命の契約
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それではどうぞ。
※2月21日に修正加筆を完了しました。内容は変わりませんが、それ以前の評価とは異なる描写があります。ご了承下さい。
「黒沢さーん、リハビリの時間ですよぉ」
看護師が私の名前を呼ぶ声が聞こえた。あの女は語尾を伸ばすのが癖だから、顔を見なくても分かった。
ベットに寝ていた私はそっと目をあける。天井には何かをこぼしたような黄色いしみが広がっていて、さびれた印象を受けた。
右の方に視線だけを移すと、看護師が私の表情を覗きこんでいた。何が面白いのか常に笑顔のその女が、私は嫌いだった。顔を見るだけで苛々する。
いつも通り、その女の笑顔から顔を背け無言の抵抗をする。
小さく溜め息をつくと看護師はいつもと同じように、早々に引き上げていった。
食事もまともに摂らない患者だ、リハビリも拒否したって何も変わらないだろう。
私の世界に誰もいなくなって安堵する。窓のフィルターから見える外の景色は、雲一つない空が広がっていた。でも入院生活なんて、退屈以外のなにものでもない。
気もそぞろに、ゆっくりと身体を起こした。最近まで集中治療室に入っていた我が身は、活動することを拒否しているように重い。もっとも、身体のせいだけではないことは分かっていた。
右手の内側に刺さっている私を生かせているものを強引に剥がし、ベットの脇に車椅子を引き寄せる。そして上半身の力だけで体を引きずり、腰を下ろした。この動作にも慣れつつある。
外はそれなりに寒いだろう。ベットの脇に畳んであったピンク色のカーディガンを羽織り、肩までの髪を背中へ流した。さあ出掛けよう、彼のところへ。
同室の患者さんの間をぬって病室を脱走する。病室を出ると右の方にはナースステーションがあり、左には同じ科の病室が続いている。
私は中庭へ出るために左折し、エレベーターへと乗り込んだ。
太陽があと少しでてっぺんまで昇りきる頃。中庭では数人の患者さんが散歩をしている姿を見つけることが出来た。みんな嬉しそうな笑顔を浮かべている。でも仲間に入りたいとは思わない。
外から見えた白い建物は、近代的な外観で私を落ち着かない気持ちにさせる。心の水面が乱れそうで、わたしはタイヤを回す手にさらに力をこめた。
風が当たらないいつもの場所、イチョウの木々の下まで移動して車椅子を止めた。ストッパーも同時におろす。
ここは青葉総合病院。地元の人間なら、誰もが死ぬ時はお世話になるであろう場所。
空はどこまでも遠いように感じる。こんなにも世界は変わらないのに、どうして彼だけがいないんだろう。そう思った時だった。
普段は何もないイチョウの木の一つに、子犬が繋がれているのに気付いた。
私は犬好きではないので種類はよく分からないが、薄茶色だから雑種か柴犬だろう。元気よく揺れるしっぽが、私の気まぐれを誘っていた。
近くまで移動し、馴れ馴れしい生き物と向かい合う。別にお前なんか好きじゃないぞ、と目で会話を試みたが、無駄だったようだ。くりくりした瞳までが私の手を勝手に引き寄せていく。
「お姉さん、犬好きなの?」
突然声をかけられ右手をひっこめた。
声のした方を見ると、小学生くらいの女の子が立っていた。髪型は耳の下あたりで揃えたショートカット。グレーのパーカーに、何故か所々破れたズボンを身につけている。
私には似合わない髪型のその少女は、両手を後ろで組んで秋の冷たい風から身を守っていた。
「お姉さん、歩けないの?」
車椅子に乗っているだけで、そう考えるのが子供らしい。私の身を案じるかのように、少女は小さく首を傾げた。その仕草がどこか可愛くて、不謹慎にも笑みがこぼれた。
「ううん、歩けないわけじゃないよ。事故でね、左の足の骨が折れちゃっただけ」
「痛かった?」
ますます心配そうな顔つきになってしまった、失敗だ。それにしても、子供というのは遠慮がない。私もまだまだ子供だけれど。
「痛くなかったよ。それよりこの子、あなたの犬なの?」
私の話から遠ざけるために聞いた。ただそれだけ。
「うん、そうだよ! 梅ってゆーの」
「う、梅!? しぶい名前だね」
犬の名前はどうでもよかったのに、笑ってしまった。それ以上聞いていないのに、女の子は嬉しそうに話し出す。
「ホントはね、ランって名前なんだよ。でもね、おじいちゃんが梅って呼んだら、ランって呼んでも聞かなくなっちゃってね。それで梅になったの」
早口なうえ、まくしたてるような勢いに圧倒されて、口をはさむ暇もない。でも嬉しかった。私のことを何も知らない人が、ここにいること。
いつしか中庭には、私達二人と一匹だけになっていた。女の子は左手首にしていたらしい腕時計を見て言った。
