序章1
~登場人物紹介~
小林 将宗
新城 楓
3月中旬、道路に降り積もっていた雪は少しずつ溶けはじめ、春の到来を予感させるこの季節。卒業と共に新たな生活がスタートする季節。別れもあれば新たな出会いもある。俺はそんな残り一年となった大学生活を悔いなく過ごしていかなければならないはず、なのだが。
「くそっ。だからなんで回復してくれないんだよ。ヒーラーは前線に出なくていいから回復に専念してくれよ。こんなことなら俺が回復やればよかった」
部屋で一人ゲームに向かって罵詈雑言を吐いたところで、画面に映し出されるのは「Failed」の文字だけ。朝の5時を過ぎ、外は少しだけ明るくなってきていた。最近は太陽が昇ってきた頃に寝て、暗くなってきたころにまた再開するという自堕落的な生活を送っている。大学生はなんでこんなにも春休みが長いのだろう。おかげさまでネトゲ漬けの毎日を送っている。
この俺、小林将宗は見てくれはただの引きこもりニートだが、一応大学の4年生。Fラン大学とはいえど、一応大学3年間は真面目に勉強して、単位も一つも落とさずここまできた。資格だって大学が取得を推薦しているものに関しては概ね受けて合格してきた。その甲斐あってかこの時期ですでに就職が決まっている数少ない学生の一人だ。教授のつてで推薦してもらった企業に試験を受けたらすんなり合格してしまった。縁故に近いかもしれないが、それでも一応は教授お墨付きの大企業だ。将来はきっと安泰に違いないと勝手に思っている。けど、こんな生活だからこその悩みだってある。
「はぁ、さすがにもう寝るか。っていうか俺はこんな無意味なネトゲに何時間費やしているんだ」
大学は3年間で卒業に必要な単位はほぼ取り終わってしまい、あとは週に1回のゼミナールと多少の授業に顔を出すだけだ。周りの同級生たちは就職活動に勤しんでいるが、俺にはそれもない。要するに大学4年生になって、やることがないのだ。アルバイトだって店長に入れてもらえる日は入れてくださいとは言っているものの、ほかの人との兼ね合いもあり多くても週に5日程度しかない。最近のやることといったら友達に勧められたネトゲを深夜までやることくらい。けど俺自身、ゲームがさほど得意でないこともあり、一時的にはハマるのだがそれも長続きはしなかった。
「はぁ、寝るか。それにしても暇すぎる」
締めきっていたカーテンを開けると、少しだけ明るくなった空から微かな光が差し込んできた。コンビニで買ってきた菓子パンをむさぼりながら、空き部屋になっている隣のなにもない一室を覗き込むように眺める。自分も来年になったらどこかに引っ越して、社会の一員になるのかということをぼんやり考えていた。来年からはきっと仕事、仕事、仕事の毎日だということを考えると、深夜にネトゲをするのも今のうちにしかできない貴重なことのように思えてくる。
「さて、とりあえず寝るか」
どうせ起きるころには夜になっているのをいつものことに思いながらひんやりと冷たい布団に身体を滑り込ませた。
同日、睡眠中の俺はスマホの不愉快な着信音で目が覚めた。けたたましい音とともに画面に表示されているのは「店長」の二文字。目をしかめながら部屋の時計を見ると午前9時過ぎに見えた。俺は嫌な顔をしながら仕方がなく受話器の緑色のボタンを押す。
「はい、もしもし」
「あっ、小林くん?今ちょっと大丈夫?」
「はい、大丈夫ですけど・・・」
俺がそう言うと、店長が早口でつらつらと話し始める。自分はそれを嫌な予感と共にその話をねぼけ頭で聞いていた。要約すると、午前中勤務の主婦さんのシフトで欠員が出たから、代わりに出勤してほしいという電話だった。まぁこれもよくあることなので特に驚くことはなく「わかりました」とだけ伝え、電話を切った。店長が俺を頼ってくれているともとれるし、いいように使われているともとれるが、どうせ寝てるだけで暇だったのでまぁいいか、と思いながらそのままバイトに向かった。
「いやー、助かったよ。ありがとね小林くん」
「いえ、どうせ暇なんでまたなんかあったら呼んでください。お先に失礼します」
