追跡行 同日 一二五〇時
『目標を捕捉。左一一六度、距離〇・九海里、深度九〇メートル。おおむね南南西の方角に向かいつつある模様。速力およそ四ノット』
「もう少し後ろにいたら、見つけられなかったわね」
ようやくも届いた知らせを耳にして、ホレイシアはそう小さく呟いた。
敵艦の位置は〈リヴィングストン〉の左舷、その斜め後方であった。おそらくソナーの探知範囲外に出て姿をくらまし、こちらがダミーに惑わされた隙を狙って船団へ向かうつもりだったのだろう。発見できたのは、ただただ幸運であった。
ホレイシアは航海長に尋ねた。
「ジェシー、本艦の針路は?」
「方位二七〇を維持しております」
船団本隊と逆方向へ進む敵に対し、〈リヴィングストン〉はその反対、西に位置する船団を目指すコースをとっていた。速度は六ノットのままである。
しばらくしてソナー室より、敵が今度は右折しているとの報告がはいった。新たな針路は二七〇度――つまり〈リヴィングストン〉と同じ西へ向かおうとしているらしい。
ホレイシアは見張り員のほうを見た。
「船団本隊との距離は、どれ位になるかしら?」
「おおよそ四海里になります」
「まだ近いわね……」
ホレイシアは顔をうつむかせ、わずかに考え込んでからリチャードに告げた。
「仕掛けるわ。撃沈できるかどうかはともかく、針路上に割り込んで船団から遠ざけましょう」
「了解です。ならば、まず接近する必要がありますね」
「その通りよ」
ホレイシアは副長の言葉に頷き、シモンズ大尉へ命じた。
「取り舵、針路を方位一七九へ」
「針路一七九、了解しました」
シモンズ大尉は命令を復唱すると、航海士に指示をつたえた。〈リヴィングストン〉は旋回方向とは逆の右側に船体を傾斜させ、波風を一身に受けながら舳先を左側にむけていく。正面に見えていた船団本隊の姿が、見る見るうちに右側へ移っていった。
『目標、見失いました』
変針をはじめた直後にコックスがそう知らせてきたが、ホレイシアとリチャードは動じなかった。艦が向きを変え、ソナーの向きがずれたのが原因であるからだ。自動追尾機能のようなモノは、技術的制約からまだ研究段階である。
幸いなことに、ソナーはすぐさま目標の捉える事に成功した。さほど間をあけずに、状況の変化をコックス兵曹がつたえてくる。
『目標、左舷へ変針した模様。現在針路一五四』
敵艦は、少し南に舵を向けたようだ。
「針路そのまま、しばらく様子を見ましょう」
ホレイシアは航海長にそう命じると、続けて対潜長のほうを見た。
「フレデリカ」
「はい」
パークス大尉が振り向くと、ホレイシアは続けて言った。
「敵艦の動きが読めないわ。操艦と攻撃のタイミングは私が指示するから、爆雷班は待機させておいて」
「了解しました」
それから二分後、船団本隊に随伴している〈ローレンス〉より連絡があった。先ほど発見した敵潜水艦に対し、〈レスリー〉が攻撃を開始したとのことである。
リチャードは腕時計をちらりと見た。新手の接近が報じられてから、間もなく二〇分になろうとしている。一刻も早く船団本隊に復帰し、四隻しか居ないその守りを強化せねばならない。
彼がそんな事を考えていると、またもソナー室から新情報がもたらされた。
『目標は再び左舷へ変針、方位一三五へ進みつつあり。現在位置は本艦の左八〇度、約四〇〇メートル』
「忙しい事ね」
ホレイシアの呟きが、リチャードの耳に入ってきた。彼我の距離が半海里を切ったため、報告にもちいる単位は海里からメートルへ切り替わっている。敵はふたたび、南西方向にその舳先を向けていた。
リチャードは上官に尋ねた。
「艦長、どうされますか?」
副長の問いかけに、ホレイシアは応じなかった。攻撃をおこなうか否か、判断しかねているのだろう。しばらくして、彼女は航海長にむけて尋ねた。
「ジェシー、今から敵に近づいて、接触するのにどれ位かかるかしら?」
「お待ちください」シモンズ大尉は海図に目を向け、航路を確認してから答えた。「一〇分ほどになります」
「時間がかかるわね」ホレイシアは重ねて質問した。「速度を……そうね。一二ノットに上げた場合は?」
「それなら、三分以内になると思います」
航海長の返答を聞くと、ホレイシアは頷いて命じた。
「ただちに変針、定針後は速力一二ノットとなせ」
「分かりました」
シモンズ大尉は頷くと、海図をちらりと眺めてから羅針盤のほうに目をやった。
