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メッセージ

作者: 矢野水樹
掲載日:2026/06/14

 第一章 黒い手帳

 1

 就活でバタバタしていた日々も、ようやく終わりが見えてきた。

 内定も決まって、気が抜けたのか、俺はふらっと近所の神社に立ち寄った。

 名前は市原武いちはら・たけし。二十二歳、大学四年。

 身長一六八センチ、やせ型。まあ、どこにでもいる普通の大学生だ。

 お賽銭を入れて鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝。

 いつも通りの手順を踏んで頭を下げていると、足元に黒い皮の手帳が落ちているのに気づいた。

「・・・・ん? 誰かの落とし物か?」

 拾い上げて開いてみる。落とし主の名前でも書いてあるかと思ったが、どこにもない。

 代わりに、ページをめくった先に妙な文章が一行だけ書かれていた。


 “うるう年になる午前0時きっかりにここで正式なお参りをすると、ある島に行ける。その島の桟橋で待っていると大きな豪華客船が現れ、それに乗船すると不老不死になれる”


「・・・・は?」

 思わず声が漏れた。

 他のページは真っ白。まるでこの一文だけのために存在している手帳みたいだ。

 不気味だが、なんとなく気になって、俺はその手帳を持ち帰った。

 翌朝。

 大学に行って、映画研究会の仲間にこの話をしてみた。

 俺たちのサークルは、自作映画を撮って文化祭で上映するくらい映画好きが集まっている。

 教室に入ると、いつものように翔太がみんなに向かって楽しそうに喋っていた。

 羽鳥翔太はどり・しょうた二十歳、二年。

 身長一七五センチの痩せ型で、軽いノリのムードメーカーだ。

「武、調子はどうよ。就職決まって余裕だろ」

「まあな。・・・・って、そんなことより見てほしいものがある」

 俺はカバンから例の黒い手帳を取り出した。

「何それ? 手帳?」

「中、見てみろ」

 翔太は手帳を受け取り、ぱらっと開いた。

「・・・・不老不死? なんじゃそりゃ」

「どれどれ!」

 横からひろみが勢いよく覗き込んできた。

 谷口ひろみ(たにぐち・ひろみ)。二十歳、二年。

 好奇心の塊みたいなやつだ。

 その隣では、普段はあまりこういう話に入ってこない良夫までが興味深そうに手帳を見ていた。

 今泉良夫いまいずみ・よしお二十二歳、四年。

 普段は一人でいることが多いのに、今日は珍しく輪に加わっている。

「ねぇ、これおもしろそうじゃない? 行ってみようよ!」

 ひろみが目を輝かせて言う。

 翔太もニヤッと笑った。

「だよな。こういうの、試してみたくなるだろ」

 こうして、俺たち四人は“黒い手帳の謎”を確かめに行くことになった。


 黒い手帳 2

 その場に居合わせた四人は、勢いのまま“行く”と決めてしまった。

 もちろん、誰も本気で「不老不死」なんて信じていない。

 ただ・・・・怖いもの見たさと、好奇心と、そして“ネタになる”という軽いノリが背中を押しただけだ。

 そして迎えた二月二十八日。

 四人は神社に集合した。長い石段を上り、境内へ向かう。

 手水舎で手を洗い、冷たい水で指先がきゅっと縮む。

 拝殿の前で午前0時になるのを待つと、空気が妙に静かだった。

 十一時五十九分。

 四人は賽銭箱にお賽銭を入れ、並んで二拝二拍手一拝を行う。

 その瞬間。

 境内に突風が吹き荒れ、雷鳴が落ち、白い閃光で視界がなくなった。

 武は反射的に目を閉じた。

 次に目を開けたとき、そこは神社ではなかった。

「桟橋?」

 古びた街灯がぼんやりと並び、薄暗い光を落としている。

 隣を見ると、翔太たち三人が倒れていた。

「おい、翔太、大丈夫か!」

 揺さぶると、翔太がうめき声を上げて目を開けた。

 ひろみも良夫も、次々と意識を取り戻す。

「ここ、どこだよ?」

 翔太が辺りを見回す。

「桟橋みたいだね。」

 ひろみは興味津々で周囲を見渡している。

「本当に来たんだ。」

 良夫は呆然としたまま、海の闇を見つめていた。

 桟橋には何もなかった。のはずだった。

 突然、海の向こうに巨大な影が浮かび上がる。

 最初は霧のようにぼやけていたが、徐々に輪郭が固まり、光を帯び、やがて“豪華客船”の姿がはっきりと現れた。

 タラップが下り、船員らしき人物が歩いてくる。

「ようこそいらっしゃいました。本日は四名様で承っております。どうぞこちらへ」

 まるで予約していたかのような口ぶりだ。四人は顔を見合わせたが、結局そのまま乗船することにした。

「おー、すげぇ船だな! まさか本当に来るとは思わなかったよ」

 翔太が興奮気味に声を上げる。

「こんな大きな船、初めてだよ。中ってどうなっているのだろう?」

 ひろみは目を輝かせてタラップを駆け上がる。

「まあ、ゆっくり見ていこう。時間は、ありそうだし」

 武が言うと、

「夢でも幻でもないよな。四人とも見ているのだし」

 良夫が珍しく口を開いた。

 船内の扉を開けると、そこは別世界だった。

 天井には巨大なシャンデリアが輝き、階下には広いフロア。噴水がきらめき、豪華な装飾品が並び、舞台では生演奏の歌が響いている。

 大勢の乗客が集まり、笑顔で拍手を送っていた。

「わぁ、すごいぞこれは!」

 翔太がはしゃぎ、ひろみは階段を駆け下りていく。

 武と良夫も後に続いた。

 演奏が終わると、会場は歓声と拍手で満たされた。どの顔も楽しげで、幸福そのものだった。さらに奥へ進むと、大きなホールにたくさんの料理が並んでいた。

 肉、魚、野菜、デザート、シャンパン、ビールなど、見たこともないほどの豪華なご馳走だ。

 四人は好きなものを皿に取り、テーブルに座った。

「すごいご馳走だよ。本当に食べていいの? お金も払ってないのに」

 ひろみが不思議そうに言う。

「大丈夫だろ。そもそも、ここにいること自体ありえないからな」

 翔太が笑いながらビールを注ぐ。

「それにしても不思議すぎるよな。これと“不老不死”がどう繋がるんだ?」

 武が真剣に考えていると、

「このまま食べ放題・飲み放題がずっと続いて、歳も取らないとか?」

 翔太が軽い調子で言う。

「この後どうなるのかな。すごく楽しみ」

 ひろみは期待に胸を膨らませていた。

 良夫は黙ったまま、皿の上の料理にも手をつけず、何かを考え込んでいた。

 その横顔は、まるで“この船の仕組み”を読み解こうとしている研究者のようだ。

 そんな中、最初に会った船員が静かに近づいてきた。

「お客様、四名分のお部屋をご用意しております。こちらの鍵をお受け取りください。それぞれのお部屋を自由にお使いください」

 丁寧な口調で、ひとりひとりに鍵を渡していく。

 番号は三〇一号室から三〇四号室まで。

「ありがとうございます。ところで、この船はどこへ向かっているのですか?」

 武が尋ねると、船員はにこりともせず、淡々と答えた。

「それは、着いてからのお楽しみということでお願いいたします。それでは、どうぞ楽しい旅を」

 そう言い残し、音もなく去っていった。

「それじゃ鍵を渡すね。三〇一が翔太、三〇二がひろみ、三〇三が良夫、三〇四が俺、市原で」

 武が鍵を配ると、良夫が肩をすくめた。

「どこでも同じだろ。俺、この後は自由行動にしたい。いろいろ見て回りたいから」

 良夫は短くそう言うと、ひとりでテーブルを離れ、静かにホールの奥へ消えていった。

「相変わらずマイペースだな、あいつ」

 翔太が苦笑する。

「俺たちはどうする? ひろみ、一緒に見て回るか?」

 翔太がひろみに声をかける。

「いいよ。一緒に行っても。武はどうするの?」

 ひろみが振り返る。

「俺も気になるところがあるから、一人で見て回るよ。また部屋で合流しよう」

「わかったわ。それじゃ、また後で」

 食事を終えた四人は、それぞれ別々に船内を探索することにした。

 豪華客船の中で、四人の足音は違う方向へと散っていく。

 そのとき、武は気づいた。

 ホールの奥の鏡に映る自分たちの姿。

 そこに、四人以外の“誰か”が立っていた気がした。

 瞬きをしたら、もういなかった。

 気のせいだろうか。だが、武の胸に小さな不安が芽生えた。


 黒い手帳 3

 武はふと携帯を取り出し、画面を確認した。

 八時三五分。

「あれ?」

 思わず声が漏れた。午前0時から、時間が戻っている。しかも電波は圏外。通信もできない。船内はまだ人がちらほら歩いていて、まるで普通の夜のようだった。

 とりあえず、甲板に出てみるか。武は階段を上へ上へと上がり、扉を押し開けた。

 外は、闇だった。

 星もない。

 月もない。

 潮の香りすらしない。

 聞こえるのは、波のような音だけ。

 だが、その音すら本当に波なのか疑わしくなるほどだった。

 不老不死って、どういう意味なんだ。手帳の文字が頭をよぎる。胸の奥にじわりと不気味さが広がった。実際に来てしまった。この、ありえない環境に。

 この船はどこへ向かっているんだ?

 あの乗客たちも、同じ理由で来たのか?

 誰かに聞いてみよう。そう思い、武はキャビンへ戻った。

 階段を下りてホールに戻ると、さっきと変わらず賑やかだった。

 笑い声、音楽、談笑。まるで普通の豪華客船だ。

 武は近くのカップルに声をかけた。

「すみません、ちょっとお聞きしたいのですが」

「大丈夫ですよ。何でしょうか?」

 男性がにこやかに答える。

「この船の行き先をご存じですか?」

「わかりません。僕たちはミステリーツアーに参加しているんです。だから行き先は知らなくて」

「そのツアーって、普通に旅行会社に申し込んだんですか?」

「そうですが、何かあるんですか?」

「いえ、そういうわけでは。ありがとうございました」

 武は軽く頭を下げ、その場を離れた。

 普通のツアーか?

 そんなわけないだろ。俺たちは、普通じゃない方法で来たのに。

 どこか歯切れの悪い答え方だった。

 その後も何組かに聞いてみたが、皆どこか含みのある言い方をする。

 勝手に紛れ込んでいるのは、俺たちだけじゃないのか?それとも、言いづらいのか?

 周囲の人々は楽しそうに振る舞っている。

 お店、ゲームセンター、映画館、レストランなど、どれも普通に見える。

 ただ、外の海だけが異様だった。

 考え事をしながら、武は自分の部屋・三〇四号室へ向かった。鍵を開けて入ると、思ったより広い部屋が広がっていた。テーブル、ソファ、奥にはシャワールーム。冷蔵庫には冷えたワインやチーズまで揃っている。

