夕暮れの葡萄
八月の中旬。僕は畳に寝そべり、壊れてしまったクーラーを睨みつけていた。代わりにつけていた扇風機もイマイチな調子で、僕は暑さと湿り気にだれていた。
バイトも無く、予定も無い休日。賞に向けて書いている小説の執筆にはもってこいだったが、どうにも筆が進まない。賞のためだけに書くという行為は想像以上に苦痛で、小説の本質を見失いそうになる。だが、何かしら賞を獲らなければ、才能があっても無視される業界。そんなこともあいまって、僕はすっかりだれていたのだ。
だが、そんな僕の耳に、木々の葉を揺らす風の音が聞こえてきた。夏の風に期待感は薄れたが、物は試しにと、ベランダへ続く窓を開けた。
すると僕の予想を裏切り、涼しく心地の良い風が部屋に入ってきた。さらに、アパートの真横に位置するブドウ園を抜けてくることもあってか、風が爽やかに感じられる。
ようやく涼む事の出来た僕は、日向でまどろむ猫のような顔でブドウ園を見つめていた。そしてその時、ようやく僕は気がついた。大きな網目のネット越しに見えるブドウの木の枝先に、青々とした若い実がなっているのを。
執筆活動もろくにせず、畳の上で寝転がっている僕は、なんだか恥ずかしい気持ちになった。ブドウが見せる懸命な生命の営みは、僕をあざ笑っているかのように思え、また同時に、優しく微笑んでいるようにも思えた。どちらにせよ、今の僕が持ち合わせていない「力強さ」を見ているだけで、なんだか恥ずかしくなってしまう。
風が草木を揺さぶるように、ブドウはなおも僕の心に揺さぶりをかけてきた。妙な胸のざわつきに、僕は勢い良く立ち上がり玄関へ向かった。玄関の戸を開け、風通しを良くして一気に湿り気を追い出せば、胸のざわつきもどこかへいってしまうだろう。そんな安い考えだった。
木目調の塗装が剥がれた玄関の戸を開けると、風は部屋を抜け、湿り気を部屋から追い出してくれた。蝉の声が聞こえなければ夏とは思えぬほど涼やかだった。しかし、胸のざわつきは微動だにしない。安い考えには安い結果しか伴わないのだろう。
ただ抜けていく風が心地良いのは確か。ストッパー代わりのカマボコの板を玄関に挟み、僕は部屋の中に戻っていった。すると、風通しがよくなった為に、部屋に入ってきた風は、テーブルの上にあった十数枚の原稿用紙・下書きのコピー用紙を部屋に撒き散らしていた。
「つまらない小説だ」
そんな台詞を吐き捨て、吹いた風はいつのまにか部屋を後にした。
仕方なく散らばった紙をかき集めていると、今度は窓から笑い声が入ってきた、それは夏休みを元気に過ごす子供たちの声で、由来の見当がつかぬアダ名を何度も呼び、声変わり前の高い声で笑いあっている。
僕にもあんな時代があったのか。売れもしない、賞も獲れない小説を、忙しい合間をぬって書いている僕には、そう簡単には信じられない。だが偶然にも、頭の片隅で思い出の欠片がきらめいた。忘れるでもない、懐かしむでもない、思い出の欠片。それは亡き友人とのものだった。
ありきたりな表現だが、彼はいい奴で、クラスのムードメイカーの一人だった。同じ塾にも通っていたし、彼は僕と同じで他所の小学校からやってきた転校生だった。親友だった。
そして彼は僕の共犯者でもある。
小学五年生の時だった。放課後、いつものように仲のいい友人たちと遊んでいた僕。だが遊びに飽きた僕とその親友は、新たな面白いものを探しに、小学校へ向かったのだ。
グランド裏のフェンスを乗り越え、敷地に入った僕ら。先生に見つからないよう体育館脇のプールのそばで何か面白いものはないかと辺りを探していた。
当然、面白いものなど見つかるわけはなかった。あるものといえば、授業で使われなくなってしまい、栄養分ゼロの土の固まってしまった不毛の畑。あとは微生物や水生昆虫の天国となっていた汚いプールくらいだ。だが、子供の発想力を使えば、遊びの一つや二つは出てくる。
「オレ思いついた」
そう言った親友は、不毛の畑から土のカタマリを拾い上げ、宙へと放り投げた。細かな破片を撒き散らしながら飛んでいくカタマリは、苔色のプールに「ちゃぽんっ」と音を立てて沈んでいった。
たったそれだけのこと。なのに僕と親友は面白がってカタマリを放り投げ続けた。そして次第に「ちゃぽんっ」という音だけでは物足らなくなっていき、気づけばカタマリは石に変わっていた。それにあわせ、石を放り投げる高さは増していった。
「オレもっと高く投げられるぜ」
高く放り投げれば投げるほど、着水時に派手な音を立てる石。互いにムキになって高く高く石を投げていたその時、聞こえるはずの音が聞こえてこなかった。二人同時に投げた石は、プールに落ちてはこなかった。となれば地面に落ちたか、もしくは別のどこかに落ちたか。
