第二章 1
~登場人物紹介~
小林 将宗
新城 楓
1
朝、目を覚ますと、まず最初に全身のけだるさに気がつかされる。昨日の疲れが全くといっていいほどとれていない。そして右の頬が特に病むように痛いのと、なぜが目の奥がズキズキする。鉛のように重たい身体を起こすと、なぜかベットではなく俺は座布団を枕にして床の上に寝ていたことに気が付く。どうりで疲れが取れないわけだ。
「・・・」
寝起き後のぼんやりとした頭で、昨日の起きたことを少しずつ思い返す。多分、俺の記憶が正しければ隣の住人である楓の下着を片手でつまんだまま目つぶしをくらい、最後に右頬にビンタを喰らって。そのあとはきっと気絶してしまったのだろう。まぁ自分自身寝不足というのもあってかそのまま寝てしまった、という感じらしい。その証拠に上半身は裸のまま、妙に寒いと感じるのはこのせいだったのか。
「・・・とりあえずシャワーだな。風呂はもう無理だ。水になってる」
外にはすでに太陽がのぼっているのを見ると結構な時間が経ってしまっているようなので、すでにお風呂はぬるくなってしまっているだろう。服はほぼ脱ぐ必要がないので、バスタオルを準備し、寝ぼけ頭をすっきりさせるべく、そのままお風呂場へと直行した。
十五分ほどでシャワーを終え、浴室から上がり、適当に朝のテレビニュースでも見ようかと思いながら脱衣所の扉を開けたところ、居間のソファーの上に女の子が三角座りをして身を丸めながらちょこんと待っていた。もちろんそれは昨日、隣に引っ越してきた楓だった。この時間に無断で部屋に入ってくるといったら楓くらいしかいないだろう。妹という可能性もなくはないが。突然姿を現した彼女に、俺はおもわず声をあげてしまう。
「うわっ、びっくりした。いるならいるって言えよ」
「おはようございます。あの、鍵が開いてたもんで。勝手に入らせてもらいました」
「昨日は鍵閉めてないもんな」
そりゃあそうだ、と言わんばかりに俺が呆れながら突っ込みを入れる。
「あの・・・、すいません。身体とか、いろいろと大丈夫でしたか?」
彼女は少し心配そうな顔でこちらをまじまじと見つめている。とりあえずバスタオル一枚の俺をそんなにじろじろ見るのはやめてほしいのだが。そう思いながら素早く身体についている水滴をとり、下着とシャツを身に着けて彼女の方に向かう。
「なんとか大丈夫だよ。ただちょっと目の奥がめっちゃ痛いのと、右の頬がなんか知らないけど腫れてるくらいかな」
「へぇー。そうなんですか。なんででしょうね」
「おい」
俺が被害者のようにそう言うと、彼女は少しとぼけてみせた。
「すみません。いや、本当に申し訳ない、って思ってますから。昨日、将宗さんのことを殴ったら倒れちゃって。それっきり目を覚まさないんですから。一応私なりにやばいかな、って思って将宗さんを引っ張って居間まで連れてきて、布団はかけたんですけど。死んじゃったらどうしようかなって思ってたところなんです。今日朝起きていなかったら救急車を呼ぼうと思ってましたから」
一応これでも、彼女なりに反省しているようだった。なんとなくしゅんとしているようにも見えなくもない。
「本当に生きててよかったです。あっ、ってか聞いてくださいよ。私、将宗さんが心配で全然寝られなかったんですよ」
「そりゃあ悪かったね。寝不足のところわざわざご足労いただきありがとうございます」
「普段なら8時間は寝てるところでしたが、今日は7時間半しか寝れませんでしたよ」
「・・・全然変わらないだろそれ。それともなんだ、俺のこと30分だけ心配してくれたって解釈でいいのか?」
「まぁ、さすがに女の子のビンタで死ぬほど軟弱じゃないですよね」
反省しているのか、していないのかよくわからない彼女に呆れながら、とりあえず今にあるテレビの電源をつけ、朝食となるパンをトースターのなかに投げ入れる。
「なぁ、昨日のことに関しては俺、一切悪くないよね?」
一応昨日のこと、脱衣所での件について彼女の意見も聞いてみることにした。正直なところ、俺はよく覚えていない、というかいろいろなことが同時に起こりすぎて混乱しているとでも言えばいいのだろうか。キッチンの向こうにいる彼女にそう尋ねてみる。
「そうですね。私が勝手に下着とブラを脱衣所に忘れて、勝手に将宗さんを殴ってですもんね。まぁ強いていうなら将宗さんは私の下着とブラに気が付いて手に取るってのはちょっとおかしいかなとは思いますけど」
