かぜひき。
風邪を引いた詩奈のお話を。
「なあ智詞、詩奈先輩が風邪で休んでるから、プリント持ってって欲しいってさ」
クラスメイトの鷹橋が、詩奈のクラスからプリントを預かったらしい。
詩奈は三年で、僕と鷹橋は二年なのに、こういう使い走りみたいなことを頼まれるのは、僕と詩奈の家がお隣さんだからだ。
「そういやあ今朝は先輩と会ってなかったな。そっか、風邪で休んでたんだ」
「なんだ智詞、気になんのか?」
「ちげーし。めんどくせーって思っただけだよ」
「またまた、お兄さんには隠しても無駄ですぞ」
「なにがお兄さんだ。僕より誕生日後のくせに。いーからとっととよこせよ」
僕は鷹橋からプリントをひったくると、そのまま昇降口に向かった。
詩奈の家の玄関前に到着した。
「どうせ帰り道だしな」
ぴんぽーん。
昔聞き慣れた軽い電子音の呼び鈴が鳴る。
「最近はあまり家に行くっていうこともなか……」
「はあい」
独り言をつぶやいていたら急に玄関が開いた。
「あ、サっ君」
ピンク色のパジャマに軽くカーディガンを羽織った姿で、乱暴に髪を束ねた詩奈が立っていた。
「あ、ごめん、こんな格好で」
「バカ、気にすんなよ。風邪なんだろ、寝てろよ」
まあ、呼び出したのは僕なんだけど。
「ほれ、これ」
無造作にカバンの中からプリントを渡す。
いちいち見せはしないけど、クリアファイルに挟んでいたから受け取ったときと同じ皺の無い状態だった。
「お、わるいね。そのためにわざわざ?」
「いーだろ、うっせーな。隣だから仕方なくだよ、し、か、た、な、く」
詩奈は玄関のドアを片手で開けたまま、もう一方の手でプリントを受け取る。
「じゃあさ、お礼にちょっとお茶でも飲んでいってよ」
「なんだ、もう風邪いーのかよ」
「ま、そうだね。うん。大丈夫。
あ、なに、心配だった?」
えへへと笑う詩奈。
「ば、バカ言ってんなよ。鷹橋からプリント預かるまで先輩が休んでるなんて知らなかったし」
「ふぅん、そっか。ま、立ち話もなんだしさ、入ってよね」
なんとなく、言われるがままに僕は詩奈の家に入った。
久しぶりの他人の家の匂い。
こんな匂いだったかな。家によって部屋によって、匂いって違うんだな。
「じゃあ、リビングでテレビでも観ててよ。お茶淹れるからさ」
「いーえ、どーぞおかまいなく」
テレビの電源を入れると、平日夕方にやっているアニメの再放送が映し出された。
「それにしても、先輩が風邪なんてな。これもあれか、鬼の乱獲ってやつだろ」
「はっはっは、鬼は絶滅危惧種だからな、じゃなくて、サっ君それを言うなら鬼の霍乱だろ」
キッチンから返事が来る。
「そう言ったろ。カクランだよカクラン」
「あーはいはい」
たまたまテレビの再放送で、鬼の宇宙人が地球のナンパな男とドタバタするラブコメだったから、そんなことわざを思いついたのかもしれない。
そんなことを自分の中で考えていた時、キッチンから陶器の割れるような音が聞こえた。
「なっ、どうしたんだよ、先輩!」
「だ、大丈夫……」
「大丈夫には見えねーだろ!」
キッチンにはうずくまって横になる詩奈と、割れたティーカップに倒れたポット。
ポットの口からはお湯がこぼれ出て熱い湯気が出ている。
「おい先輩、熱湯はかかってないだろうな、怪我はないか!」
不幸中の幸いか、ポットのお湯も少しこぼれていたくらいで、詩奈にはかかっていないようだった。
ただ、割れたカップの破片を手にしたのか、新しい切り傷から少し血がにじんでいた。
「バカっ、指切ってんじゃねーか! おい、立てっか先輩。手ぇ洗えねえか」
熱のありそうな上気した顔で倒れ込んでいるから、仕方なしに詩奈をキッチンの脇に座らせる。
ポットはとりあえず起こしてこれ以上熱湯がこぼれないようにした。
戸棚にある救急箱を持ってきて、消毒薬を詩奈の傷口に吹きかける。
「んっ……。救急箱、よく判ったね……」
「昔、さんざ世話になったからな。
今はんなことどーでもいーだろ。他に痛いところはねーか?」
どうせ大丈夫だって言うに決まってる。
「大丈夫だよ、ごめんねサっ君……」
ほらな。
詩奈には悪いけど、お湯がかかってないか他に傷がないか、羽織っていたカーディガンを脱がせて様子を見る。
どうやら熱湯がかかった様子はない。
でも、汗でパジャマがぐっしょりしている。
「なあ先輩、ここは僕がやっとくから部屋に行って寝てろよ」
「ん……」