 現実のホテルみたいだ。そう思いながら窓のカーテンを開けると、外は真っ暗。甲板で見たのと同じ、底なしの闇が広がっていた。

 そのとき、ピンポーン。呼び鈴が鳴った。

 武が急いで扉を開けると、翔太が酔っ払った様子で立っていた。

「よう、何やっていたんだ?」

 翔太はご機嫌な笑顔だ。

「お前、誰かと飲んでいたのか?」

「ああ、知り合ったお姉さんたちと飲んでいた」

「何か聞いたのか?」

「ああ、東京から美容師仲間で来ているって言っていた」

「船の行き先は?」

 武が尋ねると、翔太は肩をすくめた。

「いや、聞いてない」

「そうか。俺も聞いてみたけど、わからないってさ。ただ、ミステリーツアーで来ているって言っていた」

「何でもいいじゃん。タダでうまい飯と酒が飲めるんだし」

「お前は能天気でいいよ。他の二人は見かけたか?」

「いや、見てない。なんか飲みすぎたみたいだ。帰って寝るわ」

 翔太はふらふらと手を振りながら部屋を出ていった。

 その背中が廊下の暗がりに消えると、武は小さく息をついた。

 ひろみと良夫、大丈夫かな。

 気になって、武は二人の部屋を訪ねることにした。

 まずはひろみの部屋三〇二号室。呼び鈴を押すと、すぐにドアが開いた。

「あ、武。どうしたの?」

 ひろみは頬を赤くしていて、明らかに酔っている。その後ろの部屋の奥に、誰かの気配があった。

「誰か部屋にいるの?」

「うん、さっき知り合ったのぞみちゃん。いろいろ見て回っていたら意気投合しちゃってさ。いっしょに飲む?」

「入っていいのか?」

「武は何もしないでしょ。真面目だし。翔太はちょっと危ないけどね」

 ひろみは笑いながらドアを大きく開け、武を招き入れた。中には、ひろみと同じくらいの年齢で、背格好も似た女性がいた。

「こんばんは。工藤のぞみ(くどう・のぞみ)といいます。よろしく」

「市原武です。よろしくお願いします」

「まあ、まずは一杯どうぞ」

 のぞみさんはワイングラスを差し出し、赤ワインを注いでくれた。テーブルにはチーズやビスケットが並び、まるで女子会のようだ。

 武はグラスを受け取りながら、気になっていたことを尋ねた。

「この船、やっぱりミステリーツアーか何かで来ているのですか?」

 のぞみは一瞬だけ表情を曇らせた。そして、言いにくそうに口を開く。

「実は、信じてもらえないと思いますが、私が乗っていた船が転覆して、気がついたらここにいました」

「・・・・え?一人で?」

「いえ。一人旅だったのですが、同じ船にいたと思われる人が何十人か、ここにいます。赤い帽子をかぶった目立つ人もいましたから」

 武は息をのんだ。

「じゃあ、行き先も当然知らないですね」

「はい。全く」

「それって最近の話ですか?」

 武が尋ねると、のぞみは静かに頷いた。

「そうです。この夜からだと思います」

 武はワインを一口飲み、胸の奥に広がるざわつきを押し込むように言葉を続けた。

「いろいろ見て回ったけど、船内は普通に豪華で楽しい。でも、甲板に出たら真っ暗で何も見えなかった。月も星も海も全部黒かった。音だけはしていたけど」

「そうなんだよな。外だけは不自然だ」

 ひろみはなぜかワクワクした様子で言う。

「私たちはね、黒い手帳に導かれて来たの。不老不死になれるって書いてあったから」

「どうやって?」

 のぞみが身を乗り出す。

 武は黒い手帳を取り出し、のぞみに見せた。のぞみはページを一読し、驚きに目を見開いた。

「これって本当に実行して来たのですか?」

「そう。だから、この船が何なのか、なぜ不老不死なのか、全然理解できない。そもそも現実ではありえないことが起きている。のぞみさんだってそうよ。転覆した船からどうやってここに来たのか、ありえないよね。でも、これから何が起こるのかワクワクもするけど」

 ひろみは恐怖よりも好奇心が勝っているらしい。

「私は怖いです。この船から降りられるのかもわからないし」

 のぞみは不安げに視線を落とした。

 その瞬間、武は背筋がひやりとした。

 ひろみの部屋の窓、真っ暗な外のガラスに、三人の姿が映っている。

 ただし、ひとつだけおかしい。映っている、のぞみの影が、ほんの少し遅れて動いた。

 気のせい、か?胸の奥に、言葉にならない不安が広がっていく。

 武は真剣な表情で言った。

「とにかく、手がかりを探そう。僕らは面白半分でやってみて、ここに来てしまった。でも帰る方法を諦めずに考えたい。他の二人がどう思っているかはわからないけど」

 そう言い残し、武は早めに部屋を出た。

 次は良夫の部屋、三〇三号室へ向かう。

 呼び鈴を押すと、良夫が顔を出した。

「よう。いろいろ見てきたか?」

「ああ、船内は一通り」

「どうだった?」

「施設は普通だった。でも甲板の外は異様だった。この世のものじゃない。でも、気に入っている」

「何が?」

 良夫は少し笑って言った。

「何がって、ここにいれば働かなくてもうまいものが食えるし、ふかふかのベッドもシャワーもある。全部自由だ。俺、現実の世界にうんざりしていたんだ。ちょうどよかったよ」