「あ! もう行かなきゃ。お姉さん、明日もここにいる?」
私はずっと女の子の話を黙って聞いていただけなのに、早く過ぎ去った時間に驚いた。今さらながら肌寒さを覚える。
彼女は私を気に入ってくれたようで、明日もここで会う約束をしてその日は別れた。
最後に、思い出したように名前を聞かれた。
「みなみちゃん、かわいい名前だね! 北とか南のみなみちゃんなの? また明日ね!」
小さな嘘を私はついた。もう痛みはないはずの左足が、その夜はひどく痛んだ。
数日たって、彼女と梅と中庭で話をするのが日課になった。
彼女の名前は片山ゆかちゃん(漢字までは聞かなかった)といって、いろいろなことを話してくれた。
私と同じように事故で怪我をした、友達のお見舞いに病院に来ていること。梅は散歩がてらに連れてきていること。学校の給食を全部食べられないことなど、最近の悩みまで語ってくれた。
特に面白かったのは、友達の寝言の話。林間学校か何かで、一緒になった友達がうなっていて、彼女が近づくと
「ど、ドアノブっ!? 」
と一言叫び力つきたそうだ。一体どんな夢を見たら、ドアノブが必要なのだろう。
私の中で、何かが変わっていく音が聞こえる。
ある日点滴を付けかえに来た看護師が、こんなことを言った。
「美波ちゃん、最近ちゃんとご飯食べるようになったわね」
本当は食欲ないし満腹感でいっぱいだった。でもゆかちゃんと話をするようになって以来、無理にでも食べるようにしていた。一緒にいる時お腹が鳴って、すごく心配されたから。
悲しい思いをするのは私だけでよかった。
それからさらに数日たったある日、夢をみた。
焼場と思われる建物の中。親戚や仲の良かった友人が彼を囲むようにして集まっていた。私はその中心にいた。
彼は綺麗な顔のまま、棺の中で眠るようにして横たわっている。
気付けば彼の姿は消えていて、代わりに部屋の中央に銀色のトレーのようなものがあった。そこにあるのは、病気一つしていない、彼の頭蓋骨。若さからか原形を留めていた。
そして私達は箸渡しをした。彼を壺に納めるために。
私達の作業が一通り終わると、一人の男がスコップのような物で、彼の骨をかき集め壺に入れていった。こんなことをするのは葬儀屋だろう。男は事務的に仕事をこなし、最後に彼の頭が壺に納まった。
その後渇いた音がした。それは骨と骨が合わさる音。そして、
鈍い衝撃。
葬儀屋は彼の頭に箸を突き刺していた。彼の頭が原形を留めていて、骨壺に入らないから。
葬儀屋の行為を止めることもできずに、私は目覚めてしまった。起きても気分は悪かった。
私は彼が死んだということしか知らない。手術の後に母から聞き出した事実。折れた肋骨が肺に刺さって死んだということだけだ。
実際の葬儀も出ていない。ずっと、ここにいたのだから。
そんな日に限って、ゆかちゃんが約束の時間になかなか来なかった。
木の下に溜まったイチョウの葉を眺めながら、私は彼女が来るのを待った。待つのは嫌いだ。嫌な予感がして、無意識に両手を強く握っていた。
落ちつかなくて、庭を三周した頃。彼女は暗い顔をして私のところにやって来た。顔色まで悪いように見えるのは、気のせいだと思いたかった。
「ゆかちゃん、どうしたの?」
女の子はすぐには答えない。うつむいたまま、抱えた梅を私に差し出した。
「え、梅……?」
反射的に受け取ってから、もらって、と小さな声が聞こえて私はうろたえた。
撫でることすらしない私に、梅は少しも抵抗しないで大人しくしていた。
「ど、どうして……?」
彼女が病院に通う理由。それは友達のお見舞い。その子が退院したのなら、もう来れないと言えば済む。でもそうじゃない。
「遠くに、行くの」
最後の一滴までしぼりだすような一言。私にはそれだけで充分だった。諦める癖がついていたのかもしれない。
彼と同じ、ゆかちゃんとも二度と会えないということ。ただそれだけだ。
そこでようやく気付く。この足で犬の散歩はできない。
「名前、南ちゃんが新しくつけてあげて。タツヤ、って」
手からするりと力が抜け、抱いていたものを取り落とした。落ちていく瞬間はゆっくりだったのに、子犬はすばやく私の膝で跳ね、地面に着地した。
誰かから聞いたのだろう、ここの看護士は話好きだし。私はまた思い出す。左足の自由だけでなく、愛する人を失ったことを。
私はもう顔をあげることが出来ずに、ただ鳴咽する。
「できない、できないよ……」
言葉にならない想いが、目から溢れて病院の室内着を濡らす。私の、心にも。
たかが犬一匹で、と誰かは言うかもしれない。でも私にとっては、それでは済まない。彼のいない世界に幸せも喜びもいらないんだ。
「忘れることが悪いことだなんて、私は思わない」
強い声だった。
