは愕然として立ち尽くした。
「念のためよ、念のため。ただし、聖都が落ちたら、私の安否にかかわらず、すぐに就任しなきゃダメよ。なぜだか、わかるわね」
「……はい。神殿が力を失ったと見れば、神官を囲い込もうと、国が動きはじめます。そうなれば神官をどこに派遣するかは、国の思うままになる。そして、いずれ回復魔法をあてにして戦争の規模が拡大していく……」
神殿は国から独立していなければならない。
幼いころから聖女となるべく育てられたシルフィは、その神殿の不文律を何度となく言い聞かされてきた。
たとえ聖都が陥落したとしても、神殿が聖国に膝を折るわけにはいかなかった。
「そう。ノーマッド家なら、うまく神殿の崩壊をふせいでくれるでしょ。両親をこき使ってあげなさい」
「グラータ様……」
シルフィは言葉を失った。
いっしょに逃げよう、と言いたかった。
けれど、誘ったところでグラータが首を縦に振るとは思えない。
シルフィには、かわりの言葉すら見つからなかった。
後継者の重苦しい沈黙を、グラータは軽快に笑いとばした。
「あなたたちも壊滅寸前の帝都をはなれなかったでしょう。それと同じことよ」
執務室を辞して、シルフィとメアリーは無言で廊下を歩いていた。
白い石柱の並ぶ回廊からは、美しく手入れされた中庭の緑がよく見える。
雲にさえぎられた陽射しは、もう昼になろうというのに弱々しく、夏を迎えようというのにひどく寒々しかった。
しばらくすると、ずっと沈黙をたもっていたメアリーが口をひらいた。
「お嬢様。聖国軍をとめる方法があります」
その言葉に、シルフィは足をとめた。