 武は言葉を失った。

「マジか、ここが気に入ったのか。いろんな考え方があるものだな。もう寝るのか?」


「シャワー浴びてからゆっくりするよ」

 良夫は扉を閉め、部屋に戻っていった。

 武も自分の部屋に戻り、シャワーを浴びてベッドに入った。

 時計は午前0時を回っている。

 天井を見つめながら、武はゆっくりと目を閉じた。

 船は静かに揺れている。けれど、その揺れは、海の揺れとはどこか違う気がした。


 第二章 明けない夜

 翌日。

 武が目を覚まし、時計を見るとすでに八時を回っていた。

 カーテンを開けた瞬間、息が止まる。

 真っ暗だった。昨夜と同じ、深い闇。朝日がない。夜が明けていない。

「なんで、夜のままなんだ?」

 胸の奥がざわつく。嫌な汗が背中を伝った。

 着替えて翔太の部屋へ向かい、呼び鈴を押す。なかなか出てこない。寝ているのかと思った頃、ようやく扉が開いた。

「何だよ。せっかく寝ていたのに」

「おい、窓の外見たか? 夜が明けていないんだ。ずっと暗いままだぞ」

「まだ見てないけど、別にいいんじゃね? 船内は明るいし」

「このまま明けなくてもいいっていうのか?」

「仕方ないだろ。ここに来た時点でありえないのだし。楽しんだ方が得だって」

 翔太は相変わらず能天気だ。その能天気さが、逆に不気味に思える。

「とにかく、四人で集まろう。九時に廊下な。俺がみんなに伝えておく」

 武は順番に仲間の部屋を回り、集合を伝えた。

 廊下に行くと、ひろみだけが待っていた。

「他の二人は?」

「まだみたいね」

「窓の外、見た?」

「見たわよ。真っ暗なまま。ずっと闇夜なんて、逆に興味深いじゃない。これからどうなるのか楽しみ」

 ひろみは恐怖より好奇心が勝っている。その明るさが、今は少し怖い。

 その後、翔太が来て、最後に良夫が十五分遅れで眠そうに現れた。

「まだ朝メシ食ってないだろ。食べに行こうぜ」

「朝メシって言っても、真っ暗だけどな」

 良夫がぼそっと言う。

 昨日より人は少ないが、豪華なバイキングは変わらず並んでいた。

 四人は好きなものを取って席に着く。

「これからどうする?」

 武がパンをかじりながら言う。

「どうするも何も、どうしようもねぇだろ。ここから出られないんだし。楽しむしかないって」

 翔太がスープをすすった瞬間。

 ひろみがベーコンを食べて変な顔をした。

「このベーコン、味がしない」

「は? 病気か? って、あれ? このスープも味がしねぇ」

 翔太が驚いた声を上げる。武も卵焼きを食べて気づいた。卵焼きにかかっていたケチャップの味すらしない。

 良夫は黙ったまま、表情を変えない。

「みんな同時に味覚がおかしくなるわけない。これは異常だ」

 他の料理も試したが、どれも味がしなかった。

「この先どうなるんだろうな。良い方向に行くとは思えない。待つしかないか」

 武は真剣な表情で言った。

「味がしないのは困るなぁ。食べる楽しみが減るじゃん」

 珍しく翔太がしょんぼりしている。

「食えりゃいいだろ。遊べる施設もあるし。現実世界よりマシだ」

 良夫は淡々と言ったが、その声には妙な実感がこもっていた。

「味がないのは残念だけど、次はどんな現象が起こるのかな」

 ひろみは相変わらず好奇心に満ちていた。

 食事を終えたあと、四人はそれぞれ自由に行動することにした。

 武が甲板へ向かおうとしたとき、廊下で船員とすれ違った。

「あの、すみません。この船は本当にどこへ向かっているんですか?」

 声をかけても、船員は無言のまま歩き続ける。

「すみません!!」

 少し強めに呼びかけると、船員はぴたりと立ち止まった。だが、振り向かない。動かない。

 まるで、時間が止まったようだった。

 次の瞬間、船員の輪郭が薄くなり、存在感が消えていく。

 透けていくように見えた。

「え・・・・」

 武は思わず二、三歩後ずさりした。

 そのまま船員は完全に消えてしまった。

 幻ではない。確かにそこにいた。ありえない光景に、武はその場に座り込んでしまった。

 しばらくして落ち着きを取り戻し、武は甲板へ向かった。扉を開けると、外は相変わらず闇の世界。

 星も月もなく、ただ黒い空間が広がっている。

 ふと左側を見ると、武は息をのんだ。

 並走している。

 自分たちの船とまったく同じ形の巨大な船が、暗闇の中を音もなく平行して進んでいる。灯りもなく、ただ影のように滑るように動いている。

「あれにも、乗客がいるのか?」

 どこへ向かっているのか。

 なぜ同じ船が並んでいるのか。

 答えは闇の中に沈んだままだった。


 第三章 別次元 1

 甲板から階段を下り、部屋へ戻ろうとしたときだった。

 すれ違う乗客たちの様子が、明らかにおかしい。

 笑顔のはずなのに、目の焦点が合っていない。どこか冷たく、空っぽの視線。一人や二人ではない。すれ違うほとんどの乗客が、同じ、壊れた笑顔を浮かべていた。

 何だ、これ。

 胸の奥がざわつくまま、武は入口付近の噴水まで戻った。その先には舞台があり、ちょうど講演中らしく大勢の人が集まっている。クラシック音楽が大音量で響き渡り、その中に、昨日ひろみと一緒にいた、のぞみさんが一人で演奏を聴いていた。

「こんにちは。昨日はどうも」

「市原さん、こんにちは」

「クラシック、好きなんですか?」

「ええ。前にフルートをやっていたので、こういう音楽は好きなんです」

「すごいですね。楽器できるって憧れますよ」

