71話 ヴィスコンテの行動原理
語り終えると、ティオレットは力なく椅子の背にもたれた。
そうか、とマルコは首を横に振った。
「フレーチェを人質に取られてたのか……」
「……ええ。絶対に失敗するわけにはいかなかった」
ティオレットはヴィスコンテ女王の先手を打って、フレーチェの命を守ることには成功した。
しかし、妹を守るために立場を投げ捨てたその行動が、フレーチェに新たな価値を生み出してしまったのだ。
それは、ティオレットを自由に操るための、人質としての価値。
他の者にはともかく、先回りされた形のヴィスコンテには明白だったろう。
ティオレットのガラスの視線が空中をさまよう。
「S級冒険者だろうと、殺す自信はあったのよ……」
「並のS級冒険者じゃ、ひとたまりもなかっただろうな」
彼の言葉は過信ではない、とマルコは思う。
表裏の剣聖とティオレット。
三者と剣を交えたマルコだが、だれが一番嫌かと問われれば、ティオレットと答えるだろう。
ティオレットの戦い方は、あきらかに格上の相手を想定して、練り上げたものだったから。
「あっさりしのいでおいて、それはないわ……。あれでも、剣聖を出し抜くために考えた戦い方だったのに」
そもそも、ティオレット自身がレベル六二の魔法剣士だ。
この国で格上と呼べるような存在は、剣聖くらいだろう。
「わたしの人生、失敗ばかりね。最後の最後で、また、致命的なミスをしてしまった」
ティオレットは自嘲ぎみに言う。
「こんなことなら、ヴィスコンテの命を狙ったほうが、まだ勝算は高かったわ……」
彼の声はささくれだっていた。
「でも、最大の失敗は、やっぱり最初のものね……。あのとき、わたしは聖国を割ってでも、家名を汚してでも、ヴィスコンテに叛旗をひるがえすべきだった」
なにもかも悔いる老人のような、枯れた声だった。
「わたしは、ヴィスコンテの本質を見誤ったのよ」
「本質?」
マルコは片眉を上げた。
くたびれきった様子で、ティオレットが大きく息を吐く。
「……権力を欲して家族を殺めた、冷酷な女王。それが、ヴィスコンテに対して、みながいだく印象。わたしも最初はそう思っていた。……でもね、彼女が真に望んでいるのは権力ではなく、権力闘争だったの。闘争に魅入られて狂っているのよ、あの女は……」
狂っている。
マルコはティオレットの言葉を反芻した。
聖国の女王となったヴィスコンテが、聖国の土台を揺るがすような真似はしないはず。
聖都に逃げこんだティオレットの判断は、合理的なものだったのだろう。
けれど、相手の行動原理が常軌を逸していたとしたら。
「わたしは自分のしてきたことだから、覚悟もできてるわ。でも、フレーチェは――」
「ちょっと待った!」
それ以上の口上を、マルコはさえぎる。
「俺はあんたの遺言なんか、聞くつもりはないっ!!」
ティオレットの様子を見ればわかる。
彼は、あきらかに死を受け入れようとしていた。
シルフィの誘拐に失敗した彼に、どのような処遇が待っているのか、マルコにはわからない。
神殿からは罰が科されるだろう。
女王からは、刺客が差しむけられるのかもしれない。
わからないが、安易に死を受け入れることだけは、許せなかった。
ティオレットにもしものことがあれば、つらい思いをするのはフレーチェだ。
あわてて窓に近寄ったマルコは、冗談じゃない、と言わんばかりにティオレットを指さした。
「いいか、早まるなよ! 敗者はおとなしく勝者に従うべきだ。勝ったのは俺だっ、早まるなよ!!」
ぎりっとティオレットをにらみつけてから、窓を開ける。
その窓枠に脚をかけて、マルコは外へと飛びだした。
次々と召喚した風スライムを足場に、夜空を駆けのぼる。
「っと、あぶねっ」
マルコは目玉スライムを召喚して、ベンドネル邸の屋根に投げつける。
ティオレットの監視用に残しておくのを、忘れるところだった。
「頭に血がのぼってたか……」
マルコは首を振り、あらためて、空を走りだした。
速度を上げるほどに、夜風が殴りつけてくる。
まるで、頭を冷やせと言われているように感じた。
めざす先は、聖宮殿だ。
フレーチェに、すべて話そう。
彼女がなにも知らないうちに、上手い落としどころが見つかればよかった。
けれど、とてもではないが、そんなことを言ってられる状況ではない。
このままでは、なにも知らないうちに、最悪の結果になってしまうかもしれなかった。
真下を、夜の聖都が流れていく。
月明かりも見えぬ曇り空の下を、マルコは全速力で走りぬけた。
消灯時間を過ぎて真っ暗な部屋のなか、ベッドのなかで、フレーチェはなかなか寝付けずにいた。
彼女には狭いながらも自分の部屋が与えられている。
聖宮殿では、正式に侍女となると私室が与えられるのが慣例だった。
眠れない理由は、はっきりしていた。
魔物狩りが上手くいった余韻で、気がたかぶっている。というのであればよかった。
そうではない。
黒ずくめの襲撃が、尾を引いているのだ。
今回の標的は、彼女ではなくシルフィだった。
それでも、自分が誘拐されたときのことを、フレーチェは思い起こさずにはいられなかった。
「師匠にたすけてもらって、めでたしめでたし。ってわけにもいかないですよねぇ……」
諦観の混じったつぶやきは、だれにも聞かれることなく暗闇に消えてゆく。
まだ、なにも終わっていないのだ。
ヴィスコンテ女王が手を引くまで、終わることはない。
昼の黒ずくめが凄腕だったのは、フレーチェにだってわかった。
おそらく、ヴィスコンテ女王が差しむけたであろうことも。
「私では、とても防ぐことはできなかったでしょうなあ」
エスクレアの護衛がそう言っていたのが、フレーチェにはひどく印象的だった。
トト公爵家の護衛なのだから、生半可な腕ではないだろう。
その護衛が、自分では防げない、と言ったのだ。
シルフィだって、護衛がマルコでなければ、無事ではいられなかったかもしれない。
フレーチェは、ごろんと何度目かの寝返りを打った。
うつぶせになって、枕に顔をうずめる。
きっとそうなるだろうな、と思っていたとおりに、枕が涙で濡れた。
「私はどうすれば……」
マルコはシルフィの護衛であって、フレーチェの護衛ではなかった。
そう遠くないうちにシルフィは帝都に帰り、マルコも同行するだろう。
もし、そのあとにまた、ヴィスコンテ女王がフレーチェを狙ったら。
気丈なフレーチェではあるが、さすがにその想像はこたえた。
「ようやく、一市民として生きていく自信がついたのに……」
フレーチェは考える。
自分を追い出した貴族社会が、平民としての暮らしまで脅かす。
全身の血を、一滴残らず入れ替えたところで、なにも変わらないだろう。
結局、自分にはどこまでも、貴族としての生まれがついてまわるのだ。
そう思うと、ふつふつと、ヴィスコンテへの怒りが湧きあがった。
次の瞬間には、それが恐怖に塗りつぶされる。
そして、そんな風に翻弄される、自分がみじめでたまらなくなる。
……明日に備えて早く寝ないと。
フレーチェがそう思って、枕に押しつけた目を、さらにかたく閉じたときだった。
コツッと物音がした。
窓のほうからしたように、フレーチェには聞こえた。