「おい、聴ーてんのかよ、先輩」
くそっ、返事もろくに返ってこない。
お姫様抱っこなんて、中二の僕にはハードルが高すぎる。
僕は詩奈を小脇に抱えるようにして、二階の詩奈の部屋へ連れて行くために階段を上る。
「肩を貸すから、なんとか自力で歩いてくれよ」
「……ん」
苦しそうな呼吸に乗って、返事が来る。
密着した柔らかい身体から、熱が伝わってくる。
なんだ、すごい熱があるじゃないか。なに隠してんだ。なに気取ってんだ。
詩奈の部屋にどうにかたどり着くと、すぐにベッドへ寝かしつける。
数年ぶりに入った詩奈の部屋。
だけど今はそれどころじゃない。
タンスの中から勝手に替えのパジャマを取り出して、横になっている詩奈の枕元に置く。
下着は、まあちょっと勘弁してくれ。
「向こう向いているから、パジャマだけでも着替えちゃえよ」
「……ん。ごめんね、サっ君……」
絆創膏の貼られた指でぎこちなくパジャマを着替えているだろう詩奈が、僕に伝えた。
「バーカ。今言うセリフは、それじゃねーだろ」
「うん……。ありがと」
「お、おう」
「うん」
「でよ、おじさんとおばさんはどうしたよ」
「今日はね、用事があって遅いんだって」
「そ、そっか。んじゃよ、ケータイ近くに置いとくからさ、なんかあったら呼べよな。そしたらすぐ来っからよ」
「ははっ、今日はやけに頼もしいじゃん」
「言ってろ。弱ってんだからそん時くらいお隣さんを頼れよ」
「うん……。そだね。お隣さんだもんね。ごめんね、迷惑かけて」
「だから、謝んなって。だいたい、嫌だったらこんな面倒しねーし」
「そだね、面倒だよね」
「ったりめーだろ。とっとと風邪なんか治して元気になれってんだよ。ちょーし狂うからよ」
「わかった。そうするよ」
少しの沈黙。
「いいよサっ君。着替えたから」
「そっか」
詩奈は僕がタンスから持ってきた新しい水色のパジャマに着替えていた。
「じゃあこれ、洗濯機ん中入れてくっからよ」
「ふふっ、サっ君主夫みたいだね」
「うっせ」
僕は薄手なのに汗で重たくなった詩奈のパジャマを持って一階に降りていく。
洗濯機にそれを入れると、キッチンに行ってティーカップの後片付けをする。
「あ、まだあったんんだ」
片付けていたところで目に入った戸棚の中に、僕が昔詩奈の家で使っていたお茶碗があった。
小学生くらいだったろうか。あの頃はしょっちゅうこの家に来て、ご飯を食べたりしていたな。
「ははっ、まだ僕の箸もあるんだ……」
家族同然に過ごしていた頃。確かにあったと思う。
なんでだろう。今は家族と一緒の感覚とはちょっと違う感じがする。
今は同じ食卓を囲むことはない。
「そうなってから結構経つな……」
ピリリリリ。
僕の携帯の着信音が鳴る。
詩奈だ。
「しゃーねーな」
とりあえずさっきの救急箱から体温計と額に貼る冷却シート、それ冷蔵庫からカスタードプリンがあったからスプーンとそれを持っていく。
「おう、なんだよ」
部屋に入ると、少し落ち着いた感じだろうか。詩奈がベッドの上で横になりながらもこっちを見ていた。
「ねえサっ君、プリン食べたい」
はぁ。
僕のため息が漏れる。
「だろーと思ったよ。ほら」
プリンの蓋をめくって、スプーンですくう。
詩奈が口を開けるのに合わせて、プリンを食べさせる。
「ん。ありがと。おいし」
「そっか。よかったな」
「でもさ、サっ君電話出なかったじゃん。なんで詩奈がプリン食べたいって解ったの?」
「んなのしらねーよ。なんとなくな、冷蔵庫にあったから」
風邪をひいた時のプリンが身体にいいって昔詩奈が力説していたことを思い出したのは、別に言う必要もないだろ。
「なあサっ君。指……」
そう詩奈が言うと、スプーンを持っていた指を口にくわえた。
「なっ、なにして!」
「だってサっ君後片付けしてくれたんでしょ」
「え?」
見ると、右手の人差し指に小さい切り傷があった。
割れたティーカップを片付けていたときだったか。
そうか、確かにその時に痛みはあった気がした。
でも、それどころじゃなくて気にも留めていなかったけど。
「その時だと思うよ、きっと」
そう言って、詩奈は絆創膏の貼られた指で僕の指に絆創膏を貼って笑った。
「詩奈とおんなじところ、怪我してる」
これを書いた前日、風邪でえらい目に遭いました(^▽^;)
今はちょっと持ち直したので、多分大丈夫です(≧▽≦)
風邪は万病のもと。みなさんも十分お気を付けくださいね。