「そんなことないですよ」

 そこへ、ひろみがやってきた。

「あれ、武? なんであんたがここにいるのよ」

「偶然、のぞみさんに会っただけだよ」

「私たち、ここで落ち合う約束してたの」

「そうか。それは邪魔したな」

 武が立ち去ろうとしたとき、のぞみさんが声をかけた。

「三人で一緒に聴きませんか? ひろみさん、いいですよね?」

「まぁ、のぞみが言うなら」

「じゃあ、よろしくお願いします」

 ちょうど、ドヴォルザークの「新世界より」が流れ始めた。

 緊張感のある序奏から、力強いメロディがホールを満たしていく。

 三人はしばらく無言で聴いていた。

 その時だった。

 音が、急におかしくなった。最初はわずかな違和感。音程が微妙にズレている。次第にブレが大きくなり、やがて別の曲のように歪んでいく。だが、観客たちは平然としている。隣ののぞみさんも、何事もないように聴き続けていた。

「ひろみ、おかしく聞こえないか?」

「おかしいわよ。音が歪んでる」

「なのに、なんで周りは平気なんだ? のぞみさんも」

 武はのぞみに声をかけた。

「のぞみさん、これ、おかしくないですか?」

「え? どこがですか?」

「音程が違うし、歪んで聞こえるんです」

 のぞみはゆっくりとこちらを向き、首をかしげながら、妙に間延びした声で言った。

「な・ん・でぇ……?」

 その表情は笑っているのに、目だけがまったく笑っていなかった。

 次の瞬間、のぞみの顔色が、すっと血の気を失ったように白くなった。声も変わる。

 低く、かすれた、獣のような唸り声。体は不自然にねじれ、右腕は力が抜けたように垂れ下がっている。

「ひっ!」

 ひろみは悲鳴を上げ、その場に尻もちをついた。

「ひろみ、大丈夫か! 周りを見ろ!」

 武が叫ぶと、ひろみは震える手で周囲を見渡した。

 そこには、ほとんどの観客が、異様な姿に変貌していた。

 笑っている。だが、その笑顔の下で、腕が不自然に曲がっていたり、足を引きずっていたり、顔色が死人のように青白かったり。まるでホラー映画の中に放り込まれたような光景。

 少数だが、まだ普通の人間もいて、悲鳴を上げながら逃げ惑っている。

「ひろみ、逃げるぞ! ここにいたらヤバい!」

 武はひろみの手をつかみ、走り出した。

 広間を抜ける途中、逃げる人々に、異形の乗客が襲いかかるのが見えた。

 武たちにも追ってくる。幸い、走ることはできないようで距離は保てている。

 だが、部屋へ向かう通路に入ると、正面からも異形が現れた。

「くそっ!」

 動きは遅い。だが、数が多い。避けきれない時は、武は思い切り殴り、蹴り飛ばしながら進んだ。拳が当たるたび、骨のような硬さと、どこか湿った感触が返ってくる。

 途中に折り畳み椅子があったので、それを掴んで盾代わりに振り回す。

 椅子が異形の顔面に当たるたび、「ぐぅ・・・・」とも「ひゅ・・・・」ともつかない声が漏れた。ようやく部屋の前にたどり着いたが、異形に囲まれて鍵が出せない。

「わたしの部屋に行こう!」

 ひろみが鍵を取り出し、震える手でドアを開けようとする。

 その間、武は椅子を振り回し、迫る異形を必死に押し返した。

「早く!」

「開いた!」

 二人は部屋に飛び込み、ドアを閉めた。

 鍵をかけると、二人ともその場に崩れ落ち、荒い息を整えた。逃げることに必死で、部屋に入った瞬間、全身の力が抜けた。

「いったい今のは何なんだ。のぞみさんまで」

「段階を追って変化しているみたいね。次は何が起こるのかしら」

「そんなこと言っている場合じゃない! 脱出方法を考えないと」

 ひろみは、あれほど恐ろしい目に遭ったのに、なぜか冷静だった。

 武は拳を握りしめた。

 とにかく、何とかしなければ。


 別次元 2

 一時間半前

 朝食を終えた翔太は、昨日知り合った女の子との約束を思い出していた。映画を一緒に観る約束だ。劇場の前で待っていると、彼女が一人で歩いてきた。

 安藤未来あんどう・みく

 昨日、飲みながら意気投合し、そのまま映画の話になったのだ。

「こんにちは。行きましょう」

「今日もきれいだね。行こう」

 翔太は自然と未来の手を取り、劇場の中へ入った。チケットを渡し、飲み物を買って席に座る。

「信じてもらえないかもしれないけど、わたし、火災に巻き込まれたの。部屋から出られなくて、煙で意識がなくなって気づいたら、この船にいたの。信じられないでしょ?」

「いや、信じるよ。僕も信じられない理由でここに来ているから」

「え、何それ? 教えてよ」

 ちょうど上映時間になり、館内が暗くなった。

「終わったら話すよ」

「わかった」

 映画が始まる。

 ホラー映画らしい不穏な冒頭が流れたが、すぐに異変が起きた。

 映像が乱れ、音が歪み始めたのだ。それでも観客の大半は無反応のままスクリーンを見つめている。

「これ、おかしくないか?」

 翔太が隣を見ると、未来は平然と映画を見続けていた。

 館内には数名だけ、ざわつく声が聞こえる。

「未来さん、未来さん」

 肩を軽く叩くと、ゆっくりこちらを向いた。

「邪魔しないで。これからおもしろいところなんだから」

 声が低い。いつもの彼女の声ではない。不信感が胸をよぎった瞬間、未来の体に異変が起きた。

 髪が縮れ、肌の色が急速に変わっていく。まるで高熱にさらされた金属のように、表面が歪み、ただれていく。

 変貌はゆっくりだが、確実に進んでいた。

「うわっ!」

 翔太が叫び、席を立とうとした瞬間!

