48話 ベンドネル邸
「お前は、どこをほっつき歩いておったのか!」
ふらりと帰宅したティオレットを、ベンドネル邸で待ちかまえていたのは、叔父フンボルトの叱責であった。
「なぜ酒の匂いがする!? 病気の療養のために、聖都にいるのではなかったのか!?」
フンボルト・ベンドネル公爵は、現在のベンドネル家の当主である。
ティオレットはフレーチェを勘当した際に、身内の醜聞の責任をとるとして、みずから家督を叔父に譲り、公職から退いていた。
それ以来、聖都で静養中ということになっている。
どのような病か聞かれたら、素敵な男性と接すると動悸息切れが止まらない病、と答えることにしているティオレットである。
「あらやだ、叔父上。そんな大声を出して。近所迷惑ですわ」
「どうせ聞こえんわ!」
悲鳴にも似た声が響いた。
ベンドネル邸の敷地は十二分に広く、その心配はせずともよい。
ティオレットは、ぱちくりと長いまつげを瞬かせた。
「どうして、叔父上がここにいらっしゃるのかしら?」
「……仕事が、まわらんからだよ」
長椅子に座る公爵は、紫色の頭をかきむしってこたえた。
所作のひとつひとつに苦労がにじみでている。
首都オレンは西の海沿い、ベンドネル領は東の内陸にある。
ベンドネル公爵として王宮に仕え、領地を運営し、聖国の東西を行き来するフンボルトは忙しい。
本来、聖都に足を運んでいる暇などないはずだ。
ベンドネル家が聖国と神殿の窓口だといっても、その仕事のほとんどは雑務。
実際に行うのは部下であって、公爵本人ではないのだから。
わざわざ時間を捻出してティオレットに会いにくるとは、よほど切羽詰まっているのだろう。
「まあ、大変」
ティオレットは頬に手を当て、気の毒そうにため息をついた。
「なにを他人事のように。……わしはな、兄上、お前の父が家を継いでから、ごく普通に貴族しておった」
叔父上はたまに前衛的な言葉づかいをなさる、と、一部では聖国で最も前衛的な貴族ともいわれるティオレットは感服した。
貴族するという動詞は、お茶会を開いたり、芸術家のパトロンとなったりすることをいうのだろう。
「今になって公爵家の当主を務めろなんて、どだい無理な話だったんだ。
……なあ、お前だけでも戻ってこれんのか?」
ちら、と同情を誘うような視線。
「わたしは家督を叔父上に譲った身。そのような者が領地に戻ってもいいことなんてありませんわよ」
ティオレットは寸分の迷いもみせずに拒絶した。
今度は、フンボルトがため息をつく番だった。
大げさに息を吐いて、首を横に振ると、しっかり用意しておいた書類の束を取りだす。
「そう言うと思って、ここで出来る仕事を持ってきてやったぞ」
「それはそれは。困りましたわねえ」
言葉とは裏腹に、ちっとも困っていない様子のティオレットに、フンボルトはあきれたように首を振った。
「わしはな、お前とちがって凡庸な身なんだよ。
毎日、重責を背負って大変な思いをしているんだ。
少しくらい手伝ってくれても罰は当たらんだろう」
「叔父上が凡庸なら、もっと部下から不満の声が上がっていますわよ」
「お前がその調子だからだよ。そろそろ、放縦な振る舞いはやめたらどうだ。
フレーチェの件で――」
「叔父上」
ティオレットが静かな声で制止すると、フンボルトは一瞬、言葉を失う。
失ってから、
「……わしは、厳しすぎる処分だった、と思っているよ。
あの子の身を考えれば、結果的には、正解だったのかもしれんが……。
だからといって、お前まで楽隠居を決め込んでどうする」
そう言い残して、公爵は居間を出た。
ここはベンドネル邸であるから、当然のことながら当主であるフンボルトの部屋も用意されている。
今夜はこの邸に泊まり、明朝に聖都を発つのだろう。
しばらく見ていなかった叔父の背中は、いくぶん丸くなったように感じられた。
その後ろ姿が消えてから、ティオレットは長椅子の背にもたれかかる。
くたびれた様子であった叔父よりも、さらに力なく、椅子に体をあずける。
「……あなたが凡庸なら、わたしは暗愚でしかありませんよ」
聖国を、家を、そして妹を守るために、行動してきたつもりだった。
しかし、
安全だったはずの聖都で、妹が誘拐されたというのに、今の自分にできることはあまりにも少ない。
すっかり酔いがさめてしまった。
いや、元から酔ったふりをしていただけか、と顔をしかめ、懐かしさすら覚える書類の束に、目を落とす。
……どうやら、難しい仕事ばかり選んできたようだ。
とりあえず、叔父に押しつけられた仕事だけはさっさとすませておこう、とティオレットも居間をあとにした。