公爵令嬢
『まるでーーーーみたいだ』
一面の紫に佇む黄金色。
何かを渇望するようなその眼差し。
その眼が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
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「すまない、君とは結婚できない」
煌びやかなシャンデリアの揺らめき、色とりどりに飜るドレスの裾。
春の夜にふさわしい、花の匂いがそこかしこに溢れる宴。
いつものように殿下とファーストダンスを踊り、いつものようにパーティを過ごす。
はず、だった。
「…殿下?」
小首を傾げて聞き返す。聞き間違えたのかしらと確認するように。
「…本当に、すまない。
貴女との婚約を、なかったことにしてもらいたい。
………好きな人が、できたんだ」
私をリードするダンスの足取りは乱れることはなく軽やかなままで、仲睦まじい婚約者同士と誰もが疑わないであろう、結婚前の男女にふさわしい距離で。
あぁ、この人は、この瞬間でさえも私に誠実であろうとしてくれているのだと。婚約者であろうとしてくれているのだと。
けれど、好きな人、とそう呟いた瞬間の、ほんの一瞬。
苦しげに眉根を寄せて、重なり合った手をぎゅっと握りしめられて。
あぁ、それでも私は選ばれるに足りなかったのだと。
そう、伝わってしまった。
「お相手は…《殿下のお気に入りの仔猫ちゃん》…でしょうか?」
「…そうだ」
仔猫ちゃん、だなんて、お喋り好きな九官鳥たちからそれを聞かされたときは顔をしかめたものだった。
その名を耳にするようになったのはいつ頃からだったかしら。
行儀見習いで殿下の妹付きになった、子爵家の令嬢。
黒と、褐色と、金の混じり合ったような髪色で、陽のあたりようで色が変わって見えるのだと、三毛猫のようで可愛らしいのだと、その色がとても素敵なのだと、そう聞いたのは、いつだったかしら。
「陛下は、なんと?」
「……覚悟はできているのか、と」
「そう、ですか……」
「その方が側妃になるのでは、駄目なのでしょうか…?」
絞り出すようなか細い声だと、我ながら無様だと、惨めだと、それでもこの方の隣にこれほどまでに自分はいたかったのだと、気づいたけれど。
「それは、不可能なんだ。もう、『始まって』しまったから」
殿下のその言葉に、息を飲む。
…あぁ、もうすぐ曲が終わってしまう。
何か言わなければ、何か伝えなければ、何か。
けれど、それきり、殿下が言葉を発することはなく、それきり、私が何か尋ねることもなく。
王宮から婚約破棄の知らせが届いたのはそれから幾日かしてのことで。
さらに半年後には王太子廃嫡の発表があり、殿下とあの子の姿を王宮で見かけることはなくなった。
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「お姉様、これで本当によろしかったの?」
「…王女殿下、私はもう一臣下の娘にございます、『お姉様』などと…」
「もうっ、またそうやって話をはぐらかそうとなさるんだから!
私の質問にちゃんとお答えになってくださいませ!」
ぷぅ、と可愛らしく頰を膨らませてこちら見遣る様子は年相応、と言うべきなのでしょうか。
あの方によく似た柔らかな金の髪を、どこか懐かしく感じながら目を細めて少し考え込む。
「……良かったのだと、思うことにいたしました。」
「お姉様…」
「だって、そう思わなければ、誰も彼も、救われませんでしょう?」
王宮で過ごすいつもの昼下がり。
王女殿下に招かれるいつもの中庭のお茶会。
かつてはありふれた日常だったそれら。
「殿下のこと、お慕い申し上げておりました。
あの方の隣に並び立てるのは、私だけなのだと。
殿下からもそう思っていただけるものと、そこにあるものが私と同じ恋情ではないとしても、敬愛を抱いて寄り添っていけるものと、思っておりました」
金の、柔らかな少し癖のある髪。
名前を呼ばれることが嬉しかった。
手を差し出せば、それが当たり前であるかのように取ってくれることがくすぐったかった。
すぐ隣で、真正面からではなく、横顔を眺めることができることが誇らしかった。
「…よくあることにございます。
私は殿下の婚約者たるには不十分だった。だから婚約は破棄された。
殿下は急な病のため、療養に専念する必要があった。だから王太子の位を降りた。
ありふれた話でございましょう?
