73話 アネリヴェス湖
目の前には雄大なアネリヴェス湖がしずかに湖面をかがやかせている。
一面にクローバーがひろがる、緑の絨毯のうえにマルコは座っていた。
「それで今回のティオレットの件。聖宮殿では、どう処理することになったんだ?」
「そうですね。グラータ様にかけあって、ひとまず黒ずくめの正体は不明のまま、ということになっています」
となりに座るシルフィが、そう答えた。
ふたりの背後にはメアリーが立っている。
朝一番で聖女グラータと会ってきたシルフィは、その足で馬車をアネリヴェス湖にむけた。
昨日、森のなかで襲撃を受けたばかりなのに、今日も街の外だ。
ティオレット以外にも、シルフィを狙うよう命じられている人物がいるかもしれないのに。
それならつり出してみましょう、とそのシルフィ本人が主張したのだから、びっくりしてマルコは目を丸くした。
大胆不敵な発言だ、と半ば呆れつつ。
それだけ、マルコを信頼してくれてるのかもしれないが。
それと、もうひとつ。
シルフィが聖都の外に出た理由がある。
「ティオレットは自宅謹慎。フレーチェは夜遅くに出歩いた罰として、今日一日だけ謹慎処分ということになっています」
ティオレットの話をするのにも、街の外のほうが都合がよかった。
この聖都テテウには、いたるところに神殿関係者がいる。
神殿に対して罪を犯した人物をかばおうとしているのだから、誰にも話を聞かれたくはない。
湖畔の道に馬車をとめて、御者にも話を聞かれないよう、そこからしばらく歩いた。
観光名所として有名なアネリヴェス湖だが、城壁からはなれるほどに、訪れる人は少なくなる。
そうして見つけたのが、この天然のクローバー畑だ。
周囲に人影はなく、次期聖女襲撃事件の顛末を話すにはうってつけの場所だった。
「フレーチェの謹慎は一日だけか。じゃあ……」
「ええ。明日から、また私の世話役にもどりますよ」
「そっか、よかった。ティオレットのせいでとばっちりを受けるかと思ってた」
「あくまで襲撃犯は謎の黒ずくめのまま、ですから」
と、シルフィは思案するように眉根を寄せる。
「でも、ごまかしつづけるのも、むずかしいでしょうね」
いつまでも、謎の黒ずくめを謎のままにしておくのはまずいのだろう。
それにシルフィにしろ、フレーチェにしろ、神殿にしろ、ヴィスコンテ女王から狙われている現状はなにも変わらない。
この状況を打開したければ、こちらから動くしかない。
もっとも効果的で単純な方法があるとすれば――
「もし、さ。ヴィスコンテ女王がいなくなったとしたら。問題は全部解決すると思うか?」
落ち着いた声で冷静に話すマルコ。シルフィがハッと息をのんだ。
「……聖国と神殿の紛争は解決するでしょうね。きっと聖都は安全になるでしょう」
言葉とは裏腹に、シルフィは首を振った。
ヴィスコンテを殺せば、すべて丸くおさまるのでは。
そんなマルコの提案をこばむかのように。
「けれど、女王の座をめぐって新たな争いが起きるでしょう。フレーチェもきっと、そこに巻き込まれますよ」
「フレーチェが次の女王って話か。そんなことがホントにありえるのか? フレ―チェはもう貴族でもないのに」
「それもグラータ様に聞いてみたんですけど、王族の血を引く女性という点にかぎれば、たしかに一番手ではあるそうです。でも……聖国の貴族社会では魔法の才が重視される。これは王族でも同じこと。いえ、より厳しい目で見られるでしょうから……」
シルフィは言葉を濁した。
「……フレーチェが女王になったら、納得いかない人も多い、ってことか」
王宮で陰口をたたかれるフレーチェを想像して、マルコは顔をしかめた。
フレーチェは魔法の才がないから、苦労するはめになったのだ。
魔法の才で価値を決めつけられる場所。
そこは、フレーチェにとって幸せな居場所ではないように思えた。
「納得いかない人は多いでしょうね。フレーチェにかぎらず、誰が次の女王になろうと、きっともめるでしょう」
シルフィは沈んだ口調で言った。
銀色にかがやく湖面を、涼やかな風が忍び足で通りすぎた。
肩より長く伸ばしたシルフィの翠銀の髪が、ふわりと揺れる。
瑠璃紺の瞳が、じっとマルコを見つめる。
「マルコは、この国の王様になりたいと思いますか?」
「いや、俺、男だから」
なれるわけがない。
聖国は女王制の国なのだから。
シルフィはなにを言ってるんだろう、とマルコは不思議そうな顔をする。
するとシルフィはなぜか、安心したような、気が抜けたような顔をして、両肩をがくりと落とした。