 未来の手が、異常な力で翔太の腕をつかんだ。

「なんで逃げようとするの?映画は、まだ始まったばかりだよ」

 低く響く声。人間の声ではなかった。

 翔太は恐怖で体が震えた。周囲を見ると、会場全体が異様な光景に変わっていた。

 観客の九割が、どこか壊れた姿になっている。

 笑っているのに、体の動きが不自然で、影がゆらゆらと揺れている。

 数名の普通の人達が出口へ逃げ惑っていた。

 スクリーンの中でもゾンビが斧を振り下ろし、人を襲うシーンが流れている。

 現実と映画の境界が崩れ、ホラーが現実に侵食していた。

 翔太は必死に逃げようとするが、未来の腕は鉄のように固く、びくともしない。

 そのうち、周囲の異形たちが翔太の席に集まり、顔を覗き込んできた。

 だが、襲いかかってはこない。ただ、じっと見つめている。その異様な光景に、翔太の意識は限界を迎えた。

 視界が揺れ、音が遠のき、翔太はそのまま気を失った。


 別次元 3

 一時間半前

 朝食を終え、良夫はみんなと別れた。現実世界とおさらばして、自由気ままに過ごせる。それは彼にとって、まさに理想の環境だった。ただ、食べ物の味がしないのはショックだったが。

 まぁいい。時間はたっぷりあるし、好きなことをしよう。そう思い、良夫はゲームセンターへ向かった。

 中に入ると、さまざまなゲーム機が並び、派手なライトが瞬いている。

 良夫は対戦型ゲームを見つけ、コインを入れてスタートした。

 向かい側には誰かが座っている。どうやらその相手と対戦するらしい。

 良夫はいつも使っている打撃系キャラを選んだ。相手は組技系のキャラで挑んでくる。

 対戦は順調で、良夫のキャラが押していた。

 その時!

 ボタンとスティックの間に、赤い液体がぽたりと落ちた。

「・・・・?」

 上を見上げた瞬間、良夫は息を呑んだ。

 ゲーム機の上に、ロープで吊られた人影がぶら下がっていた。その赤い液体が、画面にまで垂れ落ち、キャラクターの顔を赤く染めていく。

「うわあああっ!」

 良夫は悲鳴を上げ、椅子から飛びのいた。

 周囲を見ると、血まみれの人影、全身ずぶ濡れで青白い顔をした者たちが、ゆっくりとこちらへ向かってくる。

 やばい!

 良夫は反射的に逃げ出した。

 ゲームセンターを飛び出すと、そこはすでにこの世のものではない者たちで溢れていた。

 ゾンビのような存在が、あちこちに徘徊している。笑っているのに、目が死んでいる。

 歩いているのに、足が逆方向に曲がっている者もいる。

 目の前に階段があった。良夫は全速力で駆け上がる。幸い、上の階は人が少なかったようで、甲板の扉まで一気にたどり着いた。

 扉を開けると、誰もいない。外は相変わらず闇に包まれている。風もなく、音もない。

 その空間は、まるで「死」へと向かっているように感じられた。

 良夫はしばらくその場に立ち尽くし、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。

 その鼓動が、この世界で唯一“生きている音”のように思えた。


 第四章 黒い手帳Ⅱ 1

 武とひろみが部屋にいるときだった。

 武の上着のポケットから、黒い手帳が勝手に落ち、勝手に開いた。

「えっ・・・・!」

 武が慌てて拾い上げると、そこには新たな文章が記されていた。


 “この手帳を拾った者へ”

 ・手帳を読み、実行に移した時点で契約は結ばれる。そこで不老不死(永遠の命)は完結される。

 ・そしてこの手帳を拾った者は元の世界へ戻り、手帳を神社へ置いてくる使命がある。

 ・帰還するには、この手帳を持ち海に飛び込むこと。

 ・これで契約は終了。”


 二人はその内容に愕然とした。

 ここで恐怖に怯えながら永遠に生きる。それが“不老不死”の正体だというのか。

「わたし、帰りたい。何が何でも帰りたい」

 ひろみは涙を流しながら訴えた。

「とにかく、甲板に行こう。考えがある」

「考えって?」

「向こうで話す。信用してくれ。手帳が反応するかもしれない」

 ひろみは必要なものをまとめ、二人は部屋を出る準備をした。

 ゆっくりドアを開け、外の様子をうかがう。

 左右の廊下には異形がうろついているが、距離はある。

 二つ隣の三〇四号室なら、走れば行けそうだ。

「いいか、行くぞ。今だ!」

 武はひろみの手を取り、部屋を飛び出した。鍵を握りしめ、全力で走る。異形が気づき、こちらへ向かってくる。だが、なんとか間に合った。

 ドアを閉め、ロックする。

 ここから甲板までどう行く?