「まぁ、下着を見つけちゃったのは申し訳ないと思うけど」
ブラにふくらみがなかった、という感想は昨日の経験からして良くない未来しか起こらないだろうとのことで、黙っておくことにした。
「あと、私の下半身見ましたよね?私すっぽんぽんでしたよね?」
「多分見たんだろうな。あんまり覚えてないけど」
まぁ見たか見ていないか、というのならば見た、ということになるのだろう。鮮明には覚えていないがズボンを履かずに慌ててこちらに来たんだなということだけは覚えているが、それ以上のことは思い出せない。
「じゃあお互い様ですね」
「えぇ・・・」
お互い様、ってことは5:5の割合で俺と楓が悪いってことなのだろうか。俺はその彼女の言葉に一瞬目が点になる。
「てか、そもそもなんで洗濯かごに下着入れっぱなしなんだよ?俺に洗濯でもさせるつもりだったのか?」
「そんなまさか、忘れてたんですよ。私、貧乏ですけど同じ下着は続けて身に着けたくない派の人で。それだけはどうしても譲れなかったんですよ」
「まぁどうしても譲れないなら、仕方がないか・・・って、ん?」
なんというか、いままでの話を聞いていると、俺はとてもくだらない理由でめつぶしを喰らい、ビンタをされたような気がしてきた。今でもあの彼女の強烈なビンタを思い出すだけで若干身震いがする。
「将宗さんなんだかすごい顔してますよ。まぁ、いろいろと冗談ですから。ほんとすいませんでした。私もだいぶてんぱっちゃって。他の人の家のお風呂にお邪魔するとは思いもしなかったものですから。いろいろとご迷惑をかえてしまって、本当にすみません。これ、つまらないものですが」
「なに、これ?」
そう言って彼女が白いビニール袋に入ったなにかをこちらに手渡してくれた。ちょっと触ってみるとパリッというやさしい音がした。
「海苔です。お詫び的なやつなんで」
「いや、詫び石みたいなノリで海苔渡されても。ノリだけに、ってやかましいわ」
「・・・詫び石?なんですかそれ?」
いや、いま突っ込んでほしいのはそっちじゃない、というかスマホ持ってないからソーシャルゲームとかそういうのには疎いのか、と心の中で突っ込みを入れながらそう分析した。まぁそれはさておき、この海苔は冗談か本当かはわからないにしろ、彼女の貴重な食料なのだろう。貰うのさえ若干気が引ける。
「どうかもらってください。私にはこれくらいしか渡せるものがないんで」
彼女はそう真剣な眼差しで訴えかけてきた。
「・・・いや、じゃあ貰っておきますよ、楓の気持ちってことで。今度おにぎりにでもして食べるときにとっておくから」
とりあえず彼女から貰った海苔をジッパーに入れて戸棚にしまっておく。すると、ちょうどいいタイミングでトースターに入れたパンが焼き上がったようで、焼き立ての香ばしいにおいと、チーンと甲高い音が部屋中に響き渡る。
「パンだけど食う?」
俺は焼き立てのトーストを皿に乗せて、テーブルまで運びながら楓にそう尋ねた。
「私、夜ご飯もいただけた上に朝ごはんもいただけちゃうんですか?!超感激です」
「食うのか?食わないのか?」
「食べます!食べさせてください!」
そう彼女が嬉しそうに言うので、とりあえず俺はそのトーストを彼女に渡し、自分は自分の分のトーストを冷蔵庫から取り出し、再びトースターへと投げ入れた。
「パンの本体をいただけるなんて、何年ぶりでしょう。ありがとうございます」
「パンくずこぼれるからこぼさないでくれよ。・・・パンの本体?」
なんかこう、なんでもないような普通なものでも喜んでくれる彼女を見ると、こっちまでちょっとだけ嬉しい気分になるのは、どんな心理がはたらいているのだろうか。とりあえずパンだけではあれなので、コップに牛乳を入れて彼女の横に置いておく。というかパンの本体という日本語は果たして正しい使い方なのだろうか。パンの耳、の対義語、という言葉は聞いたことがあるが、パンの本体という言葉は聞いたこともなく、若干笑いそうになる。
「いやぁ、ごはんがある毎日というのはとても幸せですね」
「まぁ、海苔よりかはお腹にたまるだろうよ」
彼女は嬉しそうに俺から貰ったトースターをもごもごと頬張りながら俺に尋ねてきた。
「そういえば昨日、将宗さんからもらった履歴書を書いて提出しないといけないんでした。これ食べたらさっそくやりたいと思います」
