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57話 ベンデルの街


 霧雨に(けぶ)る夜の街。

 宿屋の玄関ポーチに、壮年の男が立っていた。

 祈るように道を見つめる彼は、この宿屋、ベンデルの街で随一といわれる宿屋を経営する支配人である。


 ベンデルは大きな街だ。


 聖都テテウから西に馬車で一日ほどの位置にあり、大陸を東西に結ぶ大街道の中継点でもあるため、大量の人と物が、ひっきりなしに行き交っている。

 聖国東部の折衝役たる大貴族、ベンドネル公爵領の中心地であるだけに、貴族の来訪も多い。


 そんなベンデルで随一の宿屋なのだから、貴族様相手の商売も手慣れたもの。

 彼のその自信は、今や無残に砕け散り、過去のものとなっていた。


 支配人は、雨に濡れるのもかまわず、ただひたすらに救いの手を待ちわびている。


 そのとき、通りを馬車の音が近づいてきた。

 おおきな二頭の馬に引かれた、立派な黒い馬車だ。


「……来たっ!」


 気を揉んでいた支配人は、その馬車を見てわずかに顔色を取りもどすと、揉み手をはじめる。


 馬車は敷石をけずらんばかりに、あわただしく走ってきた。

 宿のそばで速度を落として、玄関ポーチを通りすぎたところで、ようやく止まる。

 馬車の扉がひらいて、貴族らしき男が降りてくると、支配人はすぐさま駆け寄った。


「ああ、領主様! 突然のお呼びだて、まことに申し訳ありません」

「う、うむ」


 申し訳ありません、申し訳ありません、と支配人はくり返し頭をさげる。

 とある貴人から、宿に不備があると叱責され、彼は領主のベンドネル公に泣きつくはめになったのである。


 領主、フンボルト・ベンドネル公爵もくり返しうなずくが、その顔もやはり、どこか不安そうで頼りない。


 と、公爵が到着したのを見て、宿からひとりの女官が出てきた。

 とりたてて美しいということもない、いたって凡庸な、朱色の髪をたばねた女官であった。


「ベンドネル公爵閣下、お待ちしておりました」

「お、おおレオノーラか……」


 しかし彼女、女官長レオノーラのきわだつ点は容姿ではなく、その立場にある。

 彼女は女王陛下のそばを片時もはなれぬ、腹心中の腹心である。

 つまり、ここにレオノーラがいるということは、この宿にヴィスコンテ女王が滞在しているということを意味していた。

 そもそも、宿の不備ごときで公爵を呼び出せるのは、女王陛下を置いてほかにいないだろう。


「へ、陛下はどうしておられる?」

「陛下は、ベンドネル公爵閣下の到着を待ちかねておられます」

「なんという……、なんということだ。取るものも取りあえず、急いで来たのだが……」


 フンボルトは、おそれに身を震わせた。

 その姿のどこにも、公爵にふさわしい威厳は見当たらない。


 もともと、彼の人生設計には公爵となる予定などなかったのだから、いたしかたない。

 ベンドネル公爵家当主の座が転がり込んできたからといって、彼は変われなかったし、変わらなかった。

 それまでの人生から一転して、急に辣腕家となることもできなければ、傲慢な行いにはしることもなかった。


「ううむ。と、とにかく急ぐとしよう」

「こちらへ」


 レオノーラが公爵を案内するため、きびすを返した。

 フンボルトは、支配人にここで待つよう指示して、女官長の背を落ち着きなく追いかける。


「この宿屋が女王陛下の勘気をこうむった、と聞いたのだが……」

「はい」

「すまぬが、状況を話してはくれぬか?」


 公爵らしからぬ公爵は、眉を曇らせ、身分からは信じられない腰の低さで言った。

 フンボルトのような態度は、レオノーラにとって珍しいことではなかった。

 ヴィスコンテ女王へのおそれが伝播(でんぱ)して、レオノーラにまでへりくだる貴族は少なくない。


「女王陛下は、この宿が聖国一の領主たるベンドネル公爵閣下のお膝元にはふさわしくない、と感じておられるようです」


 ううっ、とフンボルトは低く呻いた。

 どこが悪いのだろうか、と宿の内装にきょろきょろ視線をさまよわせる。


 公爵の慇懃な姿勢にも、レオノーラは眉ひとつ動かさない。


 レオノーラに媚びながら、一方で、目下の者には居丈高に接する。

 そのような貴族と異なり、フンボルトのこの態度は彼自身の気質によるところが大きいのを、彼女は把握していた。


 彼女のもとには、王宮の内外を問わず、さまざまな情報が集まってくる。

 ヴィスコンテ女王がベンドネル領に足を伸ばすとなれば、ベンドネル公フンボルトがどのような人物かを、つぶさに調査しておく。


 それも、レオノーラの重要な役目のひとつである。






 六月某日、かの氷の女王ヴィスコンテが唐突に遠出を決めて、王宮の人々を驚かせた。


 なにかと敵の多かったヴィスコンテは、女王となってからこのときまで、聖国の首都オレンを留守にすることはなかったのである。


 そこに変化が訪れたとみて、王宮で働く人々は肩を寄せ、ささやきあった。


「もはや、女王陛下に逆らう者など、どこにもいない、ということだ」

「だからこそ、王宮をはなれる余裕もできたのであろう」


 王宮を舞台にした惨劇も、終幕のときが近い。

 彼らの声は、願望であった。

 王宮に染みこんだ血の匂いが払拭されることを、そこで働く人々も望んでいたのだ。


 しかし、女王の赴く先がベンドネル領だと広まるや、その声はピタリと止んだ。


 ヴィスコンテ女王が神殿に攻勢をかけていること、ベンドネル公爵が神殿との交渉役であることは、王宮のだれもが知るところである。


 ……陰惨な想像が、人々の心胆を寒からしめた。

 王宮で繰り広げられた粛清が、新たに聖国東部へと拡大しようとしているのではないか……。


 それでも、王宮で息詰まる日々をおくっている者にとっては、つかのま、気を休めることのできる日が訪れたのだといえた。







今日でなろう投稿一周年! 長いようで短いなあ。


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じゃない孔明転生記。軍師の師だといわれましても
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