四.五章
大学の研究棟は、午後になると灰色に沈んだ。
窓は狭く、光が届く範囲は机の上だけだった。
教授はいつもその狭い光の中で、
古びたノートにチョークの粉を落としていた。
「綾香、君は“価値”という言葉をどう定義する?」
黒板に向かったまま、教授が言った。
「……経済的な価値ですか。それとも存在としての?」
「両方だよ」
教授は笑って、チョークで数式を書いた。
V=B×C
「ValueはBeliefとCirculationの積。
信仰がなければ価値は生まれない。
流通しなければ信仰は腐る。
この式は、貨幣にも芸術にも宗教にも通用する」
綾香はその文字をノートに写した。
白い粉が落ちて、ページに静かに積もった。
「教授、それは経済学ですか?」
「いや、神学だよ」
教授は笑いながら言った。
「市場が神を作る。
今の社会は“信用の神”を祀っている。
仮想通貨も株も、結局は人の信仰を可視化しただけだ」
綾香は息を飲んだ。
教授の横顔が、ランプの光で淡く照らされている。
「では、信仰を封じたら?」
「――永遠に価値が続くかもしれない」
教授の声が、低く沈んだ。
「君ならできるかもしれないな。
科学と美術の境界で、
信仰を“観測”に置き換えればいい」
その日、綾香は「封印の理論」という言葉を初めて聞いた。
⸻
数年後。
研究室は閉鎖され、教授は行方を絶った。
理由も告げずに。
ただ一冊のノートだけが、綾香の机の上に残っていた。
表紙に書かれていたのは、
「V=B×C」
そしてその下に、細い文字でこう記されていた。
“信仰を観測に置き換えよ。”
綾香はそのノートを閉じた。
光が差し込まない研究棟で、
彼女はひとり、観測装置ではなく筆を手に取った。




