王太子
想いをこめてはいけない。
想いを伝えてはいけない。
想う相手を見つけてはならない。
分かっていた、はずなのに。
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「すまない、君とは結婚できない」
眩しすぎるシャンデリアの灯りも、煩わしく飜るドレスの裾も、むせかえるような花の匂いも。
今日を過ぎるまでの辛抱だと言い聞かせて過ごしてきた。
「…殿下?」
小首を傾げて聞き返される。もう一度、と確認するようなその仕草。
「…本当に、すまない。
貴女との婚約を、なかったことにしてもらいたい。
………好きな人が、できたんだ」
リードするダンスの足取りはそのままに、仲睦まじい婚約者同士と誰もが疑わないよう、結婚前の男女にふさわしい距離で。
あぁ、それでも、手を取るのが目の前の彼女ではなく君だったらと。
藤色の髪を、菫色の瞳を見るたび、相手は君ではないのだと思い知らされて。
ほんの一瞬。
苦しげに眉根を寄せ、重ねた手を振りほどいて今にもこの場を飛び出していきたいのを悟られてしまっただろうかと焦る気持ちと。
聡明な彼女には伝わって当然だと自嘲する気持ちとがないまぜになって。
「お相手は…《殿下のお気に入りの仔猫ちゃん》…でしょうか?」
「…そうだ」
やはり見抜かれていたのだと、隠し通せるものではなかったのだと知った。
仔猫、そう呼んだのはほんのきまぐれだった。
5つ年の離れた妹付きの、行儀見習いとして王宮にあがった子爵家の令嬢。
黒と、褐色と、金の混じり合った、興味深い毛並みの、……ただ、それだけだったのに。
いつの頃からか、あの色を目にするのが楽しみになった。
いつの頃からか、あの色を目で追いかけるようになった。
そして気づけば、あの色を恋い焦がれるようになっていた。
「陛下は、なんと?」
「……覚悟はできているのか、と」
「そう、ですか……」
「その方が側妃になるのでは、駄目なのでしょうか…?」
絞り出すようなか細い声で、彼女が言う。
側妃。
そうなれればよかった。そうできればよかった。でも。
「それは、不可能なんだ。もう、『始まって』しまったから」
その意味するところを理解してか、彼女が息を飲む。
あぁ、もうすぐ曲が終わる。
私から伝えるべきことは伝えた。
この場で不誠実となじられても謗られてもしょうがない。
それだけで済めばまだ良い方で、彼女の実家である公爵家に王家が泥を塗ったと、王族自ら醜聞を撒き散らすような真似を、婚約者である彼女にしている自覚はある。
物言いたげな色を浮かべた菫。
けれど、それきり、彼女が口を開くことはなく。
数日後に私たちの婚約破棄が発表され。
その半年後に、私は病気療養を理由に王宮を去った。
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あの春の夜から世界は一変した。
王宮を出たその日。
父は、覚悟を決めたのならもう言うべきことはないと最後まで無言で。
取り乱すところなど見たことのなかったはずの母は堪えきれないとばかりに泣き崩れ。
そして妹は、これまで見せたことのない表情で私をじっと見つめていた。
今は不思議に凪いだ気持ちで、王都から遠く離れた離宮で日々を過ごす。
ここには、都の喧騒も、値踏みするような視線も、何かを期待するような声色も届かない。
幾人かの使用人に、家令がひとり。
それから……
「あぁ、いたね。
…こんなところに隠れて、何をしてたんだい?」
陽の当たる中庭の、ほど近い茂みから見え隠れするまだら。
黒と、褐色と、金の混じり合った三毛の仔猫。
「お昼寝していたのかな?今朝は朝からずっとどこかに出かけていただろう?……心配したんだよ」
ひょい、と抱きかかえると、目を細めて、な〜ぉ…と眠たそうに鳴く。
「…そろそろ風が冷たくなってきたから、中に入ろうか」
風邪を引いちゃいけないからね、と声をかける。
答えは、返ってこないけれど。
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想いをこめてはいけない。
想いを伝えてはいけない。
想う相手を見つけてはならない。
それは、王家の直系男子のみに顕現する、呪い。
想いを込めた言葉に、力がこもる。
言霊、などという生易しいものではなく、それが意識的、無意識的に発した言葉どちらであっても、想いを込めて言葉を交わした相手を縛り、変質させてしまう。
だから、直系に連なる男子は、幼い頃から感情をコントロールする術を教え込まれる。
想いをこめてはいけない。
ーーー込めたら最後、相手をその言葉に縛り付けてしまうから。
想いを伝えてはいけない。
ーーー伝えてしまえば、相手をその言葉通りのものへと変質させてしまうから。
想う相手を見つけてはならない。
ーーー愛した相手を、壊してしまいたくないならば。
読んでいただき、ありがとうございます。
もう数話ほど、視点を入れ替えながら続く予定です。