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憂に咲く狂花

作者: 樫居 青

永劫によく似た眠りの隙間に、柔く乱反射する光を見た。遠く啼く鳥の声に季節を識る。春、花鳥風月。君は隣にいない。当然のように受け止めて欠伸をして、ふわり、真白のカーテンが風を孕んで凪いだ。例えば、暖かさに怯える私は冬を望んで、いっそ凍えてしまいたいと願う。まるで無いもの強請りだ。或いはいま、ここにはいない君の事も、忘れた頃に恋しく、乞うのだろうか。引き留めることも出来なかった、しなかった、否。遠ざかるのは、君の意思だ。君の意思に、私はなれない。傍らの花瓶に活けられた花は、からからになって、今なおそこに立ち尽くしていた。その赤かった花も、確か君が活けたものだった。その日のような気品も、慎ましやかな誇りも、今はもうあったものでは無い。名前は思い出せないその花の遺骸をぼんやりと見詰めながら、花を換えなければ、と。そう思った。

触れればかしゃり、と音を立てて崩れそうなその花と、過去に記憶を馳せる。ほんの数時間前の、或いは何日前の、否、私の知らない長い永い時間の――その記憶の鮮やかだった、鮮やかだったはずの色合いも、その温かさも、確か、甘酸っぱかったと記憶しているその味も、どうしてか思い出せなかった。唯、褪せたような君が、それでも照れくさそうに微笑っている。寸分の狂いもない、呆れるほどにいつも通りの笑顔だ。温度のない声で交わした言葉を、それは今でも覚えている。砂糖だけを入れたコーヒーをくるりと掻き混ぜながら、君は確か皮肉を言った。微かに立ち上る湯気は、当然のように苦くて香ばしい。私は甘い甘いココアを喉に流し込んで、色の似た、けれど到底似つかないマグカップの中身を見詰めて、ああ、まるで私たちみたいだ。そんな見当はずれなことを、音にはしないままで思った。私と君はどうやっても同じになれないのだから、互いの気持ちなんて、正しく理解するなんて、そんなことはどうしたってできやしない。それはどうにも当然の事なのに、私はその事実に酷く焦燥を覚えた。――そうしなければ、繋ぎとめて置くことなんて出来ない、と。柔く光に満ちた小さな部屋の中で、私の心傷だけが、不似合いに寒々しかったのを覚えている。唯、それだけのこと。


何て事はない。何て事は、ないんだ。


伽藍に閉じたそれは飲み込んで、感けたようにもう一度欠伸をした。淋しいとは、思わなかった。総てを解っていたって、体温は分け合えない。例えばその掌と掌で繋ぎとめて、どんな言葉を交わしても、ねえ、奥底に隠して、自分自身でさえ見失うその最奥の想いに、君は気がつかないでしょう。問いは響くことなく静かに虚空に盪く。反響さえ、あったものじゃない。決して口数が多くはなかった君の、その存在を見失っただけの世界は、さも当たり前のような顔をして静寂が居座る世界だ。手持ち無沙汰になってしまったその手で、悪戯に花の残骸に触れた。想像に違わず乾いた音を立てて、その鮮紅だった花弁は崩れた。なんて呆気ない。目を見張る程に儚い。もっと、大事にしておけば良かった。花のことも、それから、――君の、ことも。今更のような詭弁に、いっそ吐き気がする。不意に視界が霞んで、刹那、ぼろぼろと零れ落ちたその水は塩辛かった。ぼたぼた、ぼたぼた、その意味も、堰き止める術も解らないままに、唯呆然としていた。どうして。教えてくれる君は、隣にいない。理由になる言葉は、その定義になる言葉は、何処を探したって私には見つけられない。


『例えば、悲しむことがなかったら、僕らはもっと上手に生きられたのかな』


鋭く光を弾く銀色が、左手に線を引いた。『痛み分け』いつか君が思い出したように云った、そんな歪んだ繋がりが、君を鮮明に思い出させるのだろうか、そんなことを、息と一緒に吐き出した。2人分の痛みは、思っていたよりもずっと易しい、そんなものだと識る。――そういえばこの銀も、君がくれたものだった。


とくとくと線を描いて、音もなく流れて落ちるその液は、あの花の残骸によく似た色をしている。ああ、そうだ、君がいつか活けたあの赤い花の名前は、『アネモネ』。



部誌7月号「憂に咲く狂花」へ加筆・修正をしたもの。

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