「・・・えっ、俺の部屋でやるの?」
俺がそう面食らっていると、ダメですか?と言わんばかりに彼女がこちらを見つめてきた。
「私の部屋、いま室温何度だと思います?5度ですよ?」
まぁ確かに、今時期の暖房が入らない部屋で作業、というのはさすがに可哀想か。俺の部屋は暖房がついておりそれなりの室温を保っているが、彼女の部屋はまだガスや灯油の開栓がされていないため、ストーブがつかないらしい。それにまだ引っ越しでごちゃごちゃしている部屋だというのは俺も一応知っている。
「そのほかにも今日はいっぱいやることあるんです。とりあえず水道とガスを使える状態にしたいですね。あとは履歴書を書いて、そのほかにも引っ越しの荷解きもやらなきゃです。まぁ大したものはないんですけど。あとは将宗さん、私、自分のパソコンでネット使いたいんですけど。その手のことに詳しいです?」
「ネットって、インターネットに繋ぐ、ってことか?まぁたぶんできるだろうけど。それより楓はパソコン持ってるのか?」
てっきりその手のものは持ち合わせていないものだと勝手に思い込んでいたが、どういうことなのだろう。パソコン自体、安いものではないはずだが。
「なんとそれが持ってるんですよ。今は亡きおじいちゃんに買ってもらったんです。私あんまり機械とか詳しくないんですけど、きっといいものだと思ってます」
そういうと軽く朝食にごちそうさま、と言って隣の部屋へ小動物のように走っていき、また小動物のように戻ってきた。わきにはその例のパソコンとやらを抱えている。
「これです!」
「・・・だいぶ年期の入ったのを持ってきたな」
まぁ予想はしていたが、それは数年前の主力機で、立派に一時代を築いたもの、という感じだった。今では見なくなった分厚い本体に、妙に縦に長いフォルム。ノートパソコンではあるが、もちろんコードとのセットでの使用を前提としているので、持ち運びには少し不便か。
「私、ほんと機械音痴なんで。これ昨日の夜起動してみたらネットつながらないんですよ。接続されていません、って」
「一応聞くけどさ。ルーターとか持ってないよね?」
「ルーター、ってなんですかね。でも、パソコンの類のもので家から持ってきたものはこれだけなんで、多分持ってないです」
「・・・ですよね」
それを聞き俺が軽く呆れていると、彼女は仕方ないじゃないですか、と言って怒りを露わにした。
「だって、向こうの家ではなんかいつのまにかできてたんですもん。仕方がないじゃないですか。誰かがやってくれてたんです」
「わかったから。とりあえずつなげてやるから履歴書でも書いて待ってなさい」
「はーい」
そう言うと彼女は素直に返事をし、ちょこんと床に腰を下ろし履歴書を書き始めた。俺も焼いたパンを口にしながら彼女のパソコンを膝の上に置き、電源ボタンを押す。すると懐かしい起動音とともに、ようこそ、と俺を出迎えてくれた。その後、パソコンの動作が安定してきてから環境設定を軽くいじり、俺の部屋の無線環境と接続をした。彼女のパソコンは動き自体は色々ともっさりしているものの、一通りの機能はしっかり備わっているようで、特に困ることはなさそうだ。
「ほれ、できたよ」
俺は食後のコーヒー(と言ってもインスタントだが)を飲みながら彼女に設定完了の報告をした。インターネットの画面が表示されるようになると、彼女は履歴書を書く手をとめ、ぐいっとこちらに身体を寄せてきた。
「意外と簡単でしたね。ありがとうございます。ちなみにこれは無料ですよね?」
大丈夫ですよね?といった感じで、彼女が恐る恐る俺に尋ねてくる。
「大丈夫だって。まぁ俺の部屋の電波だからおかしいっちゃおかしいけどね。費用はどっちにしろ大家さん負担だし」
「なにか問題があるんです?」
「いや、まったく問題ないわ」
多分、彼女は違いがよくわかってないだろうが、普通であればあんまりよろしいことではないのだろう。俺のルーターを使って彼女のパソコンを接続している、ということは厳密に言えばこれは俺の部屋の回線なので、俺以外の人は基本使えないはず。でもまぁ見知らぬ人が使っている、ってわけでもないし、なにより俺が秘密にしていればいいだけの話だ。それにこれを素人の彼女に説明するのも若干面倒なので、とりあえずはこれで良いということにしよう。
