35話 出立
翌朝、ヘルミナたちは聖都を発った。
「マルコさん、娘をよろしくお願いします」
「シルフィになにかあったら、帝國の敷居はまたげないと思いなさい!」
シルフィの保護者カロッツァと自称保護者のヘルミナは、同じ内容の対照的な言葉を残して去っていった。
宿の玄関で、彼女たちを見送ったのは、三人。
とりあえず聖都に残ることになったマルコとシルフィ、侍女のメアリーである。
マルコがいれば、聖国が武力行使におよんでも対抗できる。
シルフィがいれば、立場が保証され神殿の内部にも干渉できる。
そして、メアリーがいれば、シルフィの身の回りの世話ができる。
「その役目は、誰にも譲るつもりはありません」
メアリーは力強くいった。
一瞬、酢を飲んだような表情になったシルフィは、苦笑をひらめかせて、マルコに訊ねる。
「人数が少ないほうが、守りやすいでしょう?
それに、せっかく将来有望な弟子ができたのです。
マルコは、この地に残りたかったのではありませんか?」
「……依頼は、しっかりやりとげるべきだろ」
心のなかを見透かされたような気がして、マルコは口を尖らせた。
じつのところ、帝都に帰ることになった場合、自分だけ少し出立を遅らせようか、ともマルコは考えていた。
短期間で、どこまでフレーチェを鍛えられるかはわからないが、目に見えるくらいの成果はあげておきたかったのだ。
修行の場は、昨日と同じ、城壁のすぐそばに広がる野原だ。
「バージョンアップしたスライムエステで、貴族からがっぽりもうけてやるですぅ。
そして、いずれは、三大国の首都に支店をっ!」
気合い充分のフレーチェは、か細い拳を握りしめて将来の展望を披露した。
体は小さくとも、彼女の気宇は、勇ましくも頼もしい。
修行がはじまると、シルフィは土魔法で椅子をふたつ作って、メアリーといっしょに修行風景を眺める。もちろん変装はしたままだ。
フレーチェのもと、きびきび動くスライムを見て、メアリーが感想を述べた。
「器用なものですね」
シルフィの目にも、三色のスライムの動きは良くなっているように見えた。
思い込みではないだろう。形からして、昨日はもっとどろどろしていたはずだ。
ヨーグルトからゼリーへ、着実に進化している。
「スライム使いの弟子というからどんな人物かと思えば、なんともかわいらしい女性ではありませんか。
彼がやる気になっているのも、わかると思いませんか、お嬢様」
とん、とシルフィのつま先が草を踏んだ。
分厚い雲の下、人形のような少女が、何度も指示をだしている。
そのたびに助言をしているのだろう、腕組みしているマルコの口が動く。
そんなマルコに向けるメアリーのまなざしが、珍しいことにやわらかい。
「スライム使い同士、波長が合うのでしょうか。
意外とお似合いかもしれません」
メアリーは微笑ましそうに言った。
とんとん。と、シルフィのつま先が地面を叩く。
青いスライムが氷のように凝固し、そこに赤いスライムが炎の鞭を伸ばそうとする。
しかし、スラファニー、赤いスライムの細く伸ばした腕が崩れ落ちてしまう。
失敗したのか、あわてるフレーチェとマルコを見ながら、メアリーは念を押すように繰りかえす。
「邪魔しないよう、配慮してあげなければならない。そうは思いませんか?」
シルフィは、ぐりっと地面を踏んで、メアリーに向きなおった。
「メアリー」
「はい、お嬢様」
「わざわざ、遠い聖都まで来たのです。
暇なようなら、観光してきてもいいのですよ」
そういうと、シルフィはほのかに光るくず魔石をつまんで、小さく振ってみせる。
すると、ゼリー状の、緑色のスライムがぷるぷる近づいてきた。
濃くいれた薬草茶のような色をしていたスラスタシアは、回復魔法の魔力を吸収して、ミルクを落としたような色合いに変わりつつある。
シルフィが白いくず魔石を放ると、スラスタシアは器用に体を伸ばしてそれを受け止めた。
そうこうするうちに、正午の鐘が鳴った。
午後からフレーチェの店に予約が入っているため、今日の修行はここまでとなる。
フレーチェは、スライムをいれた桶を重ねて、背負った。
「師匠っ、今日もありがとうございました」
「師匠?」
大仰な呼び方が気になったのか、メアリーがもの言いたげな目つきをすると、フレーチェは胸をはってこたえる。
「師匠は師匠ですぅ」
手本も教本もないスライム使いにとって、師の存在がどれほどありがたいか。
たった二日。
わずかな時間でありながら、彼女は目に見えて上達していた。
ことに、炎と氷を操る勘のよさは、マルコを喜ばせた。
師がいるかどうかの差も大きいのだろうが、
「俺よりずっと早く上達しそうだ」
と、マルコが手放しで褒めると、
「炎と氷の魔法に精通している人が、身近にいたんですぅ。
……まぁ、昔のことですけどね」
フレーチェは、昔を懐かしむように返した。
それ以上の言及を拒絶するような、どこか乾いた声だ。マルコもシルフィもそう感じとった。