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五章


 潮風が冷たくなった。

 秋の気配が混じる海は、光を吸い込むように静かだった。

 カウンターの上に肘をつき、

 窓の外に漂う雲の形をぼんやりと眺める。


 綾香が最後に現れてから、一月が経った。

 店の奥には、彼女が置いていった録音機がまだある。

 動かす気にはなれなかった。

 あの人の声をもう一度聞くことは、

 何かを壊してしまう気がした。



 祖母がカップを洗いながら言った。

「ねえ、湊。テレビで見たよ。

 オークションで、あの“リュミエの絵”が三億だって」

「……そうなんだ。」


「でも、あの子の目、どこか覚悟してるようだった。

 描くっていうより、祈ってるみたいでさ」


 答えず、手の中のカップを磨き続けた。

 祖母はしばらく黙って、それから小さく言った。

「光を描く人は、自分の中の闇を見つめてるのかもしれないね」


 その言葉が、胸の奥に沈んだ。



 夜。

 録音機を取り出した。

 ほこりを払うと、微かに海の匂いがした。

 ボタンの上に指を置く。

 けれど、押さなかった。


 代わりにテレビをつける。

 オークションの映像が流れていた。

 強い照明の下、白い壁に一枚の絵が飾られている。


「出品番号八十七、《LUMIÉ #01》。

 キャンバス裏にはリュミエ・トークン発行記念コインが封入されています。このコインには1リュミエ分のトークンが含まれており現在リュミエの時価は1リュミエ2億円相当!

 暗号貨幣の実物化――芸術と市場を結ぶ新しい価値実験です!」


 会場がざわめき、拍手が起こる。

 価格が上がるたび、フラッシュの光が走る。

 声と数字と光が交錯し、空気が熱を帯びていく。

 誰も絵を見ていない。

 数字を見ている。


 音量を下げ、画面を見つめた。

 描かれた青年の顔。

 その頬を撫でる光の線。

 あのときと同じ角度の光。


 ――彼女が閉じ込めたのは、価値じゃない。


 あの絵は、誰かの信仰を測るための鏡だ。

 金属の中に封じられた通貨よりも、

 その外で光っている「視線」がきっと本当の価値



 翌朝、小包と封筒が届いた。

 差出人の名前はなく、封筒の中には一枚の写真。


 《LUMIÉ #01》の一部――

 瞳のみが描かれた絵の写真。

 

 その下に、小さな文字。


 ――「光は、逃げなかった。

   あなたが、見ていてくれたから。」


 小包の中に入っていたのは、その目元だけが書かれたキャンバスだった。

 裏には、金属の輪郭が浮かんでいる。

 指でなぞると、ほんの一瞬、熱が走った。

 音のない鼓動のように、微かに震えていた。



 外に出ると、潮の匂いが濃くなっていた。

 光が海の面を駆けていく。

 湊はその光を見つめながら、

 ゆっくりと息を吸った。


「世界は、信仰で動いてる。

 でも、あの人の光は……誰のものでもない。」


 波が砕け、白く散った。

 その瞬間、光が一度だけ跳ね上がった。


 目を細める。

 頬を撫でる風の中で、

 まるで誰かが微笑んだような気がした。



 その日、夕暮れの喫茶店には誰もいなかった。

 カップの中の珈琲が、窓辺の光を反射している。

 揺れる表面に、海が映っていた。


 それを見つめて微笑む。


 光は逃げなかった。

 ただ、形を変えただけだ。


 照明を落とし、

 薄闇の中で最後のカップを拭いた。

 静かな光が、

 その手の中に、確かに残っていた。

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