 外は異形だらけだ。

 そのとき、武はふとシャワールームを思い出した。天井を見上げると、点検口がある。

 昨日シャワーを浴びたとき、「こんな豪華客船なのに点検口があるのか?」と違和感を覚えた場所だ。

 ここから行けるかもしれない。

 椅子を使って点検口を開けると、そこは遠くまで続く屋根裏のような空間だった。

「ここから行くぞ」

 武が先に入り、ひろみの手を引いて引き上げる。携帯のライトを頼りに、二人は四つん這いで進んだ。

 下を見ると、床がジャバラ状になっていて、ところどころ隙間から廊下が見える。

 その先に、甲板へ続く階段が見えた。ちょうど階段の上に点検口があり、そこから降りられそうだった。

 武はそっと蓋を開け、下の様子をうかがう。遠くに異形がいるだけで、近くにはいない。

 迷わず飛び降りた。

「ひろみ、来い!」

 ひろみは一瞬ためらったが、思い切って飛び降りた。

 高さはそれほどなく、武がしっかり受け止めた。

「さあ、甲板へ」

 階段を駆け上がり、扉をゆっくり開ける。外には誰もいないように見えた。

「行こう」

 二人が甲板に出ると、そこには良夫が座り込んでいた。

「ここにいたのか」

「脱出するぞ」

「どうやって?」

 武は黒い手帳を取り出し、短く言った。

「三人でこの手帳を掴んで海に飛び込む。もうそれしかない。説明している時間がない、急げ!」

 だが、建物の影から甲板の端へ向かおうとした瞬間、左右から異形な人が飛び出してきた。

「走れ!」

 三人は全力で駆け出した。

 途中、異形が良夫の腕をつかんだ。良夫は胸ポケットからボールペンを抜き、相手の顔面めがけて突き出すように殴りつけた。異形は手を離したが、次々と襲いかかってくる。

 甲板の手すりにたどり着いた頃には、三人はもみくちゃにされていた。

 手すりの向こう側には、わずかに立てるスペースがある。

 武が先にそこへ移動し、ひろみを引き上げる。片手で手すりを掴み、もう片方の手でひろみを支える。

「良夫!」

 武は叫んだ。だが、良夫は異形に囲まれ、こちらへ来られない。

「このままじゃ全員やられる。ひろみ、行くぞ!」

 武は片手に手帳を握りしめ、ひろみを抱きかかえるようにして、二人は闇の海へと飛び込んだ。


 黒い手帳Ⅱ 2

 気がつくと、俺は元の神社に立っていた。冷たい空気。見慣れた鳥居。夜明け前の静けさ。

 一瞬、記憶が途切れていたが、すぐに思い出した。

 ひろみがいない。

「ひろみ!!」

 叫んでも返事はない。ただ、静寂だけが返ってくる。

 胸の奥から、どうしようもない悔しさと涙が込み上げた。

 結局、誰一人として連れて帰れなかった。仲間を、友人を。

 どうすれば・・・・どうすればよかったのだ。

 そのときだった。ポトリ、と音を立てて、武の足元に黒い手帳が落ちた。

 勝手にページがペラペラとめくれ、一枚で止まる。

 拾い上げると、黒いインクがにじむように文字が浮かび上がっていく。

 “おまえは帰れたが、使命がある。”

 さらに文字が続く。

 “おまえには運び屋になってもらう。うるう年の日に、人を連れて来ること。それをしなければ逆戻り。そのために戻された。”

「そんなばかな」

 声が震えた。

 俺はなんてものに関わってしまったのだ。大学の友人たちを犠牲にしてしまった。

 帰還は救いなんかじゃない。

 呪いの始まりだった。

 手帳のページに、さらに新しい文字が浮かぶ。

「光へ戻る者は、次の夜を招く者。」

 助かった訳じゃない。

 悪魔は手帳を現実世界に戻すために、俺を選んだのだ。

 そして、ページの下に最後の一文が浮かび上がる。

「次のうるう年まで、あと 三年。」

 その瞬間、武の背筋に冷たいものが走った。

 三年後、また、誰かを連れてこなければならない。

 連れてこなければ、自分が“あの夜”に引き戻される。

 武は手帳を握りしめ、震える息を吐いた。

 逃げられない。

 終わらない。

 この呪いは、まだ続く。


 第五章 悪夢

 1

 こちらの世界に戻ってきて、一か月が過ぎた。

 大学の仲間が消えた事件はニュースでも大きく取り上げられ、“現代の神隠し! 三人の若者はどこへ?”なんて見出しが毎日のように流れていた。

 本当のことを話したところで、誰も信じてくれない。だから黙っていた。けれど、ニュースを見るたびに胸が締めつけられ、あの時の光景が鮮明によみがえる。

 そして毎晩、悪夢を見るようになった。

 夢の中には、あの三人が必ず現れる。

 ひろみ、良夫、翔太。最後まで一緒にいた仲間たちが、苦しそうな表情で手を伸ばしてくる。

 うなされて目を覚ます日々。戻ってきても地獄は続いていた。

 このままじゃ、本当におかしくなりそうだ。そう思っていた時、ネットである記事が目に留まった。

 霊的な事件を数多く解決してきたという寺の話。

 その名は幽幽寺。

 庵主である神矢楓かみや・かえでと、その助手の鈴間凛すずま・りんが、二人で数々の怪異を鎮めてきたらしい。

 藁にもすがる思いで、俺は電話をかけた。

「はい、幽幽寺です」

「もしもし、相談したいことがありましてお話を聞いていただけないでしょうか」

「どのようなご相談でしょう?」

「今ニュースで流れている、大学生の神隠し事件、ご存じですよね?」

「ええ。毎日のように報道されていますから」

「あれ、霊的なものなのです」

 そう切り出し、俺はこれまでの出来事をすべて話した。

「一度、お会いして詳しく聞かせてください」

「わかりました。よろしくお願いします」

 こうして、幽幽寺へ行くことになった。

 当日は大雨。気分は最悪だった。

 バスで寺の近くまで行き、傘を差して長い石段を上る。狛犬の前を通り、ご本尊に手を合わせてから玄関へ向かった。

 呼び鈴を押すと、若い女性が出てきた。

「連絡した、市原武です。よろしくお願いします」

「私は先生の助手をしている、鈴間凛といいます。どうぞ中へ」

 身長は一五〇センチ台、細身で、長い髪を後ろで束ねている。

 案内されて本堂の脇を通り、階段を降りた半地下の部屋へ。

「ここでお待ちください。先生を呼んできますね」

 そう言って鈴間さんは出ていった。

 思ったより若い人で驚いた。寺も立派で、ただならぬ雰囲気がある。

 しばらくして、庵主、神矢楓が現れた。

「市原武です。よろしくお願いします」

「この寺の庵主、神矢楓といいます。よろしくお願いします」

 身長は一七〇センチほど。ショートカットがよく似合う、凛とした女性だ。

「ニュースで行方不明になっている大学生に関係していると伺っています。詳しくお話ししていただけますか?」

「はい。これが、例の手帳です」

 俺はカバンから黒い手帳を取り出し、神矢さんに差し出した。

 神矢さんは手帳を開き、ページを丁寧にめくりながら目を細めた。

「あなた方は、この手帳に書かれた手順を実行して、神社から桟橋へ移動し、そこに豪華客船が現れた。そういうことですね?」

「はい。最初は本当に豪華で舞台も演奏も食事もあって、みんな浮かれていました。でも、だんだん様子がおかしくなっていったんです」

 武は震える声で続けた。

「誰に聞いても行き先はわからない。甲板に出ても、外は真っ暗で星も見えないし、潮の匂いもしない。全部が異様でした。手帳に書いてある通り、午前0時だったのに、船では八時三五分になっていました」