そういってバイト先を後にしたのは午後の1時。ショッピングモール内の書店ということもあり平日の午前中でもそれなりの買い物客で賑わっていた。どうせならもう少し長くシフトを入れてくれた方がこっちとしても稼げるので嬉しいのだが。むしろ3時間ちょっと働くために歩いてくるという方が割に合わない気もするが、今回はヘルプだったので仕方がないと割り切って併設しているスーパーのお弁当とドーナツを買い帰ることにした。
大学1年の春から働き始めもう少しで3年目、自分もだいぶ古株になってきたが、いまだに新人気分は抜けきらないままだ。大学1年生の初春にショッピングモール全体で大規模なアルバイト募集があり、それに応募したところこれもすんなりと合格し、そこから自分は書店に配属という形になった。そのほかにもショッピングモール内には食品コーナーのレジ打ちや飲食店街の店員、アパレルショップの店員、ゲームセンターの係員さんや裏方の清掃業務のアルバイトなどがあったらしいが、自分はたまたま書店の店員として配属となった。同じ大学出身の先輩や後輩などもちらほらいて働きやすい職場ではあるが、厳しいところではやめてしまう人もいるらしいので、その点では俺は幸運な部類なのかもしれない。
さきほど買ったお弁当とドーナツを片手に少し雪の残る歩道を歩き家の前に着くと、見慣れない大きな車が一台マンションの前に停まっていた。黒塗りのワゴン車で少しいかつい恰好をしたそれは、歩道に積まれている雪をものともせず、道のど真ん中に堂々と置かれていた。
「なんだこれ?」
対向車通れるのか?と自分には関係ないことを考えながらその車を横目にマンションに入った。二階へ上がり、自分の部屋の鍵を開けようとしたところ、空き部屋だったはずの隣のドアがガチャっと開いた。
「どうも、こんにちは」
「あっ、どうも?」
そこから顔を出したのは同い年か少し年上くらいに見える女性、軍手を履き、上下に茶色の地味なジャージを身に着け、長めの髪を後ろで一本に縛っている。いかにも引っ越し作業中ですといった感じだ。
「隣に引っ越してきたものです。しばらくはもの運んだりでうるさいかもしれませんけど。よろしくお願いします」
「いいえ、全然大丈夫ですよ」
俺は物腰柔らかそうな女性と簡単な挨拶を交わし、自分はあっさり自分の部屋の中へと入ってしまった。
「・・・ちょっと時期は早い気がするけど。大学生か?」
そんなことを考えつつ部屋の鍵を閉める。なにか世間話でもした方がよかったか、などといろいろ思いながら部屋のパソコンの電源をつけ、お弁当を電子レンジへと放り込む。にしてもそれじゃああの外の黒塗りの車はあの女性の車なのだろうか。見た目は少し地味だけどやさしそうな人だったのに、あんな派手な車に乗るんだなぁと考えると少し変な気分になってくる。
その後、某動画サイトでゲームの実況動画を見ながらさきほど買ってきたお弁当をゆっくり食べ進めていた。
「へぇ、俺もこのゲーム買おっかな」
少し眠気もあったが、隣からはドガシャ、ドガシャと引っ越し作業中のようだったのでそのままネットサーフィンでもすることにした。
「・・・」
ドガシャ、ドガシャ
「・・・」
ドガシャ、ドガシャ
俺がバイトから帰宅して、かれこれ2時間が経過しようとしていたが、いまだに隣の引っ越し作業は終わらないようだった。時折ガシャ、ガッシャンとドアが開いたり、壁にモノがぶつかったりする音が聞こえてくる。何人でやってるのか知らないがどれだけの荷物を下ろせば気が済むのだろう。
「さすがに時間かかりすぎだろ。ってか少しうるさいし」
3階建てのワンルームマンションのその2階、鉄筋造りで夏も冬もそれなりに快適に過ごせている。特にここ数年文句はなかったが、別のところに住む同級生のあいだでは隣の部屋の人がうるさくて引っ越したとか、上の階のやつがうるさくて夜眠れないとかいう人たちもちらほらといた。その同級生たちはこんな気持ちだったのかといまになって少しだけ分かった気がした。
「・・・ちょっと話してみるか、いやでも」
やさしそうな女の人だったがあの黒塗りの車だけがどうしても引っかかる。もし怖い人だったらということを考えるとなかなか話しかける勇気が出なかった。俺はなるべく気にしないように動画を少し大きな音にしてパソコンを見続けた。
しかし、それからしばらくすると、今度は階段の方からドンガラガッシャン、と先ほどまでとは比べ物にならないほどの大きな物音がした。なにかが転がり落ちたような、そんな感じのやつ。