その口調と言葉に驚き、顔をおおった指の隙間から少女の名前がこぼれおちる。
「ゆか、ちゃん……?」
向こう側の彼女は何処か遠くを見つめたような目で立っていた。そして、もう一度繰り返した。
「忘れることが悪いことだとは、私は思わない」
背中から押されたような衝撃に、全身が震えた。声もうまく出せない。でも、ここで負けたらダメなのだ。
「どう、して。そうおもうの」
思った以上に小さな声だったが、彼女には届いた。
「自分の死が悲しみだけをもたらすなら、忘れてくれた方がいい」
高くも低くもない声。確かにここにいるのに、どこにもいないような彼女の存在に少しだけ恐怖した。
「お姉さんは、あの人に悲しい思い、させたままでいいの」
少女である者はなおも問いかける。
私は言葉を見つけられずに喚くだけ、なんて弱い。
「だって、だって! 私があの日、わがままなんて言わなかったらバイクに乗ったりしなかった! 私が、私が彼を殺したッ!」
渇いた音に重く鋭い衝撃。
こめかみのあたりに鈍い痛みを感じ、気付けば私は地面に倒れていた。車椅子は横倒しで、車輪が間抜けな音をたてながら廻っていた。
現状を把握し、殴られたということを認めるのに時間がかかった。今度は夢じゃないらしい、脳が揺れているのが分かる。それと同時に右半身に痛みが走った。
少女は助け起こそうともせず、ただ声を張り上げた。
「忘れたって、何だっていいよ! でも、死んだらダメ! だって、お姉さん腕も脚もあるのに……!」
少女の目に光るものが浮かび、頬をつたうのを私は見た。どこまで弱い、いや馬鹿なんだろう私ってやつは。
手の力だけを頼りに這って彼女の傍まで行く。時間が、どれだけかかっても。
「ごめん、ごめんね。お姉さん、リハビリ頑張るから。すぐには無理だけど、絶対お散歩連れてくから。泣かないで……」
ゆかちゃんに何があったのか私は知らない。私は不幸に浸っていただけだから。でもきっと頑張れる、だってまだ私は何もしていない。
「だからゆかちゃん、約束して。お姉さんがこれから頑張れるように」
女の子は濡れた頬を服の袖でこすってから、少しだけ顔をあげてくれた。その目にはもうどんな色も映っていない。
「約束は……守らないとダメだよね」
目前に差し出された細い小指に、私は黙って小指をからめた。涙が止まらず抱き合う私達の隣で、梅が小さく鳴いた。
「……これで、良かったんだよね」
ベットに背中をあずけたまま本を読んでいた時、自分に言い聞かせるみたいに、有夏がつぶやいた。
わたしは有夏の様子が気になり、ずり落ちたメガネに手をやりながら、手元の本から顔をあげた。
親友は窓わくにひじをつき、どこか遠くを見ているようだった。外から夕日が差し込んでいて、彼女の体を鮮やかなオレンジ色に染めあげている。きれいだけれど、どこか悲しい感じがして、わたしは笑おうと決めた。
「知らない方がいいことも、きっとあるよ」
有夏が向き直り、そうだね、とむじゃきな笑顔をわたしに返した。この子には笑っていてほしいと思う、ずっと。
「真里、ありがとね」
「なに、突然」
オレンジ色の光がメガネのレンズに反射した一瞬、世界が真っ白になる。ゆっくりもとに戻っていく視界で、この子がこれから見る世界のことをぼんやり思った。
「真里が力かしてくれたから、できたんだよ」
「有夏のために何かできたなら、それでいいよ。こんな力なんて、いらないし」
わたしが口をとがらせてぼやくと、ないしょ話でもするみたいに、有夏が笑った。わたしも笑った。
なんとなく、ベットの左脇にあるテレビにカードを入れると電源が入った。最初のチャンネルはニュースが流れていて、女性キャスターはそうすることが当たり前みたいに、語り始めた。
「特集です。以前報道しました、飲酒運転の乗用車を避けようとバイクがガードレールに衝突した事故に、巻き込まれて死亡した小学生の両親が胸の内を告白しました。
亡くなった小学生は片山有夏ちゃん九歳で」
ぷちん、と突然画面は真っ黒になった。ポイントが少なかったらしいテレビは、満腹だというようにカードを吐き出す。ニュースは現実感がなかった。
「ごめん、もう行かなきゃ」
どこかで聞いたようなセリフを、腕時計を見ながら有夏が言った。それを聞いて、でもやっぱりこれが現実なんだと思った。
デジタル腕時計の画面は、ヒビが入って壊れていた。わたしはそれを知っていた。
「ばいばい、有夏」
「うん、ばいばい」
わたしは親友に最後の別れをつげた。
病室にはわたし一人だけが残された。
ちなみにその部屋に入ったはずの女の子が、部屋から出てくるのを見た者は誰もいない。
読んで頂きありがとうございました。
前から書きたかったストーリーだったのですが、かなりの難産で修正にも時間がかかりました。
何か感じて頂ければ幸いです。