34話 議論
客室の壁に耳をぺたりと押し当てながら、オキアが眉間にしわを寄せて、さも悔しげに言った。
「くそっ、やっぱ聞こえねえ」
聞き耳を立てる壁の向こう側は、この宿で一番豪勢な客室。
女性陣が宿泊する隣の部屋では、カズライール伯爵の獄中死という急報を受けて、緊急会議が開かれている。
「きみがこれ以上見苦しい真似をするようなら、少しばかり痛い目にあわせねばならないのだが……」
ジュリアスが眉をひそめて、室内だというのに腰に佩いた剣に手をかける。
「へぇ? じゃあ、お前は気にならないっていうのかよ」
壁から顔を離したオキアは、冷笑を浮かべた。
その耳と頬に壁の跡がくっきりと赤く残っているのを見て、しまらないなあ、とマルコは思った。
「僕は、騎士として彼女たちの判断に従うまでだ」
ジュリアスの言葉は、ちょっと格好よさげに聞こえなくもない。
だが、よくよく聞いてみると、「言われたとおりにします」と言っているだけではないだろうか。
マルコは首をひねったが、相手が帝國の皇女と次期聖女となればやむを得まい。
隣室では今後の方針を巡って、ヘルミナとシルフィが討論中である。
なぜか、男性陣は追い出された。
ここは女性の部屋だから、という理由だったが、それは明らかに口実に過ぎなかった。
伯爵の死を知るや、ヘルミナは、今すぐ帰路につくべきだと主張した。
「わたくしたちがこの地に残ると、聖女様がちょっとまずい立場になりかねませんわ」
状況がいまいちつかめていない同行者にむけて、彼女はわかりやすく要点を説明していく。
「カズライール伯爵はヴィスコンテ女王の腹心として、いろいろと後ろ暗いことに手を染めていた人物なの」
これは特別な情報でもなんでもない。
女王が神殿との対決姿勢を鮮明にしているのも、伯爵がその尖兵であることも、聖都ではよく知られている話だ。
そのような人物が、神殿の総本山である聖都で不審死を遂げた。
「おそらく、ヴィスコンテ女王は伯爵の死を利用しますわ。
たとえ、伯爵を殺害したのが、女王の手の者だったとしても。
事実がどうであれ、神殿側に泥をかぶせようとするでしょう」
聖女グラータが帝國と結びついて聖国に叛旗をひるがえそうとしている、などと醜聞を流すだろう。
この際、真実はどうでもいい。
噂の信憑性も、そこまで重要ではない。
神殿を攻撃する材料になりさえすればいいのだ。
帝國の皇女が、このタイミングで聖都にいること自体が、神殿側の弱みになりかねない。
ヘルミナが口を閉ざすと、室内は水を打ったように静かになった。
急ぎ、この地を去らなければ、聖国と神殿の権力闘争に巻き込まれるかもしれない。
帝國ではありがたいヘルミナの皇女という身分も、ここではむしろ火種となりかねないものなのだ。
少し考えこんでから、シルフィは口を開いた。
「……私は、戻るつもりはありません」
「シルフィ。最悪、内戦になるかもしれないのですわよ」
ヘルミナの声に剣呑な響きが混ざる。
その咎めるような声音を意に介さず、シルフィは続ける。
「帝國の皇女が聖都にいてはまずい、というのはわかります。
ですが、私は神官ですから問題にはなりません。
もし内戦になるというのなら、なおのこと、この地を離れるわけにはいかないでしょう」
シルフィは目を閉じて、嘆くように首を振った。
「武力衝突の段階までいってしまったら、聖都は終わります。
きっと、内戦にもなりませんよ。
神殿には軍事力以前に、剣聖個人を抑える武力もないのですから。
彼らが神殿に向け、剣を抜いた時点でおしまいです。
この地で、マルコ以外に、誰が剣聖を抑えられるというのですか?」
静かな口調であったが、シルフィも譲るつもりはなさそうだった。
なぜだか部屋を追い出されてしまったマルコには想像することしかできないが、今でも、議論は続いているのだろう。
正直、厄介そうな話につきあわずにすんで、少しほっとした。
神殿関係者と帝國関係者が言い争うであろうその場に、ひとり取り残されたルカの目が、まるで売られていく仔牛のようだったから、なおさらであった。
頬の跡を腕でこすってから、オキアが壁に背をあずけた。
跡は消えていない。
「皇女様が帰るって言ってるんだから、たぶん帰ることになるんだろ。
俺は、権力争いだかなんだかに巻き込まれるなんて、ごめんだぜ」
マルコも同感だった。
しかし、ヘルミナがすべてを語っているとも思わない。
きっと帝國に戻ったら、この状況を活かそうと、なにやら画策するにちがいない。
聖国と神殿の仲違いが本格化すれば、得をするのが帝國だ。
ヘルミナとシルフィの意見が、珍しく対立しているのも、この件においては逆の立場に立たされているからだろう。
「聖都の不穏を知って、救おうとせずにはいられない。それがシルフィネーゼ様なのだよ」
ジュリアスは髪をかきあげながら、悩ましげな顔をした。
たしかに、シルフィがこの地に留まろうとする表向きの理由はそうなのだろう。
実際、そう思ってはいるのだろうが、それだけではないのではないか、とマルコはにらんでいた。
シルフィはパラティウム帝立学園を卒業したら、この地で聖女に就任する予定である。
そのとき、聖都が聖国の支配下に置かれていたら、シルフィ自身の身に危険が及びかねない。
そうなってから聖国の影響を排除しようとするのでは、遅すぎる。
今のうちに手を打ったほうがいい、と判断したのではないか……。
マルコたちが追い出されたのは、両者とも本心を語っていなかったから、に違いなかった。
きっと今頃、丁々発止やりあって、そのつど、逃げそびれたルカの胃壁にダメージが蓄積されていっていることだろう。
マルコは頭の後ろで両手を組んで、
「権力者ってのも、面倒くさそうだなぁ」
それだけ言うと、腰かけていたベッドに倒れこんだ。
同室のふたりは、同意を示すように肩をすくめた。
しばらくして討論が終わったらしく、ルカがやってきた。
心なし憔悴した面持ちの少女から結論を伝えられ、マルコたちは目を見開いた。