「取り舵一〇、方位一三五」
「ヨーソロー、とぉーりかぁーじ!」
羅針盤の前に立つ航海士が、備え付けの伝声管を通じて操舵室に指示をつたえた。針路変更が終わると、〈リヴィングストン〉は六ノットから一二ノットへ速力をあげていく。その間にホレイシアは、パークス大尉に対潜攻撃へ備えるよう命じた。
いっぽうでコックスからは、先程と同様に敵を見失った旨の連絡がもたらされた。ホレイシアたちはさほど気に留めず、敵発見の報告を待ち続ける。
だが、増速完了から一分後。
ソナー室のカーテンを勢いよく開けた彼の報告は、その期待を大きく裏切るものであった。
「申し訳ありません、目標を完全に見失いました」
最初に反応したのは、対潜長であるパークス大尉であった。驚いた顔でソナー室へ駆け寄り、コックス兵曹に状況を確認する。それを終えた彼女はホレイシアへむけて、残念そうに首をちいさく横に振った。
「やられましたね」
リチャードは小さく舌打ちすると、呆気にとられている艦長へそう呟いた。敵潜水艦はこちらが転舵する瞬間――ソナーがあさっての方角に向いた隙をつき、急反転のうえで〈リヴィングストン〉の下をすり抜けたのだろう。彼は上官にその旨を説明した。
事態を呑み込んだホレイシアは、右手の指でまぶたを抑え、白い息を吐き出しながら深呼吸した。
「……捜索を一時中断する。反転して仕切り直すわ」彼女はそう言ってからシモンズ大尉のほうを見た。「ジェシー、取り舵いっぱい」
「分かりました。針路は――方位二七〇でよろしいですか?」
航海長が尋ね返すと、ホレイシアはすこし投げやりな口調で答えた。
「それでいいわ、定針後は再び六ノットに」
「前進微速、了解です」
シモンズ大尉の復唱を確認すると、ホレイシアは溜息をついて座席の背もたれに寄り掛かった。
〈リヴィングストン〉は左へ舵をきり、これまでとは正反対の――船団の位置する方角へ慌ただしく舳先を向けていった。転舵は一分もせずに終了した。
「艦長」リチャードが不意に口を開いた。「近くにいる〈ゴート〉へ、捜索を命じてはどうでしょうか」
船団右翼に展開するコルベットの〈ゴート〉は、このとき〈リヴィングストン〉から二海里ほど先を北西に進んでいた。本来の配置はもっと南だが、船団前方を警戒すべく移動した、〈ローレンス〉の担当範囲をカバーするため移動したのである。
「そうね、頼んでみるわ」
ホレイシアは副長の提案に頷くと、通信室へ〈ゴート〉に支援を要請する旨を打電させた。それが終わると、ソナー室へも捜索再開を命じる。
みなが聞き耳を立てて吉報を待ったが、その瞬間はなかなか訪れなかった。ソナー室のスピーカーは、ただ沈黙を保つばかりである。将兵たちの表情が、焦りと不安でみるみる暗くなっていった。
「見つけました!」
そのため突如として響いた声に、全員がハッとしたのは無理からぬ話であった。
興奮気味に発せられた知らせは、雑音まじりのスピーカーからもたらされたモノではない。声のあるじは艦橋左舷の見張員――その一人であった。
報告があまりに簡潔すぎたことに気付いたのだろう。周囲の視線が集まる中で、その見張員は最初よりもやや落ち着いた口調で詳細を伝えてきた。
「潜望鏡らしき物体を視認しました。一時方向、距離は一海里前後。既に海中へ没しています」
「確かなのね?」
既に立ち上がっていたホレイシアは、見張り員のほうに目を向けて尋ねた。
「間違いありません。海面から、少なくとも三メートルは伸びていました」
艦長からの問いかけに、見張り員は自信ありげに答えた。敵艦は短時間に何度も転舵したため、航法ミスの有無を確認すべく周囲の状況を確かめようとしたのだろう。位置関係の把握は重要だが、それに拘った事がかえって徒になったのだ。
「よくやったわ、ありがとう」
ホレイシアは笑みを浮かべて、見張り員にねぎらいの言葉をかけた。
直後に〈ゴート〉からも位置情報付きで、目標を捕捉したとの報告が送られてくる。それを聞いたパークス大尉が言った。
「本艦の正面、右十度から一五度を集中的に捜索させます」
その成果はすぐにあらわれた。
『目標を捕捉。右一〇度、約一海里、深度はおよそ六〇メートル』
目標発見の報を聞くと、ホレイシアは対潜攻撃の実施に備えるよう命じた。パークス大尉はすぐさま頷き、電話員を通じて爆雷班へそれを伝えていく。しばらくして、ソナー室から続報がもたらされた。
『目標は方位二八五へ進みつつあり、速力八ノット』