 神矢さんは黙って聞いている。

「翌日、食事をしたら味がしなくなって、船員は目の前で消えていきました。乗客も、徐々にゾンビみたいな姿に変わって襲ってくるようになって・・・・」

 武の手が震えた。

「翔太が行方不明になって、残ったのは俺と、ひろみと、良夫の三人でした。手帳を掴んで海に飛び込めば戻れるって信じて、でも、良夫は襲われて柵の外側まで来られなかった。全員助からないと思って俺はひろみを抱えて、手帳を掴んで海に飛び込みました」

 そこまで言うと、武の声は涙で詰まった。

「気がついたら、元の神社でした。でも、ひろみはいなかった。その日からです。毎晩、三人が苦しんでいる夢を見るようになったのは」

 神矢さんは静かに手帳を閉じた。

「その神社に行きましょう。きっと何かがわかるはずです」

「明日はいかがでしょうか? ちょうどキャンセルが入って、予定が空いています」

「鈴凛も来られるよね?」

「私は先生の予定に合わせます」

 鈴間凛・・・・スズリン。名前の響きが妙にしっくりきて、武は少しだけ気が紛れた。

「明日、大丈夫です。よろしくお願いします」

 武は神社の住所を書いた紙を差し出した。

「それでは、明日伺います」

「明日の十時に行きますので、よろしくお願いします」

 凛が丁寧に頭を下げる。

「はい。よろしくお願いします」


 悪夢 2

 約束の時間。神社の境内で待っていると、黒い車が駐車場へ滑り込んできた。運転席からスーツ姿の男性が降り、その後ろから神矢さんと鈴凛が続く。

「私は先生の執事をしております、上田うえだと申します。よろしくお願いいたします」

「市原武です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 挨拶を済ませると、武は神社の階段を上り、手帳を拾った場所へと案内した。

「ここです。賽銭箱の横に落ちていました」

 神矢さんと鈴凛が周囲を見渡す。

「この手帳の内容だと、“この世界に持ってくる使命がある”と書かれているわね。ということは、市原さんが拾う前に、誰かがここへ持ってきたことになる」

「じゃあ、その持ち主はどこに行ったのでしょう?」

 鈴凛が眉を寄せ、考え込む。

「俺も、気が動転していて、そんなこと考えもしなかった。でも確かにそうだ」

「この神社に、まだ何か手がかりがあるはずよ」

 神矢さんは境内をゆっくり歩き、視線を巡らせる。

 そして拝殿の右裏へ回ったとき、ふいに足を止めた。

「あれは・・・・」

 敷地の隅。土に半分埋まった、不気味な顔の土偶のような人型の焼き物。

 近づくと、神矢さんにはそれが異様な青い光を放って見えた。

 彼女は小さく念を唱え、表情を険しくする。

「かなりの人が亡くなっているわね。強い怨念を感じる」

「楓先生、ここ、嫌な感じがします。私でもわかるくらいです」

「鈴凛、ここよ。この呪物が関係しているに違いないわ」

 楓先生は両手を合わせ、さらに何かを唱えた後、静かに言った。

「この呪物、人が苦しむのが好物なのだと思う。そうして死んだ魂を欲していたのかもしれない」

「なんでそんな・・・・」

「怨霊だからよ。人の不幸を喜ぶ。これは呪いね。この呪物を供養すれば、同じことは起きなくなるはず」

 そう言うと、楓先生は鈴凛に指示を出した。

「すぐに供養の準備をするわ。神社の関係者に電話して。それから、盛り塩をするから塩とお札を車から持ってきて」

「そうなると思って、もう用意してあります」

「さすが鈴凛。準備が早い」

「市原さんも手伝ってもらえますか?」

「もちろんです」

「この塩をお皿に盛って。それと、このお札を貼ってください」

「わかりました」

 その時、武が持っていた手帳が、突然手から滑り落ちた。

 地面に落ちた手帳は勝手にページをめくり始め、あるページでピタリと止まる。

「なに・・・・!」

 慌てて拾い上げると、真っ白だったページに黒い文字が浮かび上がってきた。


 “お前は指示に従わず別のものをここへ連れて来た。

 依って仲間の居る所へ戻す”


 文字が浮かび上がった、その瞬間だった。

 バチィッ!

 空気が弾けるような音とともに、あたりが急に暗く沈んだ。

 境内を強い風が駆け抜け、木々がざわめき、空からは雷鳴が轟く。

「・・・・っ! あの時と同じだ! みんな、逃げてください!」

 武は叫び、手帳を抱えたまま後ずさる。

 だが・・・・。

 眩い閃光が視界を白く染めた。

「うわっ・・・・!」

 次の瞬間、武の身体は力を失い、その場に崩れ落ち、意識は闇に飲まれていった。


 悪夢 3

 気がつくと武は、あの船の三〇五号室にいた。

 戻ってきた、のか?

 周囲を見回す。

 楓先生も鈴凛もいない。ということは、二人は“あの場”に残されたままなのだろう。

 手には、塩の入った小さな容器と、お札が三枚握られていた。

 うるう年でもない。午前0時でもない。

 なのに、なぜここに・・・・?

 本当は、いつでもよかったってことなのか?

 楓先生の言葉が頭をよぎる。

 そして、あの土に埋まっていた人型の焼き物・・・・呪物。

 どこかで聞いたことがある。

 もしあれが原因で今回の異常が起きているのだとしたら・・・・。

 外はどうなってるのだろう? 俺が逃げた時は、もうめちゃくちゃだった。仲間が、まだどこかにいるかもしれない。

 武はそっとドアを開け、廊下を覗いた。

 誰もいない。

 脱出した時のまま、荒れた廊下が続いている。

 あいつらは、どこにいるんだ。

 武は隣の三〇三号室の良夫の部屋へ向かった。

 ドアノブをゆっくり回すと、鍵はかかっておらず、ドアは開いた。

 部屋の中は荒れ放題。良夫のリュックが無残に転がっているが、本人の姿はない。

 次に三〇二号室、ひろみの部屋。

 ここも散らかっていて、ひろみの服が床に落ちていた。

 だが、彼女もいない。

 最後に三〇一号室、翔太の部屋。

 ドアを開けた瞬間、武は息を呑んだ。

「うっ・・!」

 そこには、ゾンビのような異形が、何かを貪るように食べていた。

 異形はゆっくりと立ち上がり、武の方へ顔を向ける。

 ヤバい!

 武は反射的に三〇五号室へ走り戻り、ドアを閉めた。

 あいつら、どこに行ったんだ。部屋にはいない。となると最後に逃げた甲板付近か、別の客室か?

 武は決意し、甲板へ向かうことにした。

 ドアを少しだけ開け、廊下の様子を確認する。

 誰もいない。

 左へ進み、すぐ右手の階段を上る。

 階段の上も静まり返っていた。

 甲板への扉をゆっくり開け、左右を確認してから外へ出る。

 空は相変わらず、星ひとつない暗闇。

 その甲板の端に誰かが倒れていた。


 良夫・・!