「体育館の方に飛んでった?」
「い、いちおう見に行ってみる?」
まさかそんな。互いの顔を見て笑っていたが、僕も彼も引きつった顔。体育館まで石が届くわけがない。何度も何度も自分に言い聞かせた。だが、そんなものは現実逃避にしか過ぎなかった。
体育館二階。左側の窓ガラス一枚。ものの見事に割れていた。僕らは全速力で逃げ出した。そのあと、僕らの間にある約束が交わされたことは言うまでもない。
そんな親友との約束は、十数年経った今も守られている。彼も死ぬまで守っていた。というより、互いに忘れていってしまったのだろう。毎日が楽しかったあの頃。ガラスを割ってしまったという出来事は、他のたくさんの楽しい出来事の中に埋もれていっただけなのだ。
だが、彼との約束はもう一つあった。
それは小学校の卒業式の日。最後の「帰りの会」をしている時だった。担任の先生は涙で化粧を崩し、男勝りな女子でさえ顔にハンカチを当てていた。後輩たちが飾り付けてくれた華やかな教室には、嬉しさと寂しさでいっぱいになっていた。
そんな中、親友の彼はスッと立ち上がり、大きな声を出した。
「みんながハタチになって大人になったら、同窓会やろうぜ! オレが司会やるからさ!」
「そういう時は幹事って言うの」
先生は目を赤くさせながらも、笑って彼に教えてやった。彼は照れ笑いを見せ、クラスの皆も保護者たちも笑った。
それから七年後、19歳の時のことだった。ある日の夜、実家の電話が鳴った。受話器を取った母は突然に泣き始めた。彼は約束を破った。彼は交通事故に遭い、突然、ウソのようにいなくなってしまった。
つい最近、街でバッタリと会ったばかりだった。大学がどうの、仕事がどうの、互いの近況を報告しあったばかりだった。ハタチになる前だった。
別れの日。目を瞑ったままの親友は、ただそこで寝ているようだった。「ウソでーす」と起き上がってきそうだった。でも違った。花に囲まれ、静かに目を瞑ったままだった。
長いクラクションのあと、彼を乗せた車は遠くへと消えていく。車が見えなくなっても、僕は何かを見つめて立ち続けていた。
蝉の暴れる声。その声で僕は回想から目覚めた。
先程まで胸にあったざわつきは消えていた。かわりに、ぶん殴られたような目が覚める思いで、胸がいっぱいになった。なぜ小説を書くようになったのか、それを改めて自分自身に突きつけられた。
それからというもの、僕は「今まで」を書き続けた。原稿用紙を想いで埋め尽くし、一枚、また一枚と原稿用紙を積み重ねていった。毎日を、日々を過ごしながら、書き続けた。そして全てを書き終えた。
これで落ち着ける。そう思っていたが実際には違った。居ても立ってもいられなくなった。
書き上げた翌日の朝。僕は家を出た。歩いて、バスに乗って、電車に揺られ、またバスに乗った。そう、親友の眠る霊園にやってきたのだ。
久しぶりに訪れた彼の墓には、最近だれかが来たのであろう、新しい花が供えられていた。僕は霊園の事務所で買った線香をに火をつけ、そっと供えた。そして途中で買った二本の缶コーヒーの栓を開けた。
何を語るわけでもなく、僕はそこにいた。燃えていく線香を見たり、流れていく雲を眺めたり、風の音を聞いたり、ほろ苦いコーヒーを飲んだりしていた。それだけで良いと思った。親友の彼にはそれだけで良いと思った。彼に言った言葉といえば「久しぶりだな、バカ」と「またな、バカ」ぐらいだ。
僕は帰り道を行く。そして再びバスに乗った時には夕暮れ。僕は気づかぬ内に半日を過ごしていたらしい。僕は何だか可笑しくなってしまった。
バスを降り、歩き始めたその時、五時を知らせる市の放送が流れてきた。子供たちは帰る時間。見れば街は茜色に染め上げられ、まるであの日のようだった。その時、僕はふと思った。
僕が書き上げた小説を彼は喜んでくれるだろうか。もしかしたら怒るかもしれな。ガラスを割った時のことも書いてしまったから。まぁ、彼は約束を一つ破ったのだから、僕が約束を一つ破っても許してくれるだろう。
フッと笑ってしまった僕の目に、あのブドウ園が映った。立ち止まってよく見れば、あの青々とした実は赤く熟れていた。そう、ブドウは夕日に照らされた為ではなく、熟れたが為に身を赤くしていた。
どうやら僕はかなりの日々を過ごしていたらしい。気付かずに半日を過ごしてしまうことなど可愛いものだ。何だか情けなくなってしまった僕は、ポケットに手を突っ込んで、安アパートに向かって歩き始めた。
夏が終わり、僕は秋を迎えた。