知らせを聞いたホレイシアは、座席から立ち上がって命じた。
「ジェシー。針路そのまま、最大戦速」
シモンズ大尉は驚いたが、了解とこたえて航海士へ指示をつたえた。ホレイシアは後ろに立つリチャードに、無言のまま頷いてみせる。最大速度の二七ノットではソナーが使えないが、それを承知で彼女は距離を詰める事を優先したのだ。
ホレイシアは副長をそのままにして、座席のそばを離れて海図台へと歩み寄った。そこに記された航路情報を、食い入る様な目で彼女は見つめる。四隻目の敵を発見したとの通報が〈ローレンス〉よりもたらされ、〈ゴート〉から対応のため移動すると連絡が来た時も、彼女は頷くばかりであった。速度を大きく上げたことで、彼我の距離はどんどん縮まっていった。
それから二分後、頃合いと判断したホレイシアは一二ノットへの減速を命じる。スピードを半分以上おとすため、シモンズ大尉が完了を知らせるまで二〇秒ほどを要した。
「艦長、現在速力一二ノット」
「面舵三〇、針路三〇〇へ」
「ヨーソロー。針路三〇〇」
〈リヴィングストン〉は船体を傾斜させつつ、針路を右に転じた。それを指揮する航海長は、どことなく不安げな顔をしている。
「大丈夫よ」ホレイシアは断言した。「二度目はない。きっと、いえ絶対、ここで片づけてみせるわ」
彼女は様子見のため、このまま進むよう命じた。
幸いな事にソナーはすぐさま、目標を捉えることに成功した。それから〈リヴィングストン〉は敵艦に対し、左舷後方から近付いていく。一分ほどで四〇〇メートル――船舶にとっての至近距離にまで迫っていった。
ソナー室からの報告が艦橋に響き渡った。
『目標、左舷方向へ急転舵しつつあり』
「同じ手は喰らわないわ」
ホレイシアはそう呟いた後で、シモンズ大尉に言った。
「こちらが誘いに乗ったように見せかけるわ。いったん左舷に舵をきって、しばらくしたら元の針路に戻してちょうだい」
「分かりました、やってみます」
航海長がそう応じると、ホレイシアは笑みを浮かべて命じた。
「行くわよ、取り舵四〇度」
「取り舵四〇、ヨーソロー!」
〈リヴィングストン〉が舳先をわずかに左へ逸らす間に、ホレイシアは海図台から離れて席に戻っていった。腰を下ろすと続けて対潜長にも指示を出す。
「ソナーは再度の変針後に、左舷側を捜索すること。攻撃のタイミングは、私が伝えるわ」
「はい!」
パークス大尉が了承するのと入れ替わりに、シモンズ大尉が報告する。
「定針しました。現在針路は二六〇です」
ホレイシアは頷くと、二度深呼吸してから再び命じた。
「……面舵三〇度!」
「面舵三〇度、了解しました」
元の針路へ戻るのに、さほど時間はかからなかった。間もなくソナー室が捜索開始を報じ、目標発見の知らせもかなり早く届けられた。
『目標は左一〇度、距離一五〇メートル、深度七〇メートルにあり。さらに潜航中の模様』
「調定深度を一二〇メートルへ、爆雷投下用意!」
ホレイシアはパークス大尉に向かって、大声でそう命じた。しばらくして、ふたたびコックス兵曹の知らせが聞こえてくる。
『敵艦、再度左へ転舵しつつあり、現在深度一〇〇メートル』
「諦めが悪いわね」
ホレイシアがそう言った直後、パークス大尉が爆雷の用意よしと伝えてきた。
「取り舵いっぱいで反転、仕掛けるわよ!」
「ヨーソロー。とーりかぁーじ、いっぱい!」
シモンズ大尉の号令から一〇秒もせずに、〈リヴィングストン〉は急激にその舳先を左舷側へ向けていった。舵を最大限にまわしているため、変針の伴う船体の傾斜はかなりきつい。艦橋要員たちは手近なものへ掴まり、転倒に注意しつつ転舵の終了を待った。その間にホレイシアは、破損を防止するためソナーの停止を命じる。
そして、ついにその時が来た。
「攻撃開始! 攻撃開始!」
命令は対潜長を通して爆雷班に届くため、実施されるまでにほんの少しだがタイムラグが生じた。一五秒ほどして爆雷投射機と思しき、コルク栓を抜くような小さな爆発音が艦尾から聞こえてくる。
爆雷が炸裂しはじめたのは、それから更に一分後のことであった。
〈リヴィングストン〉は攻撃を終えると、最初と同様舵をきって投下地点に戻っていった。
「艦長、回頭おわりました」
ホレイシアは戦果確認のため、速度を六ノットに落とすようシモンズ大尉へ伝えた。合わせてソナーの活動再開も命じ、すぐさま捜索が実施される。
