59話 枷
「愚かなことよ。あの流言を仕掛けたのが、ティオレット自身だとも知らずに」
ヴィスコンテ女王は、政敵の哀れな末路を思い出したのか、とろけるように嗤った。
反ヴィスコンテ派の主要人物は、玉座の間に首級を並べることとなった。
彼らは、首に鉄枷をはめられるまでもなく、永遠に首と胴をわかたれたのだ。
すべては、ティオレットの罠であった。
彼は偽りの情報ひとつで、反ヴィスコンテ派を揺さぶり、安心させ、懐に招き入れて、ついには一網打尽にしたのだった。
こうして、聖国は内乱状態に陥らずにすんだ。
ティオレットはヴィスコンテの味方とはならなかったが、反乱を企てる聖国の敵には容赦しなかったのである。
「たしかに、あれは見事な手腕であった。何度思い起こしても感嘆を禁じえぬ」
ヴィスコンテ女王は笑みをおさめた。
ヴィスコンテ最大の危機は、ティオレットの手により取り除かれた。
あのとき、ティオレットが敵になっていれば、玉座に生首をさらす愚か者は、ヴィスコンテのほうだったかもしれない。
「だがのう、当時とはもう情勢がちがう」
ヴィスコンテは惜しむように言って、小さく首を横に振る。
政治の表舞台から去り、聖都で隠居するティオレットには、もう国を左右する影響力はない。
二心なしと表明するかのごとく、彼はみずから力を放棄したのだ。
「シャルシエル。なぜ、わらわがおぬしらを罰せぬかわかるか?」
ヴィスコンテが剣聖を振りむくと、長く艶やかな黒髪がさざ波となって揺れた。
「……いえ」
剣聖シャルシエルの返答は短かった。
任務に失敗して聖都から引き揚げた彼らは、このベンデルの街で女王と合流をはたしていた。
双方にとって、思わぬ形での合流であった。
ヴィスコンテは、撤退を決めた剣聖から魔道具で連絡を受けるまで、任務の失敗を想定していなかったし、彼らは彼らで、そのとき女王が王宮を離れてすぐそばまで来ていることを知らなかったのである。
覚悟を決める猶予がわずか一日に短縮されたことは、シャルシエルらを悩ませたが、意外なことに撤退の判断を下したシャルシエルとシャルムートが処罰されることはなかった。
神殿の捕虜となった四人の聖騎士は、さすがに減俸処分となったが。
「おぬしらで上手くいかぬのなら、命令がいたらなかったのじゃ。
おぬしらが撤退すべきと判断したのなら、撤退すべきであろう。
わらわの命令が間違っていた、というだけのことよ」
ヴィスコンテの声に、かすかな苛立ちが混ざる。
彼女は自身への不満をぶつけるように、椅子の肘掛けを人差し指でコツコツと叩き、
「剣聖の座を勝ちとったおぬしらには、それだけの価値とその権利がある」
ヴィスコンテからしてみれば、表裏の剣聖は最強の駒である。
このような些細な失敗で、切り札を手放すこともない。
一方、シャルシエルはというと、動揺を表に出さぬよう、顔の筋肉を完全に制御してみせねばならなかった。
己が剣聖の座にふさわしいかと自問すれば、今は否と答える気にしかなれなかったのである。
なにしろ、深刻な敗北を二度も経験したばかりだ。
いまだその敗北から精神的再建を果たしていないシャルシエルだが、それでも二度目だっただけに、シャルムートよりは冷静でいられた。
だから、任務の失敗、撤退の判断を下した経緯について、女王に報告する役はシャルシエルがこなすべきであった。
彼は細心の注意を払い、嘘偽りなく報告をあげた。
フレーチェの移送に失敗した件については、神殿側の、おそらく帝國から来たであろう冒険者らに阻止された、と報告した。
森での遭遇戦や、公園での私闘は任務とは直接関係のないことであり、報告する必要を認めなかった。
敗北を報告せぬことにやましさはあったが、不甲斐なさはそれを上回り、それ以上に、部下と自分の身を守る必要があった。
剣聖がこれ以上考えられないほどの惨敗を喫したと知ったとき、女王がどのような反応を見せるのかは想像に難くない。
ヴィスコンテ女王は、ふいに椅子から立ち上がると、窓辺に寄った。
「ティオレットは……あれは、勝負から逃げた者よ」
と、女王は不愉快そうに片眉を上げた。
「しかし、ティオレットから牙が抜け落ちたとはかぎりません」
赤いカーテンをあけるレオノーラの瞳には、変わることなく憂慮が浮かんでいた。
「ふふ、安心せいレオノーラ。わらわとて、犬と狼を取りちがえるつもりはない」
フンボルトのような毒にも薬にもならぬ人材とちがい、ティオレットには鋭い牙があった。
それも毒牙だ。
傍らに置いておけるような人物ではない。
だが、その牙が抜け落ちてしまっていては、それこそ、ヴィスコンテが呼び出す価値もなかった。
「聖国の女王が、首輪につながれた狼をおそれてどうする?」
そういうと、ヴィスコンテはベンデルの街の夜を眺める。
彼女が支配する王宮からの、オレン湾を一望する絶景とは比べるべくもない。
「今さら噛みつこうとしたところで、もうあれの牙がわらわの首に届くことはない。そうであろ、シャルシエル?」
「御意のままに。私が護衛につくかぎり、彼の剣は決して届かせませぬ」
水滴のついた窓に、女王の冷笑が映りこんでいた。
窓に映る女王に視線をむけられ、剣聖シャルシエルは厳しい顔立ちをいっそう引き締めた。