「・・・なんかやらかしたな」
さすがに少し気になったので、ドアの小さなのぞき窓からそとをのぞいてみると、そこに人の姿は無かった。ここからでは見えないようだったので、ゆっくりと部屋を出て吹き抜けになっている階段を見下ろすと、横に転がった洗濯機に女性が下敷きになっていた。
「・・・なにやってんだよ、ったく」
そう思い、急いでその洗濯機とその下敷きになっている女性のもとへと駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「・・・」
顔を覗き込むと、かろうじて生きていたようで少し涙目になりながらこちらを見てきた。
「大丈夫じゃないんで、とりあえず助けてもらってもいいですか?」
そういうので、とりあえず彼女の足を踏まないように、洗濯機を縦に戻して彼女を救出してやった。
「さっきのお隣さんですよね、ありがとうございます。重くて転がっちゃいました」
「そりゃ重いでしょ、洗濯機なんだから。とりあえず誰かと一緒に持っていかないと危ないですよ」
俺はそう彼女に言ったが、彼女は少しバツの悪そうに俺から目をそらした。
「いや、そうなんですけどね。実を言いますとわたし、一人なんですよ。一人でこれ運ばなきゃダメで」
「へぇ・・・」
へぇ、とは言ってみたものの俺はそのあとのうまい言葉が続かなかった。俺が引っ越しするときですら両親と妹に手伝ってもらって一日がかりで終えたというのに。俺がぼんやりとしているとその女性は言葉を続けた。
「このほかにも冷蔵庫と電子レンジと、あとベッドがパーツであるんですよ」
無茶だ。聞いているだけでこっちの頭が痛くなってくる。
「大変そうですね」
「そこでですよ。いきなり厚かましいお願いかもしれませんが、どうか手伝ってくれたら私とってもうれしいです」
「・・・手伝いますよ。さすがにこれを無視するほど悪い人じゃないんで自分」
「やった。あ、お給料とかは出ませんからね、私貧乏なんで」
「分かってますよ」
どこかつかみどころのない女性にそそのかされとりあえず二人で協力して洗濯機を部屋に運び入れた。部屋のまどりは自分の部屋とほぼ同じで、入った瞬間、どこか新鮮な雰囲気と香りがしたような気がする。水回りもほぼ同じ感じだったので、そこまで持っていき、ついでに水道の蛇口と洗濯機の給水ホースと排水ホースをつなげてあげた。
「いやぁ、ありがとうございます。やっぱり男の人がいると頼もしいですね」
「やっぱり、ってなんですか。あととりあえずこの格好で手伝うのもなんなんで着替えてきますね」
「いや、なんかありがとうございます。まだまだ重いのあるんで」
その後、手早く部屋着から普段着に着替え、外に出ると車の前で女性は待っていた。
「すいません、次はこれお願いしていいですか?」
「冷蔵庫ですね。これは重いですよ。ってか本当は冷蔵庫ってのは横にして積んじゃダメなんですよ」
「えっ、そうなんですか?」
自分が引っ越して買い帰る際に電気屋さんの人にそう言われたのを思い出した。できる限り立たせて運ぶように、と言われた気がする。
「まぁもう仕方がないですけどね。とりあえずコンセントを入れずにそのまましばらく立たせて置いておくしかないです。とりあえず運びますよ」
「あいあいさー」
階段の幅的には余裕があったので冷蔵庫は比較的余裕をもって運べたが、いかんせん重い。これは明日筋肉痛になりそうだ。自分の腰をいたわりながらなんとかこれも彼女の部屋まで持ち込むことができた。少し休憩とばかりに、なにもないフローリングに二人してしゃがみこんだ。ワックスがぬられた床で寝転がるのはとても心地いい。
「あの車の荷物たち、全部一人で運ぶつもりだったんですか?さすがにきついですね」
「まぁそうなんですけど。いざとなったらお父さんに頼むしかないかなー、なんて思ってました」
「お父さんいるんですか?じゃあ最初から頼めばいいんですよ」
そう俺が軽く言うと、また彼女はバツが悪そうに俺からちょっとだけ目を逸らした。
「いやー、それもそうなんですけどね。お父さんとお母さん、どっか行っちゃって」
「は?」
「この車も実はお父さんのなんですよ。でもお母さんの車でお昼ご飯食べに行くって言って。多分夕方には帰ってくるとは思うんですけど」
「娘一人に引っ越しやらせっぱなしってことですか?」
