二度と押さぬと決めた封蝋ですが、殿下になら押します
蝋が冷えるのと、人が冷えるのは、とてもよく似ているのです。
わたくし、ラシェル・アルファーラは、そう口の中で呟いた。本日の封蝋師としての最初の仕事は、自分が婚約破棄されることの拝領であった。
ラーナント王宮の北、クレーヌ伯爵邸の大広間。蝋の甘い香りが満ちる広間の中央に、新紋章の認定用の卓がすでに整えられている。本日の夜会の目的は、新興伯爵クレーヌ家の「新紋章」の公認押印である。その押印役として、宮廷蝋印師のわたくしは道具一式を持って呼ばれていた。
その広間に、婚約者ジェロム・クレーヌが壇上から告げた。
「ラシェル嬢。この場を借りて申し上げる。私はソフィア・ビロン子爵令嬢を、心から愛している。ラシェル嬢との婚約は、本日限りで解消する。皆々様、ご承知おきくださいませ」
広間に、貴族たちの無遠慮なざわめきが広がる。視線の針が一斉にわたくしに集まった。そのうちのいくつかは同情であり、大半は好奇であり、一部は嘲笑であった。
わたくしは道具箱の留め金を確かめ、静かに一礼した。
「承知いたしました、クレーヌ様」
蝋が冷える。形を保ったまま、割れない程度に。それが職人としてのわたくしの仕事である。わたくしは自分に言い聞かせ、まぶたを一度だけ伏せた。
「おや、お泣きにはならないのか、ラシェル嬢」
ジェロム様の声が、不躾に弾んだ。
「ええ」
わたくしは顔を上げた。
「蝋は、温度を間違えると割れてしまいます。ですが正しく冷えれば、形を保ちます。わたくしの仕事柄、泣くことは割れに似ておりますので」
広間がしん、と静まった。ジェロム様の頬が引きつる。しかし彼は咳払いで押し切った。
「まあ、良い。貴女の仕事は覚えている。本日は、我がクレーヌ家の新紋章認定式である。封蝋師として、きちんと押印いたせ」
わたくしはもう一度、深く礼をした。
蝋が、冷えた。
◇
「ところでラシェル嬢」
ジェロム様が壇を降りてきた。
「貴女はあれだな、蝋を焦がすという評判だな。クレーヌ家の新紋章を焦がすなよ。栄誉ある公認なのだからな」
「かしこまりました」
わたくしは道具箱から鎚と蝋を取り出しながら、控えめに応じた。
「ええ、存じております。クレーヌ様が、わたくしを『焦がし』と名付けてくださったこと。先月、使用人棟から届いたお手紙の封が、ご当主様の紋章と逆向きに押されておりました。ご当主様は鏡像の押し方をなさる癖はございませんので、おそらく代筆の使用人が大慌てで押したのでしょう。蝋の温度は180度。焦げた痕もございました。ちょうど、わたくしが蝋を『焦がす』と言われる温度でもあります」
ジェロム様の顔から、血の気が引いた。
「……何の話だ」
「先月、ご当主様がソフィア様に宛てたお手紙のお話です。封の蝋が180度で押されており、温度として少々高うございました。焦った時の温度です」
広間の静寂が、ひんやりとしてきた。ソフィア様の顔も固まっている。
「わたくしの仕事は、蝋を焦がすことではございません。蝋から人を読むことでございます」
その場は、笑いも起こらなかった。ただ、誰も息をしなかった。
ジェロム様は口をぱくぱくさせたが、結局は何も言わず卓へ向かった。
「さっさと押印せよ」
彼がクレーヌ家の新紋章証書を卓に広げる。わたくしは礼をして卓に寄り、蝋鍋を火にかけ、印章を確かめた。
──そこで、手が止まった。
新紋章の下部に記された「継承番号」と、旧クレーヌ家の紋章図録の番号が、全く合わない。クレーヌ家は2代前に傍系から本流に移った家柄である。継承番号は傍系の4番でなければならぬはずが、目の前の書類は本流の1番を名乗っている。
つまり、この紋章は、偽造である。
◇
わたくしは蝋鍋から火を外した。
「申し訳ございません。この認定、本日はお預かりさせていただきとう存じます」
ジェロム様が目を見開いた。
「何?」
「継承番号に不審がございます。宮廷蝋印師として、確認の取れぬ紋章に王家の蝋印を押すことはできませぬ」
「貴様……っ、貴様、婚約破棄の腹いせか!?」
「いいえ」
わたくしは静かに応じた。
「二度と、偽りの蝋は押さぬと、蝋印師として誓っております。それだけでございます」
広間の扉が、開いた。
足音が、鮮明であった。一度だけ。それから、もう一度。そして広間の中央まで、一直線に歩いてくる人影があった。
第二王子、セドリック・ラーナント殿下であった。
監察長官の白い外套。あの外套の裾は、決して床に擦らぬ歩幅でなければ着られない。殿下はいつも、その歩幅で歩いておられた。
「ラシェル嬢」
殿下はわたくしの前で、お立ち止まりになられた。
「その判断は、正しい」
広間のざわめきが、別種のざわめきに変わった。
「クレーヌ伯爵家の紋章申請には、以前より監察室に疑義が寄せられていた。本日の認定式は、監察長官として中止を宣言する」
ジェロム様の顔が、真っ白になった。
「殿下、お待ちください! 我がクレーヌ家は──」
「ラシェル嬢」
殿下はジェロム様を一度もご覧にならず、わたくしに続けられた。
「明日の朝、監察室にお越し願えるか。貴女の3年分の記録台帳を、お借りしたい」
──3年分?