ソナーによる捜索の結果は、一分もせずにもたらされた。正面の海域から、金属のきしむ音がしきりに聞こえてくるとの事である。敵潜水艦の船体へ、大きな損傷を与えたに違いない。
ホレイシアはより確実な証拠をさがすべく、さらに――三ノットにまで艦を減速させる。見張り員をはじめ乗組員たちは、洋上になんらかの兆候がないか目を皿にして探しまわった。
「二時方向、二〇〇メートルに油のようなものが見えます!」
見張り員の報告を耳にすると、ホレイシアは立ち上がって右舷側に歩いていった。リチャードも、彼女の後に続いていく。
双眼鏡を構えた二人の視界に入ったのは、大海原の一点にぽつんと浮かぶ緑色の液体であった。おおむね一〇メートル四方の範囲に広がって、海水に溶けることなく漂い続けている。
「軽油ですね、間違いありません」
リチャードが双眼鏡を両目に当てたままの姿勢で、ホレイシアにそう言った。軽油は潜水艦の主機関である、ディーゼルエンジンの燃料だ。おそらく損傷により生じた裂け目から漏れ出てきたのだろう。潜水艦にとって、致命的な一撃となったはずだ。
ホレイシアが頷いていると、ソナー室からコックス兵曹が顔を出して知らせてきた。
「本艦正面に異常音響を確認、敵艦が圧潰しているものと思われます!」
ホレイシアは立ち上がり、コックスの元へと向かっていった。
彼女は兵曹と何度か言葉をやり取りした後、彼から予備のヘッドフォンを受け取ってそれを身につけた。どうやら、ソナーが拾った音を聞いているらしい。座席へ戻ってきた時、その表情はどこか哀しげであった。
「他のみんなに、アレは聞かせられないわね」
ホレイシアはかすれた声で、リチャードにだけ聞こえるように呟いた。
ソナーが捉えていたのは、沈みゆく敵潜水艦が水圧に押し潰される音であった。撃沈を示すもっとも確実な証拠だが、それ自体は耳にして気持ちのいいものではない。金属製の船体がミシリ、グシャリと鈍い音を響かせながら、乗組員もろとも圧潰しているのだから当然だ。文字通り不協和音の塊である。
ホレイシアは副長の反応を待たず、座席に腰かけると受話器を手に取った。それを艦内放送の回線に接続し、ひと呼吸おいてから艦内の部下たちに呼びかける。
「……こちらは艦長よ」
彼女の口調は先ほどとは打って変わり、ひどく明るいものであった。
「たった今、敵の撃沈をソナーで確認しました。全員が一致団結したからこそできた、私たちにとって初めての戦果よ。本当によくやったわ。まだ戦闘は続くだろうけれど、これからも宜しく頼むわね」
艦内で喜びと安堵の声が、あちこちから発せられた。乗組員たちは肩の力を抜きながら、ある者は頬を緩ませて大きく息を吐き、またある者は同僚たちと、視線を交わしあっている。それは艦橋でも同様であった。
リチャードが腕時計に目をやると、時刻は一三二七時となっていた。迎撃を決意したのは一二一五時のことだったから、撃沈まで一時間以上かかった計算になる。
ホレイシアは放送を終えると、立ち上がって艦橋要員たちに大声で告げた。
「さあ、喜ぶのはまだ早いわよ。見張り員、〈レックス〉と〈ゲール〉の位置は?」
「八時方向、距離四海里に確認できます」
ホレイシアとリチャードが左舷後方に目を向けると、船団へ戻る途中の二隻が小さく見えた。
「両艦へ通信。 船団合流後ハ右翼ノ警戒ニ当タルベシ」
ホレイシアは通信室宛ての指示を電話員に伝えると、シモンズ大尉のほうをみて命じた。
「ジェシー、面舵。船団本隊と並走して」
「分かりました」
変針が終了すると、ホレイシアは続いてリチャードへ声をかけた。
「副長、〈ローレンス〉に現状を問い合わせてくれるかしら」
「すぐ連絡します」
リチャードは頷き、海図台のほうへと移動した。船団本隊を直衛している四隻は二隻の潜水艦を相手取っており、出来る限り早く救援のため戻る必要がある。復帰する前に、急いで情報を集めなければならない。彼は〈ローレンス〉と連絡をとるべく、海図台に据えられた受話器に手を伸ばした。
その時、左舷見張り員のひとりが半ば絶叫するように知らせてきた。
「一二時方向、船団本隊に白色信号弾を確認!」
それを聞いた艦橋要員たちは、それまでの喜びが吹き飛んだように表情を硬くした。信号弾は事前の打ち合わせにより、特定の状況を知らせるために色を使い分けて使用する事になっている。
白色信号弾に割り振られた符号、それは『ワレ、被弾セリ』であった。




