序話 魔大陸から来たスライム使い! その名はマルコ
空からスライムが降ってくる。
そんな話を聞いたら、申し訳ないけれど、私、シルフィネーゼ・ノーマッドはその人の頭を疑ってしまっただろう。
でも現実というのは往々にして、私の小さな想像を超えていく。
今の私がそんな荒唐無稽な話を聞いたなら、「ああ、また彼の仕業か」と現実を受け止めるだけだ。
私がそのスライム使いの少年と出会ったのは、パラティウム帝立学園の入学試験の日だった。
そう思っていたけれど、後から彼の話を聞くと、どうやらその前に、私は彼の姿を目撃していたようだ。
目撃した場所は帝都で一番高い建築物、時計塔の上。
そのとき彼は、未確認飛行物体だった。
約二百年前、十英雄の一人、聖女アースことアセリア・ノーマッドが建立した当時の建築そのままの姿を残す時計塔は、皇帝陛下の居城たるマルスボルク城の尖塔よりもなお高く、帝都の住人を見守ってきた。
その内部に、コツコツコツ、と規則正しく軽やかな足音が響く。
足音の主は翠銀の髪の、美しい少女。
白い神官服に身を包んだ少女は、息を切らすこともなく一息に、塔を登り終えた。
そこには時刻を告げるための大きな鐘があった。
鐘の音を帝都に響かせるため、四方は大きく開かれている。
茜色に染まった西の空から、東へと目を移せば、そのほとんどが群青色に染まっていた。
見下ろせば、暖かな光が帝都の城壁内部に満ちあふれている。
時計塔から眺める帝都の街並みは絶景だ。
夕暮れ時になっても、大通りは早足で行き交う人々であふれていた。
少し裏にはいった公園では、影を長く伸ばした子どもが友達に手を振り別れを告げながら、母親に手を引かれて帰って行く。
人々の営みが広がる眼下から視線を伸ばすと、大きな城壁が彼らの暮らしを見守るように広がっている。
少女は東の空に向き膝を折り、胸の前で両手を組んだ。
神に祈りを捧げるように瞳を閉じる。
その姿は稀代の彫刻家が生涯をかけて追い求めるほどに敬虔で美しかったが、彼女のこれは祈りではない。
瑠璃紺の瞳を開けると、通りで人を呼び込む商人の口の動きから、城壁の向こう、遠い森の揺れる葉まで、眼下の景色が驚くほどくっきりと映し出される。
体内の気と魔力を瞳に集中し視力を強化する。今や少女の日課となった鍛錬である。
東からの風が吹き抜けた。
人いきれを運んだ風が、翠銀の髪を優しく撫でる。
「あれは……?」
柔らかそうな淡い唇から怪訝な声が漏れる。
少女の強化された瞳には、まるで雲がちぎれて地面に降りてきたかのような、不思議な光景が映っていた。
ぎゅっと瞬きをして再び見るが、そこにはもう異変の影は見当たらなかった。
イスガルド大陸最大の版図を誇るガルマイン帝國。
その首都ウーケンは、大陸中から人と物が集まる世界最大の都であり、並ぶもの無き豊かさから眠らぬ都とも称される。
帝國の中枢機能が集まる帝都には特別な建物が幾つも存在するが、皇城と同等の面積を有する建物は一つだけだ。
それがここ、パラティウム帝立学園である。
格調高く、落ち着いた飴色の家具でまとめられた理事長室。
一人書類と格闘していた理事長ディアドラのもとに、女性の事務員がやってきた。
「理事長の推薦状を持ったマルコという少年が来たのですが……」
「む、来たか!」
古風な机に山と積まれた書類と向き合い、半ば書類の影に隠れていたディアドラは、珍しく、きらめくような笑顔をみせる。
その笑顔に、事務員の女はあっさり魅入られた。
ディアドラの長く伸ばした金髪からは、ひょっこりと尖った耳が覗いている。
少女にしか見えぬ理事長は、エルフの血を引いていた。
一般にエルフは容姿に優れ、魔法適性が高いとされている。
ハーフエルフのディアドラは純粋なエルフでも希なほどの魔法の達人とされ、その容姿と相まって、学園内外にファンも多い。
この事務員は、そのようなファンをミーハーだと断じていた自分を恥じた。
理事長の笑顔は花のように美しく、可憐で、無垢であった。
御年六十とも言われているディアドラ理事長は、生徒より幼く見えるほどに可愛らしい。
ディアドラがその少年を通すようにと、キリッと指示を送ると、事務員はなぜか胸を押さえながら退室する。
「ふふ、私自ら魔大陸へ足を運んだ甲斐があったな」
普段はクールビューティーを気取っているディアドラの口元は、だらしなく緩んでいた。
その顔は、悪巧みが成功して喜ぶ子供にしか見えなかった。
しばらくして扉がノックされる。
「入りたまえ」
ディアドラの声を受けて扉を開けたのは、ねずみ色の髪の少年。
身長は平均よりちょっと下、服装から冒険者だと判別できる。
その装備は派手さこそまるでないが、見るものが見れば既製品は一つもなく、全てが名工の手による上質な物だとわかるだろう。
「失礼します」
「む、そこに座ってくれ」
ディアドラがその白魚のような指で、理事長室に置かれたソファーを示す。
少年、マルコがそこに腰を下ろすと、ディアドラも向き合うように座った。
「よく来てくれた。どうだ? パラティウム帝立学園を見た感想は」
「すっごい大きくて立派。魔王城よりずっと金かかってそう」