俺はどうしても気になって、きっと怪訝な顔をしながら彼女にそう尋ねた。
「まぁそんなところです。でも仕方がないんですよ、私はお父さんにとって本当の娘じゃないんで。今のお父さんはお母さんの再婚相手なんです。それにふたりのあいだにお子さんが生まれてからは私に構う暇もないみたいで。子供さんは一応私にとって義理の弟なんですけど、そっちはお父さんにとって本当の子供ですから。あっ、その子可愛いんですよ?ほっぺたプニプニしてて」
そこで俺は初めて少し踏み込んだ話をしすぎたな、と自分を悔いた。この部屋に積み上げられている段ボールも全部彼女一人で運び入れて、これから部屋を作っていかなければならないのだ。しかしそれを見ても彼女をどうねぎらってあげればいいのか咄嗟には出てこなかった。
「なんかすいません、いろいろ聞きすぎちゃったみたいで」
「いいのいいの。それにここまで引っ越しの荷物を持ってきてくれただけでもありがたいと思わないと、さ。よし、じゃあ次も手伝ってくださいよ!」
そういって彼女は勢いよく立ち上がった。
「ところでお兄さん、お名前お伺いしてもいいですか?」
彼女は突然かしこまった態度でそう聞いてきた。
「俺ですか?そうですね、心優しい隣人のお兄さんってことでいいですよ」
「そっかー、じゃあため口でいいです?」
「いや、別にいいですけど」
なんともつかみどころのない彼女に促されるままに、次にベッドのパーツを数回に分けて部屋に運び入れた。ベッドパーツ自体は小さくて重くもないため、さほど苦労はしなかった。ただマットレスは折り畳みもできなかったので、いろいろなかべにぶつかりながらやっとの思いで部屋に運び入れた。そして、パーツはパーツのままで、このままではベッドの原型はどこにもない。ここからさらに組み立て、マットレスを敷かなければ今日は寝れないということで、これの組み立てを最優先にすることにした。
「で、これどう組み立てるんです?」
そう俺が彼女に訪ねると、彼女は当然のごとく首を傾げた。
「さぁ。とりえあず見様見真似ですね。ねじとかはここにありますよ?」
そういっていろいろとごちゃまぜになっているビニール袋をこちらに見せつけてくる。
「まぁ、そうですよね。なんとなく分かってました」
「どうにかなりますよ。解体した手順と逆でやればいいんですから大丈夫です!」
よくわからないパーツ同士をくっつけ、六角レンチでそれを固定する。その出来上がったパーツ同士をさらにくっつけ。さらにねじ止めをする。彼女の指示通りにパーツ同士をくみ上げ、という作業をひたすらに繰り返した。
「できました!完成です!」
「・・・もうすっかり夜ですけどね」
解体した手順と逆をやればいい、とか言ってた割にはよく覚えていないらしく、ベッドの足がガッタガタだったり、ねじが穴に合わなかったりと散々だった。出来上がったはずのベッドも天板が少し傾いている気がするが、彼女はこれでいいと言っているので、これでいいらしい。そして窓の外を見ると既に太陽は沈みきっていた。彼女の部屋に掛け時計がまだないので自分のポケットからスマホを取り出すと、もう少しで午後の7時を回ったところだ。
「いやーありがとうございます。なんてお礼をすればいいのか」
「いや、別にいいんですけど」
俺が一つ、これらとは別件でとても大きな気がかりなのは、この時間になっても部屋の中は真っ暗で、今は脱衣所とキッチンの電気をつけてなんとか明るさを保っているという点だ。
「あの、部屋の電気ってどうするんです?」
「ねー。なんで部屋に電気ないんだろう?」
そう彼女は不思議そうにしているが、おそらく前の住人が電気を取り外して引っ越してしまったのだろう。天井には丸いプラスチックの器具がくっついているだけで照明らしいものは見当たらない。
「いや、多分なんですけどね。電気はLEDのものを自分で買わないといけないと思うんですよ?」
「えっ、そうなの?!」
まぁ驚くのも無理はない、普通、備わっているものだと勘違いする人も多いだろう。ただ最近は蛍光灯ではなくLED照明が普及しはじめ、自分で好きな照明を選べるというのが流行り、というかそういう傾向が多いらしい。
「えー、じゃあ買わないとなんだ。ホームセンターとかでいいのかな?」
「多分売ってると思いますけど、今から行くんですか?」
