ひびわれ。
玄関のチャイムに呼ばれて、風呂上りでまだ髪の濡れている僕が、よれよれのトレーナー姿で玄関のドアを開けると、そこには詩奈がいた。
「なに、こんな夜中に。もう寝ようと思ってたんだけど」
「寝るって、まだ8時じゃん、サっ君は小学生みたいだな」
「うっせ、バカにしにきたんなら閉めっぞ」
「うそうそごめんてばー!」
「じゃ、なに?」
「ちょっとさ、試しになんだけど」
いつになく、歯切れが悪い。
「明日ね、詩奈たち調理実習なわけよ。でさ、クッキー、焼くんだけど」
詩奈が右手で持っていたそれは、女の子が好きそうな、ハートがいっぱいプリントされた小袋。
「クッキーじゃん。実習明日なんじゃねーの?」
「そ、だから、試しなんだって。授業でヘンなの作ったら恥ずかしいじゃん。
だから、練習で作ってみました~」
「あれー、先輩って、家庭科そんなに熱心だっけ? 作れる料理は、カップ麺かゆで卵くらい……」
詩奈の左拳が、僕のみぞおちにクリーンヒット。
「ほっ、げほっ、にすんだよ、いきなり!」
「……ぃなの、詩奈の初めてなんだからさ!」
詩奈は乱暴に、右手に持ったクッキーの袋を、僕に押し付けた。
「か、感想、教えてよね!」
それだけ言うと、自分の家に帰っていった。
詩奈の家は、うちの隣なんだけど。
玄関先でぼうっと突っ立っていた僕は、おもむろに手に持った小袋を開け、中のクッキーを一つつまんで口に入れた。
「うわっ、粉っぽい……」
口の中が、生の小麦粉の味で満たされる、お約束通りのハジメテクッキーだった。
次の日の昼休み。
僕は次の授業で使う社会科の資料を、先生に持ってくるように言われた。
こんな時は、日直だった不運を恨む。
地図やら小道具やらで、軽いながらも段ボール一箱に山盛り入っていて、抱えて歩くのが精一杯だった。
3年の教室の前を通る。
こっちの方が、資料室と僕の教室が近いからだ。
「なぁ、いいじゃんよ」
「ちょっ、ダメだよ、やめてよ」
廊下で何やらバタバタしているような声が聞こえるが、資料があるからよく見えない。
なるべく邪魔にならないように、廊下の端を歩く。
「別に、誰かにやるって訳じゃないんだろ?
だったらオレが貰ってやるって言ってんだからさ」
「うっさいなぁ、詩奈が自分で食うんだよ! ほっとけよ!」
え、詩奈?
気が逸れたせいで、資料でふらついていた僕は、廊下で騒いでいた3年生とぶつかってしまう。
「ってぇー。んだこの2年! 急になにしやがんだよ!」
「うわっ、すいません、先輩! すいません」
散らばった資料をかき集めながら、ぶつかった3年の男子に謝る。
「あ、サっ君。詩奈も手伝うよ」
そこにいた詩奈が、資料を一緒に集めてくれる。
「ちっ、つまんねぇの!」
3年の男子は、床に落ちていたピンクの袋を蹴とばした。
「あっ!」
袋は壁に当たって、中のクッキーが床に散らばる。
詩奈がぼうぜんと立ち尽くすのを見て、頭に血が上る。
周りで、他の女子が騒いでいたが、僕の耳には入ってこなかった。
両手を握りしめて、相手に向かって一歩踏み出す。
「いいよ。サっ君。いいから……」
うつむいている詩奈の手が、僕の手を優しく包む。
振るえる詩奈の声だけが、怒りで塞がれた僕の耳に届いた。
握ったこぶしが、ゆっくりとほどけていく。
「もう、いいから……」
昼休みも終わりにさしかかる頃、僕と詩奈は、中庭のベンチに座っていた。
床に落ちたクッキーを詩奈が中庭へまくと、一斉に鳩がやってきてついばみ始める。
「いいのかよ、あんなことされてさ」
「うーん、今日のも失敗しちゃったから、丁度良かったかも」
「いいわけねーじゃん。先輩、一生懸命作ったんだろ」
「……」
「頑張ったんだろ。それを、あいつ」
「……うん。ありがと」
「大丈夫だよ、ほら、まだ袋の中のがあるし」
僕はピンクの袋をひったくって、中に入っていたクッキーを食べた。
「お、失敗じゃないじゃん」
「ほ、ほんと?」
「うん、昨日の粉っぽいのに比べたら、ちゃんとクッキーになってる」
「……バカ」
よかった。詩奈に、少し笑顔が戻った。
「あ、まだ残ってた!」
気を取り直したのか、詩奈が袋の中を覗き込んで、嬉しそうにはしゃぐ。
「ほら……」
詩奈のちいさな手のひらに乗っているクッキー。
「桃? 尻?」
「ハートだよ! 一個だけ焼いたんだけどさ。
あーあ。見てよ、真ん中におっきなひび」
ハートか。正直わかんなかった。
「どれどれ……あ」
「あー!」
僕がつまむと、ハートの形のクッキーが、真っ二つに割れた。
「ひっどー! まだつながってたのにー」
「な、も、もうひび割れてただろ。しょうがねーじゃん!」
なんだよ、僕が悪いことをしたみたいじゃないか。
「もう、いいよ! また次、きれいなの焼いてくるからさ、そしたらあげる! だからそれ返して!」
「え、いいよ、食っちゃえば同じだろ」
「だめだよ、同じだけど、違うんだって」
「なんでよ、一緒じゃん」
「だって……。ハートじゃないと……」
また詩奈の瞳がキラッとした気がして、あわてて目を背ける。
気付かないふりをして、割れたハートのクッキーを、まじまじと見つめる。
「うーん、いいんだよこれで」
「な、ひっど。いいわけな」
少し涙声の詩奈が口を開けたところで、半分になったクッキーを押し込んでやった。
「な。これなら二人で、ひとつだろ」
僕は、急いでもう半分を自分の口に放り込んだ。