64話 魔物狩り
噂とは、たちの悪い風邪のように、またたく間に広がるものだ。
エスクレアがシルフィを誘うのに成功した、という情報もその例にもれなかった。
「次期聖女を招く一番手は、トト公爵家か……」
「金と権力は高いところへ流れる、といいますからな」
「丞相とフンボルト殿では、役者がちがうのだから、いたしかたあるまい」
聖都の貴族、とくに権力の流れに敏感な、序列に過敏な者たちのあいだでは、さまざまな憶測が流れたが、それはエスクレアが関与するところではない。
彼女はただ、自分のなすべきことをなせばよかった。
魔物狩りだ。
涼しげな風がエスクレアの頬を撫で、豪奢な金髪を揺らしている。
夏が迫ろうというのに、午前中の森はそれほど気温が上がっていない。
彼女は赤い服に銀の胸当てを身につけ、ショートソードを手に森のなかにいる。
計画は上手くいっているはずだった。
早朝、エスクレアと護衛の老騎士を乗せたトト家の馬車は、シルフィの滞在する宿にむかった。
そこで、馬車に乗り込んだのはシルフィにメアリー、マルコ、そしてフレーチェの四名。この六名が魔物狩りの参加者となる。
聖都の門を出てすぐ、森との境で馬車を停めた。
彼女たちが馬車を降りた場所は、世界樹のある聖域とは反対側の森だった。
魔物狩りの許可を得たとはいえ、聖域への立ち入りを許可されたわけではない。
また、世界樹の周辺は魔物が少なく、魔物狩りに適した場所でもなかった。
ここまできた時点で、マルコの実力を確認するというエスクレアの計画は、半ば成功したようなものだった。のだが、
「……は?」
エスクレアは間の抜けた声をもらすことになった。
その計画に、ひびが入ろうとしていた。
「これは、いったい……?」
魔物の頭部が、真っ赤なザクロのように弾けて散った。
樹上からシルフィに襲いかかろうとした、豹のような魔物、プレパルドスの頭部だった。
全身を黒い毛でおおわれているプレパルドスは、豹よりもやや小さな体躯をしており、後ろ足が異様に発達している。一息で枝にとびのり、枝と枝とをとびまわるほどの強靱な脚力をもって獲物に襲いかかるため、森の狩猟者とも呼ばれている。
その魔獣の頭部を叩き潰したのは、真珠を思わせる不思議な光沢の棍棒だった。
棍棒を振り回しているのは、マルコではない。
神話から飛び出してきたような、美しい少女だった。
ひるがえる翠銀の髪が、薄暗い森のなかですら輝かしい。
しかし、見惚れるには、違和感がおおきすぎた。
どういうことか、シルフィが手にするその棍棒には、見るからに凶悪な突起物がたくさんついているのである。
「どうして、彼女はあのようなトゲトゲの武器を……」
目を疑うエスクレアのつぶやきに、護衛の老騎士が冷静に答える。
「狼牙棒ですな」
シルフィが振り回す狼牙棒は、マルコが所有するキルキスの勇士隊コレクションのひとつである。
武器を買うのか、神殿から借りるのか、それとも、マルコから借りるのか。
選べるとあれば、伝説の武器を使ってみたい、と望むのも当然のことだろう。
神官のシルフィは剣術をろくに習っておらず、殴打用の武器を望むのもまた、当然のことだった。
その結果が、狼牙棒である。
トゲつき棍棒のまがまがしい見た目は、メアリーをおおいに嘆かせた。
けれど、コレクションのなかには、殴打用の武器がこれしかなかったのだ。
英雄譚に出てくるような武器でなければ、ミスリル製の棒やメイスもあったのだが。
「ううむ。驚いたことに、あの狼牙棒、オリハルコン製にも見えますな」
老騎士がうなった。
彼は、聖国ではなくトト家に仕える騎士である。
現トト公レストバルと同じ年に生まれ、ともに育った仲だ。
すぐれた技量の持ち主であり、若いころは聖騎士にスカウトされたことも一度や二度ではない。
だが、彼は頑として首を縦に振らなかった。自分はトト公爵家に代々使える騎士の家系だから、と。
その忠義は厚く、レストバルがもっとも信任する護衛であった。
年を取り一線をしりぞいてからは、レストバルの娘、エスクレアの護衛をしている。それを閑職に回された、と見る者もいたが、老騎士自身はまったくそうはとらなかった。
法規集に目と口をつけたような男、レストバル。
彼には五人の子がいるが、娘は末っ子のエスクレアただひとり。
公爵は、年遅くできた待望のひとり娘を、たいそうかわいがっていた。
エスクレアが生まれたときなど、浮かれるあまり、ひとりで下手くそなワルツを踊り出したほどだ。
それを間近で見てきた老騎士も、孫娘と年の近いエスクレアを、自身の孫のように見守ってきたのだった。
老騎士は、シルフィが狼牙棒に真っ赤な華を咲かせていくのにうなずき、感心したように、
「おおっ、腰の入った見事な一撃ですなあ。
いやはや素晴らしい! 姿勢が実にいい!!」
「いえ、そうではなく!!」
エスクレアが小さく声を張り上げて、懐疑の目をマルコにむける。
「あ、あの護衛はなぜ、どうして、主の危機に動こうとしないのです!?」
「はて? 危機と思っていない、のではありませんかな」
ふたりの視線の先では、マルコがシルフィを護衛するでもなく、フレーチェとなにやら話し込んでいる。
「主も守らずに、彼は、いったいなにをしているのですか!?」
「さて。私の見たところ、彼は護衛の任を放棄しているわけではありませんぞ。
常に、シルフィネーゼ殿の位置と状況を確認しております」
「……そうなのですか?」
エスクレアは半信半疑だ。
老騎士は白くなった髭を撫でながら、
「あの侍女、メアリーといいましたか。
彼女も足さばきを見るになかなかの腕のようですし、自分が護衛をしなくとも危険はない、と判断しておるのでしょうな」
そのメアリーはというと、ショートソードを持ちながらも、魔物と戦おうとはしていない。
ただ、シルフィが怪我をしないか心配そうに、ときに、狼牙棒を振り回す、見た目があれな姿を悩ましげに、そばで見守っている。
ついつい、エスクレアは小首をかしげてしまう。
「いまさら言うのもなんですが、なぜ、彼女はメイド服なのでしょうか? フレーチェさんもシルフィネーゼさんも、動きやすい服装をしているのに。いえ。メイド服が動きにくい、というわけではないのかもしれませんけど……」
「……さて?」
老騎士も首をひねった。
ベテランの彼にも、わからないことはある。
彼は、おほんと咳払いをしてから、
「それに、あの少年がフレーチェ殿の師というのなら、弟子に戦い方を教えるのもまた、重要なことではありませんかな?」
「それは、……そうでしょうけど」
老騎士の言葉を、渋々といった調子で認めて、エスクレアは横目でフレーチェを観察する。
人形のように整ったフレーチェの顔に、緊張と決意がみなぎっている。
まず、フレーチェの足元にいた、氷のスライムが魔物の動きに反応した。
フレーチェの足をめがけ、草むらから小さな魔物が飛びかかったのだ。
枯葉色の体に、真っ白な毒牙を持つ蛇。
デッドリースネークという魔物だった。