わたくしは顔を上げた。殿下の目が、わたくしの目を正面から受けておられた。
「殿下は、わたくしの仕事の記録を……?」
「3年前、7月21日。貴女の最初の公印の圧は、右親指で17グラム。蝋の温度は162度。印章から蝋を剥がした時の音が、少しだけ震えていた。覚えている」
わたくしは、息が止まった。
広間の誰も、何も言えなかった。
「では、明日」
殿下は一礼なさり、広間を退出された。
蝋鍋の中で、火のない蝋が、まだ柔らかく揺れていた。
◇
翌朝、わたくしは監察室に参上した。
机の上には、本当に3年分の封蝋が並んでいた。一枚、一枚、紙片に貼り付けられ、日付と時刻まで記されていた。わたくしが覚えていないものまで、そこにあった。
「……これは」
「僕の仕事である」
殿下は簡素な執務椅子に座っておられた。外套は脱がれていたが、背筋はやはり真っ直ぐであった。
「文書監察長官として、王宮に押される封蝋は全て検分する義務がある。その一環である」
「一環、でございますか」
「一環である」
殿下はそこで、ほんのわずかに、咳払いをなさった。
「用件であるが、貴女にクレーヌ家の偽紋章調査を、主任として委嘱したい」
「…………」
「返事は」
「お時間をいただければ」
「3年前から差し上げている」
わたくしは蝋鍋を落としそうになった。蝋鍋は出してもいなかったのに、錯覚で落としそうになった。
「……殿下、それは、どのような意味で」
「そのままの意味である。貴女が本日、承諾するか断るかの決断のために、3年分の時間を差し上げてきた、ということである」
「殿下、それは」
「言い換えるなら、3年前から貴女を見ていた、ということでもある」
わたくしは、口を開けて、閉じた。
「ご冗談でしょう」
「僕は冗談を申し上げる才能が、生来ない」
殿下は、真顔であった。執務椅子の背に、一度だけ触れられた。指の腹が、少しだけ震えていた。
「主任の話である。お受けいただけるか、ラシェル嬢」
「……お受けいたします」
わたくしの声は、蝋が水に触れた時のような、微かな沸きであった。
◇
それからの数日は、蝋の圧と温度の日々であった。
殿下とわたくしは監察室の一室にこもり、各地の新興貴族の紋章証書を一枚ずつ検分した。偽造の痕跡は、蝋の中にすべて残っている。印章を押す時の迷い、鎚の重さへの慣れ、あるいは不慣れ、印章の凹凸が蝋を逃がす深さ。それらは、紋章師の仕事と共犯する「封蝋師の目」でなければ拾えぬ証拠であった。
「ここが弱い」
殿下が一枚の封蝋を、お指しになった。
「クレーヌ家の分家、オラン子爵の家紋である。蝋の上部に、押印の迷いが見える」
「はい。左手の添えが、浮いておられます。この家の前当主は右利きでしたので、左手の添えに慣れておられません。これは……替え玉の押印かと」
「貴女の目は、本当に読めるのだな」
「はい」
「僕の封蝋も、読めるものか?」
殿下は執務机の抽斗から、一枚の封蝋をお取り出しになった。王家の白い蝋に、王家の紋章。見覚えがある──わたくしが3年間、数限りなく押してきた印章であった。
「僕の封蝋は、貴女に読まれたことがあるかな」
「……はい。いつも」
「どう見えていた」
「…………」
「職務上の見立てとして、構わぬ」
わたくしは蝋を手に取った。職業病が、わたくしの口を勝手に動かした。
「殿下の押印は、蝋の温度が170度前後で安定しておられます。右親指の圧は15グラム強、やや強め。ご迷いは、いつも3秒未満でございます。ですが、3年前の7月……あの、最初の書類の折は、迷いが長うございました。8秒」
「8秒」
殿下が、小さくお繰り返しになった。
「あの8秒は、何を迷っておられたのでしょう」
殿下の耳が、赤かった。
「宛名を、書き直したのだ」
「宛名、でございますか」
「誰に書くべきかを、迷った」
殿下は、視線を逸らされた。外套の裾が、机の下でわずかに揺れた。
「どなたか、ご存じで」
「貴女である」
