32話 心配性な弟
スライム使いだって強くなれる、と少年は言った。
なら、強くなってやろうじゃないか、とフレーチェは思った。
マルコたち風変わりな客が立ち去り、店を閉めてからしばらく。
すでに店の外は赤く色づきはじめている。
受付の掃除を終えたフレーチェは、小柄な身体に不釣り合いなほど大きなモップを手に、一息ついた。
外聞の悪いスライムを利用したエステ店である。
どこの店よりも清潔にしておかなければ、客なんてあっという間にいなくなるだろう。
「……ホントなんですかねぇ」
ピカピカに磨きあげた店内を眺めるフレーチェの耳には、未だにマルコの言葉が残っていた。
最初は、例にもれず、からかわれているのかと感じた。頭に血がのぼった。
だが、少年の目は真剣で、その力はフレーチェの想像をはるかに超えていた。
魅力的な提案だった。しかし、そう簡単に飛びつくわけにもいかなかった。
他人を信用するつもりはない。
周囲の人々が簡単に手のひらを返すのを、フレーチェは知っていた。
中等部三年の春、フレーチェがスライム使いだという噂が広まって、彼女の世界は一変した。
その日から、そばにいたはずの人は、ひとりまたひとりと離れていった。
隣で笑っていたはずの顔が、離れた場所から嘲笑をむけてくるようになっていった。
それでも、この話には試してみるだけの価値があるように思えた。
スライム使いには、体系だった修練法というものが存在せず、そのせいでずいぶん苦労したのだから。
腹は決めた。
その判断には、ルカの人となりも影響していたかもしれない。
施術中、言葉を交わした少女は、裏表のない善良な性格の持ち主にみえた。
――魔物使いだから、普段お洒落とかできないんです。
恥ずかしそうに笑っていた彼女が、フレーチェを欺いているとは思えない。
用具入れのドアを開け、モップを片付けたところで、店の表で物音がした。
入口の扉を開いて顔をのぞかせたのは、ふわりとした紫髪の、フレーチェとよく似た顔立ちの少年だった。
「姉上っ」
「いらっしゃい、ワシュ」
弟のワシュレットは、実家を追い出されたフレーチェによく会いにくる。
「姉上、なにかお困りではありませんか?」
学校からの帰りなのだろう、制服姿の弟が顔をくもらせた。
フレーチェは首をかしげてみせる。
「いたって順調ですぅ」
弟を安心させるように言ってから、
「ワシュ、こんなところに出入りしていると、怒られますよ」
なんとか経営に乗ってきたとはいえ、まだまだ「スライムを使ったいかがわしい店」という悪評は根強い。
「順調なのでしょう? 貴族のあいだでも姉上の店の利用者は増えている、と聞いていますよ」
「ここは女性向けのお店ですぅ」
ワシュレットは一拍考えると、
「……なら、女装してくればよいのでしょうか?」
「やめて。似合っちゃうかもしれないですけど、それやったら、お姉ちゃん怒るですよ」
「実は、高等部の学生がここに押しかけた、という話を聞いたのですが……」
弟がなにを心配しているのかを知り、フレーチェはどうということはない、と肩をすくめる。
「ああ、あいつらですか。気にするような相手じゃないですぅ」
「まったく、いつまで友人のつもりでいるのか。
姉上の友人でいる資格など、彼らにはもうないというのに」
弟の口から吐き捨てられたのは、明らかな侮蔑の言葉だった。
その目には、先輩に対する礼儀などひとかけらもない。あるはずもない。
そこにあるのは、姉を学校から追い出した人物たちへの敵意だけだ。
「心配せずとも私は大丈夫ですよ。
あいつらとの接点なんて、もうありませんからね。
営業の邪魔をするようなら、ガツン、と聖宮殿のお偉いさんに言いつけてやるですぅ」
「そうですか……。なにかあったら僕に言ってくださいね、絶対ですよ。
家を出たからといって、姉弟の縁まで切れたわけではないのですから」
「ふふ、心配性ですね、ワシュは」
フレーチェは弟の頭に腕まくりした手を伸ばして、自分そっくりのふわふわな髪を、くしゃくしゃ撫でる。
小柄なフレーチェの身長は、もうとっくに弟に抜かれてしまった。
きっと、この弟はフレーチェがあきらめた道をまっすぐに進んでくれるだろう。
照れくさそうにしながらも、なすがままにされているワシュレットが、
「それと、見慣れぬ怪しい人物がこの店にいた、という噂を耳にしたのですが……」
フレーチェの手が止まった。
今ならなんと、指導料は無料!
帝都に帰るまでの、期間限定!
怪しい売り文句を連発した少年が、ついさっきまでいたような気がする。
フレーチェは気まずそうに目をそらした。
「ねずみ色の髪をした冒険者風の……姉上?」
やはり、マルコだった。
「あれは……師匠ですぅ」
「師匠、ですか?」
「スライム使いの……師匠ですぅ」
スライム使いの師匠。
もう、これ以上ないくらい、うさんくさい肩書きである。
思いがけぬ存在を知らされ、ワシュレットは寝耳に水といった顔をした。
そんな男が姉の周りをうろちょろしていると知って、平然としていられるような弟ではないだろう。
フレーチェは嘆息した。