「無理かな?とりあえずお父さん来るまで待ってみて、連れて行ってもらえるか聞いてみるね」
「それがいいと思います」
「じゃあとりあえず残りの荷物全部運んじゃおっか、手伝ってくれる?」
「いいですよ別に。・・・なんですかその目は」
「いや、正直君、めんどくさいやつに絡まれたなーって思ってない?」
彼女は少し目を細めながら、不思議そうな顔でこちらを見つめている。
「別に思ってないですよ。どうせ暇なんで」
「そっか、ありがとうねほんと」
そう言って薄暗い彼女の部屋を出て、再び車のもとへ戻った。しかしすでにあの黒塗りの車の姿はく、車に積んであった数個の段ボール箱が雪の上にそのまま放置され、小さくまとめられていた。
「・・・お父さんとお母さん、帰っちゃったみたい」
「そう、みたいですね」
「・・・とりあえずここにあったら邪魔だろうし、部屋のなか入れちゃおっか」
「はい」
彼女は段ボールのほかに、落ちているラックパーツを一つ一つ拾い集め、俺は傍の雪山に突き刺さっていた赤茶色の絨毯を雪山から引き抜き、彼女の部屋に運んで行った。すべてのものを拾い集め、薄暗い彼女の部屋に運び入れたら、今日の疲れがどっと出てきたような気がした。
「いやーほんとにありがと、隣のやさしいお兄さん」
「なんかいろいろ大変でしたけど、とりあえず終わったようで何よりです」
そう言って彼女は額にかいた汗をぬぐってフローリングに座り込んだ。
「・・・なんか、ごめんね」
彼女は俺の目を見ないでそうつぶやいた。
「自分は大丈夫ですよ。その、お姉さんこそ」
「お姉さんこそ、って」
俺の謎の呼び方に彼女はふふっと笑って見せた。
「名前言ってなかったっけ?名前は新城楓って言います。大学1年生です」
「じゃあ年下か。そこの大学?」
「そうですね。隣のお兄さんもですか?」
「隣のお兄さんって。小林将宗な」
「マサムネ、ですか。なんか武将っぽいですね」
「多分、その字じゃないかな。よく間違われる」
そう言って少し乾いた笑いが漏れた。
「とりあえず、よろしくです、将宗さん。当方いろいろと複雑な事情があってちょっとびっくりさせちゃったかもしれませんけど」
「びっくりした、っていうかなんというかさ。こっちこそ」
そう言いながら俺が次の言葉を探していると、
「ぐ~ぅ」
という音が聞こえてきた。多分、彼女のおなかの方から。
「・・・もしかして、おなかすいた?」
「いいえ、すいてないです」
彼女がキリッとした表情でそう言い返すも、しばらくの静寂のあと、再び「ぐ~ぅ」というまぬけな音が彼女のおなかから聞こえてきた。
「おなかすいてるんでしょ?」
「いいや、すいてないです。というか慣れてるんで気にしないでください」
「いや、そうは言ってもさ」
彼女のおなかの主張は激しくなる一方で、ぐうぐうと彼女のおなかの音が等間隔で聞こえてくる。
「そういえば夜ご飯まだだよね?なんか食べる?」
「いや、朝食べたんで大丈夫です」
「いや、おひるごはんは食べてないんでしょ?おなかすいたならなんか食べよ?」
「大丈夫です」
「・・・本当に大丈夫?ちなみに朝はなに食べたの?」
「朝ですか?のりですね」
「のり・・・?のり?」
のりって、あの海苔?
「海苔以外には?」
「海苔だけですね」
「・・・えっ、海苔、だけ?」
海苔をおかずにとかではなく、海苔を朝ごはんとして食べたらしい。少なくとも自分は海苔をメインに食事をしたことは今までに一度もない。
「わかった、なんか食べに行こう。近くにファミレスあるから」
「いや、でも・・・」
そう言って彼女の言葉がしゅんと、しりすぼみになる。
「わたし、その、実はお金持ってないんです。お母さんかもらったお金で電気買わないといけないし、そのほかにも教科書とかいろいろ。だからごはんとか食べてる余裕ないんですよ」
「今日ぐらい俺がおごってあげるから。とりあえずおなかの音がうるさいから今すぐ食べにいこう」
彼女のおなかは鳴りやむことなく主張を繰り返している。朝から海苔しか食べてないんだから、ここでぶっ倒れてもおかしくはない。おなかがなにか食べ物をくださいと主張しているように聞こえなくもなかった。
「えっ、でも・・・」
「いいから、いいから」
そう言って俺は彼女の手を握り、マンションをあとにした。