殿下はそれだけ申され、次の封蝋をお取り出しになった。
わたくしの指先の蝋が、勝手に温まった。
◇
調査が進むほど、偽紋章の枝は、一つの幹に繋がっていった。
幹は、クレーヌ伯爵──ジェロム様の父君であった。
「……元締めは、クレーヌ家でしたのね」
わたくしは手元の紋章系統図を見つめた。オラン子爵、マジェル男爵、ビロン子爵。いずれもクレーヌ家の偽紋章商売の下で、貴族格を上げた家々であった。偶然にも──偶然ではないが、ジェロム様の新しい「愛」であるソフィア・ビロン嬢の家も、その末端に連なっていた。
「ラシェル嬢」
殿下がわたくしの前に、お立ちになられた。
「公的な告発をすれば、クレーヌ家は解体される。貴女の元婚約家も、もう存在しなくなる。……それは、貴女にとって」
「これは、わたくしの仕事にございます」
わたくしは殿下を見上げた。
「封蝋師は、偽りの蝋を押しません。押すべきでない蝋を押さぬのも、仕事でございます」
「それは、職務上の答えだな」
「はい」
「職務上ではない答えは、あるか」
わたくしは蝋を置いた。指先が、まだ熱を持っていた。
「……殿下。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「殿下がわたくしを主任にご指名になられたのは、クレーヌ家告発のために、わたくしが元婚約者であることを利用するため、ではございませんか」
わたくしの口は、自分で思うより、早く動いた。
「それならば、わたくしは、殿下の……駒でございます。それで、構いませぬ。ですが、一つだけ、確かめさせてくださいませ。殿下にとってわたくしは、封蝋師として必要なのでしょうか、それとも、駒として必要なのでしょうか」
殿下は、わたくしを見つめておられた。答えは、すぐには返らなかった。
「明日、答える」
殿下は短くお応えになり、部屋を、お出になった。
その夜、わたくしは蝋鍋に火を入れ、一人で印を押す練習をしていた。蝋は何度も冷え、何度も割れた。
◇
翌朝、殿下は告発の準備を、淡々と進めておられた。
わたくしの問いへの答えは、戻らなかった。
「ラシェル嬢、明後日、王会議を開く。貴女は証拠陳述を担当する。準備を頼む」
「かしこまりました」
殿下はわたくしの目をご覧にならずに、そう申された。
わたくしも、殿下を見なかった。
王会議までの2日間、わたくしたちは監察室で肩を並べ、証拠を並べ、陳述の順を詰めた。殿下の指は、時折わたくしの手の近くに触れそうで、触れなかった。触れれば、昨日の問いの答えを出さねばならぬから、触れぬのだと、わたくしは察した。
──この方は、答えを出されるまで、お触れにならない。
わたくしは、それが殿下なりの誠実であると、察してしまった。
察してしまったら、むしろ苦しかった。
殿下は、冷たくは、ない。だが、答えをお持ちでもない。それは、わたくしを職務上の駒として使う可能性を、殿下ご自身も完全に否定できぬことの表れであった。3年分の封蝋を保管していても、8秒迷った宛名を書き直していても、それは愛とは別の情かもしれぬ。そして、わたくしは、その区別を殿下に求める立場にはない。没落伯爵家の、焦がすと言われた封蝋師である。
わたくしは蝋を一つ、また一つと卓に並べた。
告発の日が、きた。
◇
王会議の大広間。国王陛下の御前。クレーヌ伯爵、ジェロム様、ソフィア様、そして各地の偽紋章下請け家。全員が召喚されていた。
「本件、封蝋師ラシェル・アルファーラより、陳述を求める」
監察長官としての殿下のお声が、大広間を走った。
わたくしは、前に出た。
「クレーヌ伯爵家の新紋章は、継承番号において偽装がございます。また、蝋の圧と温度の癖を鑑みまするに、クレーヌ家当主が、ご自身の蝋印ではなく、小間使いに押印をさせておられます。さらに、オラン子爵、マジェル男爵、ビロン子爵の認定書、いずれにおきましても、蝋の左手添えの癖、鎚の重心、印章の凹凸の磨耗、これらが全てクレーヌ伯爵家所有の印章から逆算いたしますと、」
