樹だけを愛してる
「響子」
樹の部屋に来ていた。
部屋の中では、樹が相変わらず真面目に論文に取り組んでいたようだった。
でも、私が訪れない間、掃除も片付けも滞っていたのだろう。部屋は私にはわからない数式の専門書や資料の類が所狭しと散乱し、足の踏み場がない。
「お前、最近どうしてたんだよ。俺も院試の勉強にかまけて連絡しなかったけど、このところLINEもないし、顔見せないから心配してたんだぞ」
部屋の隅の机から振り返りながら、樹は心配げに私を見た。
「樹」
私は、ドアのところに立ち尽くしたまま、言った。
「別れましょう」
その私の一言で、シン…と部屋は静まり返る。
それはこの間、散々逡巡した末、出した私の結論だった。
樹は、息を飲んでいる。
しかし、
「何の冗談だ」
と、冷静に言葉を返してきた。
「私は樹とはもう一緒にいられないの」
「だからどうして?!」
机を蹴るように立ち、迫る樹に私は言った。
「耀に抱かれたわ」
樹は、また大きく息を飲んだ。
「嘘だろ」
「本当よ」
「何で……」
「私は耀を忘れられなかった」
次の瞬間。
パン……!
乾いた音が静まり返ったその空間に響いた。
私は、樹に頬を張られた態勢のまま、視線を床に落としている。
「帰ってくれ」
私に背を向けた樹は、秘めた怒りを含みながら吐き捨てるようにそう言った。
「樹……今までありがとう」
私はその言葉だけを残して。
心を残して……。
最後になる樹の部屋を後にした。
◇◆◇
ごめん
ごめん
樹……
好きよ
好きよ
好きよ
やっとわかったわ。
あの時。
あのかつて見慣れていた風景の中で、私は耀に再びの口唇を許した……。
その刹那──────
私はやっと自分の気持ちに気がついた。
樹を本気で愛している本当の自分を取り戻した。
でも。
それはもう遅い。
私は樹を裏切った。
その事実に変わりはない。
耀……。
忘れられないと思い込んでいた。
あのフェイス。あのどこか懐っこく、不思議と人を惹き込む性格。
何より「男」に対して、初めて心と肌を許した存在というだけで、私は……。
でも、樹と重ねた日々の重さが、樹の真の愛情が、私を目覚めさせてくれた。
でも、もう遅い。
樹は私を許さない。
それでいい。
わたしみたいな馬鹿な女は樹には相応しくない。
私は。
私は。
はらはらと涙が零れてくる。
どうして。
あの時も、今もこんなに……。
本当に大切なものを失って初めて、その代償の重さを、自分の純粋な想いを、樹の優しい真心をひしひしと感じている。
私は樹を。
樹だけを愛してる──────