マルコのどぶねずみ色と揶揄されたことのある瞳が、きょろきょろ動く。
よくよく見れば、顔のパーツや配備は整っていると言えなくもない。
しかし小者感がにじみ出る挙動が、十人並の容姿といった印象を強めていた。
十五才の少年、マルコは根無し草の冒険者。
高価そうな物に囲まれると、アウェイ感が強まり居心地が悪いのだった。
――二週間ほど前のことである。
魔大陸と呼ばれる東の大陸で、マルコ少年とディアドラ理事長は出会った。
魔大陸、このイスガルド大陸と比べ、遙かにランクの高い凶悪な魔物が氾濫している危険な大地。
ランクが高いだけあって希少で高価な魔物素材も多く、イスガルド大陸の腕自慢や命知らずな冒険者が海を渡り、挑んでは命を落としていく。
その魔大陸で唯一といっていい都市が、魔王の治める魔都リョーシカだ。
リョーシカの冒険者ギルドで魔物素材を換金しているマルコに、ディアドラが声をかけたのが始まりだった。
逆ナンではない、学園へのスカウトである。
マルコは先輩冒険者に「美人に話しかけられたら、まず美人局を疑え」とアドバイスされたことがある。
類い希な美少女、実年齢はともかく見た目は美少女、に声をかけられ警戒していたマルコに、ディアドラは問いかけた。
「君、人間の友達はいるのかね?」
マルコは動揺した。
思わず冒険者ギルドの中、併設してある酒場を見渡す。
戦友の虎顔の獣人が昼間から酒を飲んでいる。
人のいい穏やかなマスターは四本の手を巧みに使いカクテルを作っていた。
カウンターに座る絡み癖のある色っぽいお姉さんの下半身は大蛇だ。物理的に絡んでくるので酔っているときは近づかないようにしている。
ギルドの受付嬢、美人なお姉さんのチャームポイントは額に生えた美しく黒々とした角だそうな。
マルコはショックを受けた。
人間が自分しかいない!
――いろいろと迷いはしたが、帝國はマルコの故国でもある。
マルコはパラティウム帝立学園への入学を決意し、魔大陸からはるばる海を渡ってやって来たのだ。
「いろいろ考えた割には即断即決ではないか。私がここに戻ってきたのも、ほんの三日前だぞ」
そう言って、ディアドラは机の上の紙の山を忌々しげに睨む。
長く留守にしていたから仕事が溜っているのだ。普段からこんな山積みではない。
理事長はできる女なのだ。できる女だから理事長なのだ。
「いや、ほんと悩んだんだよ。船使わないで空飛んできたから移動時間は短縮できたけど……」
「……ちょっと意味がわからないな」
「クラウドスライムっていう雲状の群体スライムに乗ってきたんだ。でも、海を渡ってたら途中ででっかい鳥に襲われて――」
「そりゃ、そんな怪しい存在を見かけたら鳥も襲ってくるだろうよ」
「空中戦、苦手なんだよなあ」
「……空中戦という言葉自体が不可思議だが、まあ無事なようで何よりだ」
大魔導師が空を飛ぶことはある。ディアドラも空を飛ぶだけなら可能だ。
が、基本的に人は空を飛ぶようにできていない。
空を飛んで怪鳥と戦うなど聞いたこともない。
そもそもそれ以前に空を飛んで大海を渡るとは無謀ではないだろうか?
ディアドラは首をひねったが、気を取り直して言う。
「さて、君には二ヶ月後からこの学園に新入生として通ってもらう。理事長である私が推薦する特待生としてだ」
「……特待生ですか」
「……一般枠がいいかね」
「人間の友達を作りに来たんだから特待生より普通に入学したほうが……」
「入学試験、受けてみるかね?」
「うっ……」
マルコはあからさまに怯んだ。
マルコは帝國北東部の辺境、小さな村育ちだ。当然、学校に通ったことはない。
冒険者としての実力に比べ、学業は心許ないことこの上なかった。
「入学してからのことを考えるとどうせ勉強はしなきゃならんわけだが……」
「どうしよう? 田舎育ちなもんで学校なんてなかったし。冒険者になってからだってたまに魔王城で開かれる私塾くらいでしか勉強なんてしたことない……」
深刻になるマルコを見て、ディアドラは再び首を傾げる。
「うん? 私塾の場所がおかしい気がするが普通はそんなもんだろう。まあ、そんなに難しいものでもない。入試まで一月だが今からでも気合いを入れれば間に合うと思うぞ」
ディアドラはそう言って、教育者の顔をする。自信たっぷりと。
「なにしろこの私がつきっきりで面倒を見てあげるのだからな」
大きな街ならともかく地方では学ぶ場所のない子も多い。
パラティウム帝立学園が彼らに門戸を閉ざすことはない。
理事長であるディアドラも同様だ。
「……お願いします」
ディアドラの自信満々な様子に押されて、マルコは素直に、そして真剣に頭を下げた。
少年の真摯な願いに気をよくして、ディアドラは私に頼れ! とばかりに薄い胸を張る。
「ふふ、思いっきりハードにしごいてあげようじゃないか」
マルコ、ちょっと早まったか、と思ったがもう遅い。
こうして、ディアドラ理事長とマルコ少年の短い共同生活が始まった。
――学園関係者の間では「あの理事長についに男が!」「理事長が若いツバメを囲った!」などという噂がこっそり広まっていったという。