「待て! 待て、ラシェル嬢、分かりやすく言え!」
ジェロム様が割り込まれた。
「これ以上、分かりやすく申し上げようが、ございませぬ」
わたくしは一度だけ目を閉じた。蝋を押す時の呼吸である。
「要するに、クレーヌ家は3年前より、紋章の偽造販売で収益を得ておられました」
国王陛下の目が、鋭くなられた。
ざまぁは、3層で来た。
一層目。クレーヌ家の新紋章は認定却下。
二層目。クレーヌ伯爵家は、爵位剥奪の審議入り。
三層目。ビロン子爵を含む下請け家は、全員が貴族資格の再審査対象となった。
ジェロム様は、顔面蒼白であった。ソフィア様は、座り込んで声も出なかった。
証拠の最後、殿下が一枚の封蝋を、お取り出しになった。
「この封蝋は、3年前、7月21日。ラシェル嬢が王宮に仕えて初めて押された公印である。監察長官として、僕が最初に検分した封蝋でもある」
殿下は、わたくしの目を、ようやく見つめられた。
「この蝋の歪みを、僕は今でも毎朝見ている。毎朝、監察室の抽斗を開けて、確かめる。彼女の仕事が、今日も正しく進んでいるかを」
広間は、息を呑んだ。
「……殿下」
「これが、僕の答えである、ラシェル嬢」
◇
王会議が終わったあと、わたくしは道具箱を抱えて、監察室を出ようとした。
「ラシェル嬢」
殿下が、お追いになられた。
「貴女は、今日をもって、僕の監察室筆頭である。宮廷蝋印師長を兼ねる、封蝋監察長官という位である。王令は、3年前より、既に発行してある」
わたくしは、立ち止まった。
「3年前……?」
「貴女を僕のもとに置くために、僕は3年前に、その王令を発行した。だが、押印はしなかった。蝋を、押せなかった」
「なぜ」
「僕の名で蝋を押すなら、僕の答えが揃ってから押したかった」
殿下は、懐から小さな証書を、お取り出しになった。封蝋の押されていない、白紙の王令であった。
「今、押してくれるか。貴女の手で」
「殿下、それは、自分の任命書を自分で押印せよと」
「そういうことになる」
「……それは、規則としては」
「規則は僕が書ける。ついでに、封蝋師は王家の妻に相応しからずという慣例も、書き換えた」
「殿下、」
「ラシェル」
殿下が、初めてわたくしの名を、爵位抜きでお呼びになった。
「僕は、貴女を愛している。蝋の癖を愛しているのではない。蝋の癖を見つめ続けた、貴女の手を愛している。その手で、僕の名に蝋を押してほしい」
わたくしは、蝋鍋に火を入れた。
蝋が、温度を帯び始めた。
170度。殿下のご押印の温度と、同じ適温である。
「殿下」
「何だ」
「殿下のご封蝋と、わたくしの封蝋、重ねてもよろしゅうございますか」
「……どうぞ」
わたくしは王令に、殿下の御名を、そしてわたくしの封蝋師の印を、重ねて押した。
蝋は、今度は冷えても、割れなかった。
◇
1年後の、7月21日。
わたくしは、監察室の抽斗を開ける。3年分の封蝋は、今では4年分である。最後の一枚は、わたくしと殿下の印が重なった、王令の封蝋である。
蝋は、固まっていても柔らかい。指で押せば、わずかに凹み、また戻る。3年前の一枚は、もう硬い。だが4年目のこの一枚は、まだ柔らかい。
殿下が後ろから、覗き込まれた。
「貴女も、毎朝見ているのか」
「はい。殿下の真似でございます」
「僕は今も毎朝見ている。今朝も見た」
「存じております。今朝、殿下の指先の熱が、この蝋に残っておりましたので」
殿下は、小さく、お笑いになった。
わたくしは、王令の封蝋に、人差し指の腹を当てた。殿下の指の熱が、まだそこに、あった。
蝋は、冷えても、割れない。
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少しでも、
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