……それが、事実ですわ」
「公の事実なんて、真実を隠す藁でしかありませんわ」
「嘘も突き通せばまことになりましょう。
それでよいのです。
私は不出来な令嬢、殿下の名誉は守られる…」
王女殿下の視線から顔を隠すようにして、ともすれば震えてしまいそうになる声をどうにか抑えながら言葉を紡ぐ。
そういえば、殿下と同じ金色の髪でも、その眼差しの強さがこうも違うと、やはり兄妹とはいえ似ないところもあるのだな、と今更ながらに気づく。
あの方から、こんなにまっすぐ見つめられたことなんて、きっと数える程。
記憶の中のあの方は、いつだって眩しそうにこちらを見て、はにかんだように笑っていた。
こんな、挑むような目は、されたことがない。
と、その視線が逸らされる気配に気づくのと、ため息が聞こえるのとは同時だった。
「殿下…?」
「そうですわね、確かに、お姉様のおっしゃる通りですわ。
不肖の兄は青天の霹靂とも言うべき病を得て療養中、おかげさまで継承権を巡って伏魔殿は大騒ぎ…いたしかたありませんわね」
ですけれど、と言葉をつないで、またあの眼差しで私を見る。
「私は、お姉様を傷物のままにだなんていたしませんからね!
誰も彼も救われない、だなんて仰りようは、絶っ対に!撤回させてみせますから!」
握りしめた扇子が折れてしまうのでは、と思うほどの勢いで絶対、と言い切った王女殿下に、淑女らしからぬその言動に、思わず取り繕うこともできずにポカン、と呆けた顔を晒してしまう。
「………あ、…いえ、その…ごめんなさい、だって、このままじゃあまりにもお姉様が…」
はた、と自分の口にした内容を省みて冷静になったのか、急に勢いを失いしゅん、とする。
こんなところは、本当に可愛らしい少女そのもの。
私が婚約者の立場を失っても、これまでと変わらずお茶会に招いてくれることで、口さがない社交界の風当たりがかなり柔らかくなっていることも、それを見越して殿下が風除けになってくれていることも、わかっている。
だから、
「…これで良かったのでございます。
私は、恵まれておりますわ。これ以上は望むべくもないほどに」
どうか、そんな悲しい顔をしないでくださいな。
言外にそう伝えると、ほんの一瞬、わずかにくしゃっと顔を歪め、渋々、といった表情ですっかり冷え切ってしまったであろう紅茶に口つける。
「……すっかり、秋の風、でございますわね」
何か、他の話題を、と思っても、ここ最近はもっぱら空位のままの王太子の座のことで持ちきり。
年頃の女性が好むような流行の話を持ち出す雰囲気でもなく、あたりさわりのない話題転換を試みる。
「…えぇ、早いものですわね」
王女殿下が話題に乗ってくださってホッとしたのもつかの間、
「来年の春には、もう堂々と『お姉様』と呼ぶことは許されなくなるかもしれないのですね」
ポツリ、と落としたその言葉の裏には、あの方の廃嫡が決まってから、今までの遠巻きな視線は何だったのかと言わんばかりに私宛の縁談が舞い込んでいることを揶揄していた。
「…それは、私の一存ではなんとも…」
「別に、お姉様にイジワルしたくて言っているのではないの。
…ただ、寂しいだけ。お兄様もいらっしゃらなくなって、お姉様もお姉様でなくなるなんて…」
答えに窮した私を宥めるかのように、そう言葉を引き継ぐその横顔を見て、あぁ、いくら年に似合わぬ聡明な方だとは言え、この方はまだようやく15を過ぎたばかりの、デビュタントもまだの幼い少女なのだと気付かされた。
「王女殿下……」
「だから、お姉様。せめて、私がデビュタントを迎える来年の春までは、私のお姉様でいてくださいませね?」
にっこりと。
否は言わさないと、そう伝えてくるかのような笑顔で締めくくられて、罪悪感を盾にされてはこちらも頷くしかなかった。
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咲き誇るライラックの花。
一面の紫。
その花言葉は、何だったかしら。
『まるで、花嫁さんみたいだ』
小さな、幼き恋の始まり。
けれど、初恋は実らない。