65話 フレーチェの戦い
蛇の魔物デッドリースネークが、毒牙をむきだしにして宙を跳んだ。
体をくねらせ、泳ぐようにフレーチェに襲いかかる。
その瞬間、氷のスライムは主の前に回りこみ、胸を張るように一気に体を膨らませる。
フレーチェが魔物の存在に気づいたとき、すでに彼女の前で、氷のスライムは氷の巨岩となって魔物の前に立ちはだかっていた。
低空を跳ぶデッドリースネークからすれば、まさに氷の壁だろう。
上あごから生える二本の牙が、澄んだ音をたてて、氷の壁に跳ね返される。
氷の一部が削れて、空中に散った。
フレーチェの顔に緊張がはしる。
だが、彼女のスライムは勇敢にも、氷の壁にとどまらなかった。
その体から、まるで歩兵が突き出す槍のように、つららが伸びる。
枯葉を踏むような、かわいた軽い音がした。魔物の背骨が砕ける音だ。
枯葉色の体をくねらせて、逃げようとしていたデッドリースネークは、氷の槍によって地面に縫いつけられた。
魔物の絶命を見届けることなく、フレーチェは振り返る。
安堵の息をつく間もなく、背後から新たな魔物が迫っていた。
上だ。
今度は草むらではなく、樹の上にいる。
森の狩猟者プレパルドス。
魔物の気配を察知したフレーチェだったが、声で指示をだす余裕まではなかった。かろうじて、指先だけで指示をだす。
フレーチェ自慢のスライムは、無言での指示にもよく応えた。
フレーチェの背負う桶から、赤いスライムの体が触手のように伸びる。
炎の鞭が空中でうねり、プレパルドスが獲物めがけ跳躍しようかという瞬間、その顔面を強烈に叩きつけた。
短くも凄みのある悲鳴をあげ、プレパルドスの黒い体がバランスを崩して樹上から落ちる。身をひるがえし着地すると、警戒するように体勢を低くして、プレパルドスは威嚇の声を発しはじめた。
こちらも威嚇するように、赤いスライムがフレーチェの頭上で、鞭となった体をくるくる回す。
魔獣の強靱な後ろ足に、バネがたまる。
その右前足を、いつの間にか氷のスライムが、手を伸ばすようにして捕まえていた。
「うまい」
思わず、老騎士が感嘆した。
エスクレアも、気がついたら、その戦いぶりに見入っていた。
上に注意を引きつけ、下から動きを封じる。有効な戦い方だ。実戦経験のとぼしい、元貴族の少女とは思えない巧妙なやり口だった。
もし、魔法使いが同じことをしようとするなら、無詠唱の魔法をふたつ、ほぼ同時に発動させなければならない。たとえ宮廷魔導師であろうと、たやすいことではなかった。けっして、フレーチェの技量が宮廷魔導師並みだ、というわけではない。ただ、彼女は自身の特性、同時に複数の手を打てる、という強みをしっかり活用していた。
身を踊らせるプレパルドスを、上下から炎の鞭と氷の槍が、繰り返し攻撃していく。魔物の、悲鳴とも絶叫ともつかぬ声が、森のなかにひびく。
そのあとに残ったのは、地に倒れ伏して、動かなくなった黒い体だった。
「うむ。よい戦い方をしております。やはり戦い方が整理されていると、安定感がちがいますなあ」
老騎士は、騎士剣を握ったまま器用に腕組みをして、満足そうにうなずいた。
「……これでは、あの護衛の力がわからないではありませんか」
と、エスクレアは不満をこぼす。
「まあよいではありませんか。もう充分、見たといえば見たのではありませんかな?」
老騎士になだめられ、エスクレアはかすかに頬を膨らませた。
シルフィを魔物狩りに誘ったのはマルコの力を確認するためだったが、そもそもは、フレーチェの可能性を探ることこそが目的だったはずだ。
その意味で、目的はすでに達成していた。
可能性どころか現実として、マルコから指導を受けながらとはいえ、フレーチェは立派に戦えている。
単身でプレパルドスを討伐する。
エスクレアの同級生のなかで、それができる貴族はそう多くはないはずだった。
「……まぁ、それならそれで……」
いいですけれど、という言葉をのみこんで、エスクレアはため息をついた。
計画が狂って結果だけ出される、というのもなかなか釈然としないものだった。
「むっ」
そのとき、老騎士が声を上げた。
魔物を発見したのだ。
マルコの足元に、デッドリースネークが忍び寄っている。
マルコは腰に帯びた剣すら抜いていない。
フレーチェの指導にかかりきりで、油断しているようにも見えた。
「あ――」
ぶない、とエスクレアが言うより一瞬早く、デッドリースネークがマルコに跳びかかった。
大きく口を開けて、毒牙を突き立てようとする。
油断しているかに見えたマルコだったが、その反応は迅速だった。
魔物の頭部を無造作に、すくい上げるように、マルコは蹴り上げた。
「えっ?」
エスクレアは呆気にとられた。
マルコが魔物に対処したから、ではない。
実力者だというなら、それくらいはしてもらわなければ困る。
驚いたのは、蹴り飛ばされたデッドリースネークが、シルフィの頭上に飛んでいったからである。
こともあろうに、護衛が、護衛対象に魔物をおしつけたのだった。
「ハッ!」
シルフィは気合いの声をあげて、色だけは美しい狼牙棒を、目にも留まらぬ速さで振るった。
まるで、予期していたような反応だった。
空中にあるデッドリースネークに、よけるすべはなかった。
魔物の潰れる音は、狼牙棒の風切り音にまぎれるほど小さなものだった。
もしかしたら、潰れたのではなく、どこかへ飛んでいったのかもしれない。
おそらく、シルフィは予期していたのだろう。
エスクレアには理解しがたいことだが、シルフィと魔物を戦わせるように、マルコは立ち回っているのだ。
「レベルアップのため、ではないかと」
老騎士の指摘を受けて、エスクレアは納得した。
「……なるほど。『レベルの帝國』らしいこと」
そう考えると、侍女メアリーの行動も理解できる。
メアリーはショートソードを構えながらも、シルフィの周囲をオロオロしているばかりである。まったく役に立っていないが、手を出さないように指示されていて、それでも主のそばを離れないようにしているのだ。
いたって常識的な行動に見える。
「それにつきあわされる侍女も、なかなか大変そうですね……」
エスクレアが同情をみせると、老騎士はそっと首を横に振って、
「あの侍女がもつショートソード、スカートのなかから取りだしたものですぞ」
エスクレアはとんでもないことを見落としていた。めまいを覚えて、よろめく。
老騎士が鋭く叫んだ。
「エスクレア様、左をっ!」
太く張りだした枝の上に、黒い影、プレパルドスの姿があった。
もっとも、エスクレアとて、ここが魔物の生息域なのを忘れてはいない。
即座にショートソードを逆手に持ちかえ、敵にむけて掲げる。
このショートソードは魔法使い用の杖でもある。
柄頭にはまった赤い魔石に左手をそえて、魔力の流れを意識する。
フレーチェが倒した魔物に、エスクレアが遅れをとるわけにはいかなかった。
対抗心にかきたてられたエスクレアの前方に、魔力がみなぎる。メラメラと魔法の炎が湧きあがり、槍を形成していく。
プレパルドスが跳躍する。
同時に、その胴体を朱色に渦巻く炎の槍がつらぬいた。