72話 スライム使いの拳
物音に反応してフレーチェはびくりと身を強ばらせた。
うつぶせのまま顔だけを動かして、おそるおそる窓を見る。
おざなりに閉めたカーテンの隙間、窓ガラスのむこうで、なにかが動いたような気がした。
気のせいだろう。そうにちがいなかった。
かちゃり、と小さな音が、ささやかな願いを裏切るようにつづいた。
静まりかえった部屋に、その音はやけにひびいた。
それは窓の鍵が外れる音だった。
静かな夜に、不自然な鍵の音。まるで、誘拐されたときのようだった。
あのときは、切り落とされた鍵が床に落ちたのだった。
剣が通る隙間なんてないドアのむこうから、どうやったのか、鍵だけがきれいに切り落とされた。ドアが開き立っていたのは、灰色の服を着た剣聖で、彼は無表情のまま剣を振るい、フレーチェをかばおうとするスライムたちを、一太刀でまとめて切り裂いたのだ。
ぎしっ、と木製の窓枠がきしんだ音をたてたかと思うと、両開きの窓が外に開いた。
夜風を受けて、カーテンがふわりと揺れる。
そこにいたモノを見て、フレーチェは凍りついた。
目玉の怪物がいた。
人の頭ほどもある巨大な目玉の怪物が、窓枠にのしかかり、いままさに部屋に侵入しようとしている。
「い、いやああああぁぁぁぁぁッ!?」
フレーチェは悲鳴をあげた。
あやうく気を失うところだったけれど、スライム使いの彼女はすぐに気がついたのだ。
あっ、これスライムだ。
そうなるともう、だれのしわざなのか、わかりきっていた。
フレーチェを呼び出してから、どれほど時間が過ぎただろうか。
まだそれほど経ってはいないだろうが、マルコは焦慮を隠しきれずに、つま先を鳴らしていた。
目の前にはマルコを、いや、世の男性をはばむように鉄製の門がそびえている。
聖宮殿にいくつかある、裏門のひとつだ。
ここが聖宮殿でなければ自分で忍び込んだのに、と不法侵入に慣れつつあるマルコがイライラしていると、ようやく門がゆっくりと動き出した。
ひょっこりフレーチェの困り顔があらわれ、その背後に侍女らしき人物がふたり、立っていた。
「何時だと思っているのですっ。騒々しい」
背の高いほうが、険しい目つきでマルコを一喝した。
「ダメですよぅ。用があるなら、明日の朝にでも……ふあぁぁ」
寝癖で髪がばさばさになってるほうが、寝ぼけ眼をこすりながら言った。
彼女たちはフレーチェの悲鳴を聞きつけて、心配してついてきたのだろう。
もしくは、騒ぎを起こしたマルコをとがめるために。
マルコは神妙に謝りつつ、説明をはじめた。
フレーチェに急ぎの用事があったが、門番もおらず、連絡を取る方法がほかになかったこと。スライム越しにフレーチェと連絡を取ると、すぐにスライムは消して、騒ぎにならぬよう配慮したこと。
後半は釈明も混ざっていた。
「ほう、どのような用事があったというのです」
険しい目つきをさらに剣呑にして、背の高い侍女が低い声を出した。
もちろん、言えるわけがない。
マルコがとても大事な用事だとだけ告げた瞬間、ふたりの侍女の目が、変わったように見えた。
「よろしいでしょう。フレーチェ、あとで報告に来るように」
背の高い侍女の目からは険がとれていて、声からは角がとれていた。
「なんだ。そういうことかぁ」
寝癖侍女の寝ぼけ眼は、探し物を見つけたかのように大きくなっている。
マルコは、なにか勘違いされてるように感じたが、なにも言えない。
侍女たちは納得したかのようにうなずいてから、羽毛のように軽やかな足取りで戻っていった。
「フレーチェ」
「は、はいっ、師匠っ」
フレーチェがびしっと姿勢を正し、固唾をのんでマルコを見る。
「落ち着いて聞いてくれ。じつは……」
マルコは事情を伝える。
フレーチェがスライム使いだという噂の出所も、黒ずくめがティオレットだったことも。彼がシルフィを襲撃した理由も。
事情をひとつひとつ知るにつれ、フレーチェの顔が夜でもはっきりわかるほど青ざめていく。
「……急がないと」
フレーチェがしぼり出した声に、マルコはうなずくと雲スライムを召喚した。
「兄様っ!!」
フレーチェの小さな手が、力いっぱいドアを開けた。
壊れそうな勢いで書斎のドアが開くと、それに引っ張られるようにティオレットの頭が持ちあがった。
ティオレットはまだ書斎にいた。
力ない様子はそのままに、彼は机に手をつき、椅子から立ちあがった。
「……フレーチェ?」
突然あらわれた妹に驚いたのか、ティオレットは呆けたように、ふらふらと歩み寄る。
フレーチェはというと、直線だった。兄めがけて勢いよく、突進したのだ。
あ、と虚を突かれたマルコは、廊下に突っ立ったまま、その光景をはっきり目撃する。
「兄様は大バカ者ですぅ!!」
小柄なフレーチェはまっすぐ、長身のティオレットに突き進む。
ためらいなんてどこにもない。
まっすぐ正面から、握りしめた右手を突き出す。
あまりにも意外な事態に、ティオレットは反応できず、立ち尽くしていた。
「ぐふぉっ!」
ティオレットの口から、苦悶の空気がもれた。
無防備だった彼のみぞおちに、小さな正拳突きが深々と突き刺さっていた。
狙ったわけではないだろう。身長差があるから、ちょうどみぞおちに入ったのだ。
きれいに入っていた。
体重を乗せたその一撃は、これが冒険者同士の喧嘩であれば、口笛を吹きたくなるほど見事に決まっていた。
「どうして、どうして相談してくれないんですか!! いつもいつも自分ひとりで背負いこんでっ!!」
くの字に折れる兄を抱きしめて、フレーチェが涙声で叫んだ。
体重だけでなく、いろんな想いを乗せた一撃だ。
フレーチェの小さな拳は、きっとものすごく重いのだろう。
マルコは書斎に入らなかった。
この部屋に足を踏み入れてはいけないように思えたのだ。
廊下でひとり、マルコは考える。
ティオレットのことでも、フレーチェのことでもない。
会ったこともない人物のことを。
「……氷の女王、か」
ヴィスコンテは女王の座につくため、家族をも手にかけたという。
流行病で家族を失ったマルコには、信じられないことだった。
マルコの脳裏では、ティオレットの言葉が反響していた。
『彼女が真に望んでいるのは、権力ではなく権力闘争』
『あの女は権力闘争に魅入られ、狂っている』
「それって、……止まるのか?」
落としどころがあるようには思えなかった。
まるで狂戦士のようだ。
金のためでも名誉のためでも、強くなるためでもなく、ただひたすら、破滅するまで戦いつづけるという狂戦士。
ヴィスコンテが狂っているというのなら、彼女にもいずれ破滅が訪れるのだろう。
「けど……」
それは、いつの日か。
現に、彼女はこの国を支配している。
ヴィスコンテが狂っているというのなら、彼女が破滅するまで、こんなことが延々と繰り返されるにちがいなかった。
マルコはじっと自分の右手を見た。
いつの間にか、手に汗をかいていた。
その手を強く、強く握りしめる。
マルコは知っていた。
この手がヴィスコンテの首に届くことを。
自分の手に、悲劇を終わらせる力があることを。