 武は駆け寄った。

「良夫! 良夫、大丈夫か? しっかりしろ!」

 良夫はかすかに息をしており、ゆっくり目を開けた。

「た・け・し」

「おお、良夫! ケガはないか?」

「腕をやられた。でも殺しはしないみたいだ。奴ら定期的にここへ来て、まともな人間をグロい殺し方で見せつけてくる。殺さないように痛めつけてから」

 良夫の声は震え、途切れ途切れだった。

「やっぱり、恐怖心を魂に刷り込んでいるってことか」

「どうやってここに戻ってきたんだ?」

「言うことを聞かずに霊媒師の先生を呼んだから、手帳が反応して俺だけ戻されたんだよ」

 説明していると足元に、妙な違和感が走った。

「・・ん?」

 視線を落とすと、床の隙間から“手”が伸び、武の左足首をガシッと掴んでいた。

「うあっ!」

 反射的に右足でその手を踏みつける。すると、手は煙のようにスーッと消えた。

「なんなんだよ、今の!」

「とにかく、ひろみと翔太を見つけないと」

 武は息を整え、扉をゆっくり開けた。幸い、廊下には何もいない。

 三〇四号室へ戻り、良夫を寝かせた。

「二人を探しに行く。良夫はここで待っていてくれ」

「わかった」

 武は再びドアを少しだけ開け、外を確認してからホールへ向かった。

 不気味なほど静まり返っている。

 中央の舞台まで来たとき、舞台袖に、二つの人影が倒れているのが見えた。

 ひろみ、翔太!

 武は駆け寄った。二人とも気を失っている。周囲に異形の姿はない。

「おい、しっかりしろ!」

 武が翔太の肩を揺さぶると、翔太がゆっくり目を開けた。

「・・武か・・? なんで・・ここに・・」

 声は弱々しく、意識も朦朧としている。

「説明はあとだ。一緒に三〇四号室に戻るぞ」

 その間に、ひろみも目を覚ました。

「たけし・・どうして・・ここに・・?」

 ひろみも同じように力が入らない様子だ。

「ここは危険だ。早く戻るぞ」

 武は二人を支えながら歩き出した。

「あいつらは・・・・常にいるわけじゃないの。ある時間になると一斉に出てきて襲ってくる。だから今のうちに行きましょ」

 ひろみが息を切らしながら言う。

 三人は急いで部屋へ向かった。

 だが、残り三〇メートルほどのところで、ゾンビのような異形が現れた。

「くっ・・!」

 武は近くにあった椅子を掴み、全力で異形に叩きつけた。

「急げ!」

 三人は走り、ギリギリのところで三〇四号室に飛び込んだ。

 鍵を閉めると、良夫がぐったりしたままこちらを見た。

「これから、どうすんだ」

 翔太が力なくつぶやいた。

「この呪いを解かないと、帰れないと思う」

「じゃあ、どうすればいいの?」

 ひろみも弱々しい声で問いかける。

 その瞬間、床から、ニリュルリと複数の“手”が生えてきた。

 四人の足を掴もうと伸びてくる。

「きゃあっ!」

 ひろみの足が掴まれ、悲鳴が響く。

 武は反射的にその手を思いきり蹴り飛ばした。

 手は煙のように消え、ひろみの足が解放される。

「こっちだ!」

 武はひろみの手を掴み、前回脱出に使ったシャワールームへ走った。

 椅子はそのまま残っている。

 それを使って点検口へ登り、武が一人ずつ引き上げた。

 床からは無数の手が生え、グネグネと蠢いている。

 武たちは前回と同じルートを四つん這いで進み、階段のある廊下までたどり着いた。

 武が下を覗く。

 不気味なほど静まり返っている。

「今だ、降りるぞ」

 三人は弱っていたが、武が支えながら階段を下りた。

 途中、階段の隙間から手が伸びて足を掴もうとする。

 避けたり、蹴り飛ばしたりしながら、なんとか甲板の扉に到達した。

 武は勢いよく扉を開けた。

 そこには、複数の異形がいた。

 異形たちは一斉にこちらへ向かってくる。

 四人は甲板の手すりまで追い込まれた。

 塩・・お札・・!

 武は塩の入れ物を掴み、異形に投げつけた。

 塩が触れた瞬間、異形の皮膚がジュッと音を立ててただれ、煙が上がる。

 だが、それでも止まらず、次々と襲いかかってくる。

 塩が尽き、次はお札を一枚、異形の顔に貼りつけた。

 貼った瞬間、異形は消えた。

 だが、四人はすでに手すりを越え、海側の狭い足場に追い詰められていた。

 その時だった。

 黒い海から、巨大な不気味な“手”が現れた。

「ひっ・・!」

 ひろみが掴まれた瞬間、武は咄嗟にお札をその手の人差し指に貼りつけた。

 指だけがきれいに消えたが、巨大な手は悲鳴を上げながら海へ沈んだ。

 しかし、すぐに別の手が現れ、翔太を掴んだ。

「ああっ!」

 翔太は叫びながら海へ引きずり込まれた。

「ひろみ! 翔太!」

 武の叫びが虚しく響く。

 次に良夫が掴まれそうになった瞬間、武は残りのお札三枚を巨大な手の甲に叩きつけた。手は消えたが、良夫はバランスを崩し、そのまま海へ落ちてしまった。

 そして、武ひとりが残された。

 最後の巨大な手が武を掴もうとした、その瞬間。

 ボンッ。

 低く重い音が響き、暗い空が一気に白く光った。

 巨大な手は溶けるように崩れ、異形たちも同じように消えていく。

 次の瞬間、閃光が走り、武の意識は闇に落ちた。


 第六章 明けた夜

 気がつくと武は、元の神社の境内に横たわっていた。

 横を見ると、翔太、ひろみ、良夫の三人も気を失ったまま倒れている。

 そのそばに、白い着物をまとった楓先生と鈴凛が静かに立っていた。

 呪物の周囲には四方に竹が立てられ、しめ縄が張り巡らされている。

 中央には祭壇が置かれ、供え物が整然と並んでいた。

「大丈夫?」

 鈴凛が優しく声をかけてくれる。

「呪物の供養は終わったわ。もう心配いらない」

 楓先生が柔らかく微笑んだ。

 その言葉を聞いたかのように、仲間たちが次々と目を覚まし、歓声が上がる。

「本当に帰ってこられたんだ!」

 翔太が叫び、ひろみは涙をこぼしながら笑った。

「帰ってきた!!」

 良夫も静かに、しかし確かな声で言った。

「本当にみんなで帰ってこられた。楓先生、鈴凛、ありがとう」

 武は涙をこらえきれず、震える声で二人に礼を言った。


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