「そんで、履歴書はできたのか?」
俺はさきほどまでの話の流れを断つように、彼女にそう尋ねた。
「そんな早く書き上がるわけないじゃないですか。あと将宗さん。一つ問題があるんですよ」
「なに」
俺は書く前からあらかた想像はついていたが、きっと彼女は履歴書を書く途中で気が付くだろうとは思っていた。一応俺は知らないふりをしながら楓の相談を聞いてみた。
「履歴書の上に貼る証明写真がないんですよ」
「やっぱりな。なんとなく予想できたわ」
俺の予想通りの質問が来て、少しだけニヤリとする。なんというか、呆れからくるにやけ、とでも言えばいいのだろうか。
「顔写真って必要ですかね?要らなくないですか?」
「そこは絶対必要だろ、逆にそこなかったら、なんでないの?ってなるでしょ」
「えっ、じゃあ携帯で撮った写真とかじゃダメですかね」
「ダメに決まってるだろ」
彼女も若干半笑いになりながらそんな冗談を言っていたが、今の彼女にとって、証明写真を撮ることも金銭面的に死活問題に近い。彼女は何故か大して大変そうに思っていなさそうだが。
「確か大学入ってから学生証作る時にも必要になるから、一応撮っておけばいいよ。その、お金はかかるけどさ」
そう言って俺は若干語尾を濁しながら彼女にそう言った。
「将宗さん、私がいま所持金150円しかないって知ってますよね!?どーするんですか。困りましたね」
スーパーやショッピングモールなどにあるいわゆる照明写真機で撮るとなると150円では足りないのは明らかだ。そうなると、どうにかして差額分を調達するしかない。
「・・・わかったよ、とりあえず写真代は俺が出すから。それでいいだろ?」
俺が軽くそう言うと、彼女は眉をひそめた。
「ダメですよ。今までのこともありますし、さすがにそこはけじめをつけさせてください。将宗さんにも生活があるんですから、そんな無理はさせられません」
「そんなこと言ったって、どーするんだよ。面接までには撮らなきゃダメなんだろ?」
「まぁそうですけど。と言っても面接、実は明日なんで、今日までには書き上げたいんですけど」
「えぇ・・・」
寄生する宣言を受けたときはどうなることかと思ったが、彼女は彼女なりのけじめがあるらしく、俺にばかり金を出させるのはどうしても嫌らしい。最初、俺がある程度まとまったお金を貸して、バイトを始めたら返してくれればいいという提案もしたものの、彼女的にはそれも嫌らしく、提案は却下された。
「私だってそんな無計画にことを進めているわけじゃありません。一応アイデアはあります。と言っても将宗さんに手伝ってもらうことにはなるんですけどね。ここらへんに古本屋さんってありますか?」
「まぁすぐ近くってわけじゃないけど、歩ける距離にはあるよ」
「そうですか、なら大丈夫ですね」
そう言って彼女は今日一日の計画を説明してくれた。まずは開店と同時に古本屋さんへ本を持っていき、それを売って資産にする。その後証明写真を撮り、そのままそれを履歴書に張り付け、あとはこれから一人暮らしをするにあたって必要になるであろう日用雑貨を買いに行くというものだった。俺が買い物に駆り出される前提なのはまぁいいとして。
「で、本ってのは?」
「引っ越しのときに運んでくれた荷物がありますよね?それの中身のうちいくつかは本が入っているんです」
「でもいいのか、大切なものだったりするんじゃないの?」
そう俺が尋ねると、彼女はなんとも言えない複雑そうな表情だった。
「まぁ、できればとっておきたかったものもありますけど、なりふり構っていられませんから。それに、私の経験上、あの手の古本屋さんってのはたくさん持っていきすぎると査定額が落ちちゃうんで、今日はほどほどにしますよ。あっ、あと平日の午前中に持っていく、ってのも地味にポイントです」
「変な豆知識をありがとう。まぁ荷物持ちくらいなら手伝えるか」
雪が溶け自転車のかごに乗せることができれば話は早いのだが、今の時期はそれを持って歩くしか方法はなさそうだ。
「いやぁ、ほんと助かります。私、そこまでの道とかわかんないんでその案内お願いします。なんかデートみたいですね」
「デート、ねぇ」
俺の想像するデートとは少し違うみたいだが、とりあえず今日の予定は決まった。とりあえず彼女は着替えてくると言って自分の部屋へと戻っていったので、俺もぼちぼち着替えることにした。