40話 スライムプリンセス
月明かりもない空のした、マルコたちの先に広がる森は、どこまでも黒く沈んでいた。
フレーチェを誘拐したと思われる聖騎士の馬車を追いかけて、雲スライムは文字通り聖都を飛び立った。
「フレーチェが公爵家の令嬢、ですか」
マルコの背後で、シルフィが首をかしげた。
貴族のような雰囲気を感じてはいたが、公爵家とまでは思っていなかったのだ。
「ベンドネル公爵、という名前は聞いたことがあるだろう?」
ハイデマリーがあげた名を、シルフィは知っていた。
「はい。神殿との交渉を一手に担っている、聖国の大貴族だとか」
その名の持つ意味をはじめて知って、マルコは眉間にしわを寄せた。
ステータスを見ることができるマルコは、フレーチェの姓がベンドネルだということだけは知っていたのである。フレーチェ本人が口にしないから黙っていたが、その情報をシルフィに伝えておけば、この状況を予測できたかもしれない。
「ああ。聖都は聖国のなかの自治領だが、同時に、ベンドネル公爵領のなかの自治領でもある。聖都の周囲は、すべてベンドネル領なんだ。フレーチェはそこの娘なんだが……」
そこで言いよどんだハイデマリーに、シルフィが続きをせかす。
「フレーチェが聖騎士に狙われたのは、家が理由なのですか?
神殿と親密だというのなら、ベンドネル公爵は、女王と対立でもしているのですか?
それならそれで、なぜ、彼女は平民のように暮らしていたのです?」
「あの子は、家を追い出されたんだ」
ハイデマリーが顔をしかめて言うと、シルフィもメアリーも、前方をさぐっているマルコも息を呑んだ。
「……『魔道の聖国』という言葉を知っているか?」
「はい。それに『戦技の王国』と『レベルの帝國』。
三大国が、それぞれなにを重んじているか、ですね」
ハイデマリーの問いかけに、シルフィはうなずいてこたえる。
その言葉もマルコは知らない。
マルコがものを知らないのではない。
他国の知識や情報とは、多くの人にとってその程度のものでしかない。
なんの価値も意味もなく、ただ、噂話の種になるかならないか。
そこに意義を見いだす者は一握りだ。
マルコはあくまで馬車をさがしながら、ハイデマリーの説明に耳をそばだてる。
大陸南西を占める新興の大国、王国。
強大な魔物がいなくなってから、人間同士の争いを制して台頭した王国では、その戦乱で効果的だった、気を使った闘法が発展し、重んじられているという。
二百年ほど前、十英雄の活躍とともに版図を広げたのが、大陸東部をすべる最大の国家、帝國。
強力な魔物を討伐しながら領土を拡大していった帝國では、魔物を倒す力、倒してきた証ともいえる、レベルを伝統的に重視している。
そして、大陸北西の雄、最も長い歴史をもつ聖国。
聖国は、十英雄より古い時代、魔物の脅威に対抗するため、人類が魔法を頼りに、身を寄せ合っていたころの影響を色濃く残しているのだという。
国の成り立ちによってずいぶん違うのだなと、マルコは感じ入った。
帝國はともかく、ほかの国について、マルコはなにも知らないも同然なのだ。
かわりに魔王軍の、というか、『魔王ドラエモフ戦記』なら暗唱できるのだが。
はぁ、とマルコの口からため息がもれた。
なんとしょうもないモノを憶えさせられたことか。
「魔法の才にとぼしいスライム使いのあの子は、聖国の貴族社会で嘲弄の対象となった。そこらの貴族ならまだしも、王家とも縁の深い、大公とも呼ばれるほどの権勢を誇るベンドネル公爵家だからな。周りの視線も、それ相応に厳しくなる……」
ハイデマリーの言葉に、シルフィとメアリーが痛ましそうな表情を浮かべた。
マルコの顔に浮かんだものは、それとは異なる感情だった。
「スライム使いだから、家を追い出されたってのか? 冗談じゃない」
大公だとか公爵だとか、立派なのは肩書きだけの、恥知らずの薄情者。
マルコには、そうとしか思えなかった。
「ふざけるなよ」
マルコの、静かな怒りの声はそこで止まる。
「いた」
前方に馬車が走っていた。
この時間帯に聖都から西にむかう馬車は、ほかにないはず。
マルコは確信をもって、クラウドスライムの速度を上げる。
馬車の上をとると、御者の姿が、手綱を握る赤いマントの聖騎士が見えた。
「よし。これだ、間違いない」
「マルコ、まず馬車を止めないと」
シルフィの声に同意するように、マルコはうなずくと、右手を馬車の進行方向にむける。
「スライムウォール!」
その手から、黄色いスライムが放たれた。
城壁の上から、暗闇にむけて射られた火矢のように。
スライムは流れ落ち、黒い森を縫う街道へと吸い込まれる。
一拍おいて、大地が大気をふるわせた。
街道は土くれとなり、石のかたまりとなり、隆起すると、馬車の行く手をさえぎる壁となった。
赤いマントの聖騎士が、あわてて手綱を引きしぼる。
ゆっくり、馬車が止まった。